第16話 墓場

 夕食も半ば、二人で分け合った一本のワインがほどよく回った頃、藤巳は最も聞きなれない単語について聞いてみた。

「魔法って何だ?」

 アンチモニー校長は藤巳の問いに、子供に童話を読んで聞かせるように答えてくれた。

「魔法というのは、自然界に存在する力を任意に取り出す技術です。数世紀前に古来より伝わっていた魔法の技能体系が構築され、わたしたちの暮らしは大きく変わりました」

 藤巳には目の前に居る十代前半の少女にしか見えない校長が、見た目なりに絵本の中の物語を信じているようにしか見えなかった。

 この少女に話を合わせるにはどうしたらいいか、そう思った藤巳はグラスのワインを飲み干した。

「具体的に何が出来るのかを教えて欲しい」

 校長はまだ先ほど飲んだワインの酔いが醒めぬ顔のまま、話の内容に似合わぬ冷静で理知的な口調で答える。

「基本的には物を動かすこと。人に持ち上げられぬ物を持ち上げたり、転移させたり、また、物質を構成する成分を動かすことによって性質を変化させたりもします」

 藤巳は魔法の原理や歴史じゃなく、自分が興味あるもの、直接の利害があるものに絞って聞いてみた。

「じゃあ俺のシェビー、ここではドラゴンと呼ぶこれのガソリンがいつまでも減らないのは、その魔法というもののせいか?」

 校長は少し首を傾げて藤巳に聞き返す。この校長は疑問を覚えた時、好奇心を見せた時の顔が可愛いな、と思った。

「藤巳さんの居た世界では走ると減るのですか?」

 藤巳は自分がこのシボレーを走らせ続けるために経験した苦労を思い出しながら答える。

「当たり前だ。ガソリンは300kmも走れば空っぽだ。タイヤもオイルも消耗するし、一万kmも走ればエンジンはオーバーホールしなきゃならない」

 校長は藤巳の背後に停めているシボレーをしばらく眺めた後、自分のすぐ後ろに停めてあるランボルギーニを撫でながら答える。

「ドラゴンがこの世界で特異な存在とされているのは、それ自体が魔法を構築しているからです。選ばれたドラゴンドライバーが乗り続ける限り、ドラゴンは自らに必要なものを自ら得て動きます」

 藤巳には信じられなかった、車の維持に必要なコストが存在しない世界、今までの苦労から開放されたような、あるいは馬鹿にされたような複雑な気持ちがした。

「ガソリンも消耗部品もいらないのか?壊れたらどうする?」 

 校長は言葉を濁していた。言いにくいことがあるのではなく、どう説明したものか迷ってる顔。何かを思いついた顔をした校長は、肉料理の皿に置かれたナイフを手に取る。

 それから校長は自分のランボルギーニのフェンダー迷いなくナイフを突き立て、そのまま横に引く。

 ギギギ、というイヤな音に藤巳は眉を潜めた。未だに職人の手作業で塗装されているランボルギーニ。塗装補修するとなると数十万、ボディ全体を塗り直すなら百万円近い金が飛ぶ。

 校長は自分でつけた傷をしばらく撫でていたが、塗膜を削り下地にまで達した傷が、鉛筆で書いた線を消しゴムで擦ったように消えていく。

 傷は数分で消滅し、ボディは元通りの黒い光沢を取り戻す。校長は手品を披露したような自慢げな顔で、藤巳にナイフを手渡した。

「あなたのシボレードラゴンで試してみますか?」

 藤巳は自分の車を自分で傷つけるのは出来れば遠慮願いたいと思ったが、このシボレーは美術館の収蔵品ではなく実用のために乗っている、走れば傷はつくものと割り切り、ナイフを受け取って台尻でフロントバンパーを一撃した。

 それまで藤巳の顔とレストランの灯りを鏡のように映していた、鋼板をクロムメッキしたバンパーにエクボに似た傷がつく。藤巳は鉄のバンパーに映る歪んだ顔をしばらく見ていたが、鏡像がゆらっと動いたかと思うと、バンパー全体が動物のように蠢き、それはやがて驚愕した藤巳の顔を正確に映した。

「ふざけてやがる」

 車は走らせるためにあって、走行に必要な整備や補給は必要悪だと思っていた藤巳も、もう何の手間もかからなくなったシボレーを見て、自分の知っているシボレーじゃない別の物になった気分がした

「俺のシェビーが幽霊になっちまった」

 藤巳は一つの結論に達した。

 ここは車の墓場だ。

 

 それからも藤巳は、明日からの学園生活に関する細々とした説明を受けたが、ほとんど頭に入らないままディナーを終えた。

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