第3話 フェラーリの娘

 白い、という感想しか涌かなかった。

 藤巳には目の前にある物全てが理解できない。

 愛車シェビートラックに一千馬力のパワーを与える新装備ニトロのテストをしていた彼は、砂漠の真ん中の道で何も見えなくなるほどの加速の中で宣伝文句通りの1千馬力を味わった後、減速で戻っていく視界の中で自分が見覚えの無い場所に居ることに気付いた。

 白く平坦な地面がどこまでも続き、周囲には何も見えない。

 遠くに見える靄のような物も、物質なのか白い地面を反射した陽炎なのかわからない。

 似た風景なら見たことがある。水の替わりに塩が満たされた塩湖。アメリカ大陸にも幾つかあり、しばしば自動車やバイクによる最高速アタックの会場として使われている。

 藤巳が働いているアリゾナの自動車博物館。そこから一番近い塩湖は隣のユタ州にある。

 まっすぐ北上して千kmほど走った先にあるユタのソルトレイクまで知らないうちに走っていたとは思わない。

 藤巳は意識が飛ぶような薬物の類をやらないし、第一そこまでシボレーのガソリンが持たない。

 そう思った時、藤巳は自分が無意識に白い地面の上をシェビーで走り続けていることに気付いた。

 この地面は走りやすい。路面の粘着性はアスファルトほどではないが、藤巳が以前少し走ったことのある塩湖よりタイヤの食いつきがよく、凹凸も少ない。

 ただひたすら何も無い地面を、太陽の位置だけを目安に今まで走っていた方角へと走り続ける。

 気分に任せてアクセルを踏み込んでしまいそうな右足を制御した。高性能と引き換えに決して燃費に優れてはいないシェビー。どこに行けばいいのかもわからないならガソリンを節約しなくてはいけない。

 時間にしてほんの数十分だったのかもしれない。どう走ればいいのかさえわからぬ無の世界に恐怖を覚えた頃、やっと白い地面以外の物体が見えてきた。

 白の中で映える緑と赤。近づいていくに従って、それはちっぽけな木々の茂みとその下にある赤い物体であることがわかる。

 植物に詳しくない藤巳には何の木かもわからぬ広葉樹が数本と下這えの草。それらより藤巳にはずっと親しみのある赤い物。

 フェラーリ・365デイトナ 

 藤巳が幼い頃から憧れていたイタリアの高性能車。思わずフェラーリの真横にシェビーを乗りつける。

 シェビーを停め、ドアを開けて外に出た。日差しの割りに気温が意外と高くないことを知る。アリゾナの博物館に住み込みで働くようになって忘れかけていた日本の気候に似ている。

 しゃがみこんで地面を撫でた。掌を舌先で舐めてみるとしょっぱい。やっぱりここは塩湖だった。藤巳の知っているユタやアラスカの塩湖に比べると塩の粒子がずっと細かく均一で、しょっぱいグラニュー糖のような感じ。

 それで現状の確認は終わり。藤巳はずっと気になっていたフェラーリ・デイトナに歩み寄った。

 たとえここがどこであろうと、目の前にこんな凄い車があればよく見ずにはいられない。フェラーリの背後にある、塩湖に浮かぶちっぽけな島といった感じの緑地帯の事など後回しでいい。藤巳は自分にとって大切な物と、重要度の低い案件が何かくらいわかっているつもりだった。

 緑地に横付けされたデイトナを回り込んで特徴的なボディラインを眺めていた藤巳の耳に、背後の茂みが揺れる音が聞こえた。

 このフェラーリのオーナーだろうか?藤巳は勝手に近寄って眺めた非礼を詫びつつ、フェラーリについてお喋りでもしようかと思った。

 もしもそのフェラーリオーナーが藤巳のシェビーを馬鹿にするようなら、この塩湖で実際に走って見せてわからせてやるのもいいだろう。その後でここがどこか、最寄りのガソリンスタンドはどこかを聞けばいい。そんな事を思いながらフェラーリの観察を続けた。

 背後から聞こえたのは予想に反して若い女の声らしい。どんな訛りの英語を喋るのかと耳を澄ませたが、なぜかその考えが途中でかき消された。

「あれードラゴンの声が聞こえたけど誰か来たのー?マスタングのアーテルちゃん?もし水浴びしたいならちょうど今上がるとこだから」

 声の主が息を呑むのが聞こえる。緑地の茂みから出てきたのはフェラーリに似合わぬ女。

 赤い髪の女の子は一糸まとわぬ裸だった。

 

 藤巳は目の前にある不足気味な情報から推測する。きっとこの女は緑地の奥にある池かプールで水遊びでもしていて、服を置いたフェラーリに裸のまま飛び込もうとしたんだろう。

 ドア前に立つ藤巳に通せんぼされる形となった赤毛の女の子は、口をあわあわと開けたまま俺の姿に絶句している。おかげで藤巳は彼女の姿を観察することが出来た。

 赤く長い髪は藤巳の知っている赤毛より赤みが強く、どこか人間らしからぬ雰囲気を感じさせる。 

 猫目気味の整った顔立ちはまだ中学生とも高校生とも判断つかぬほど幼いが、体型は女らしくバストは充分に発達していた。ウエストは締りヒップもたっぷりしている。背はかなり高く男子としては中背の藤巳と同じくらい。百七十cmくらいか。赤毛のせいか人種は判別出来なかった。

 少女の何も身につけていない下半身に視線を移した藤巳は、最初に左足を見た。

 未だ油圧になっていないフェラーリのクラッチは重く、渋滞路で発進と停止を繰り返していると男でも左足が負担にブルブル震えてくる。

 その赤毛の少女は長身と豊満な体に似合いの、陸上競技でもやってそうな両脚をしていた。藤巳が見る限り合格。

 それから藤巳は幾つかの問題が発生していることに気付いた。その少女が藤巳の姿を見て今にも酸欠を起こし倒れそうな顔をしていること。もう一つ、彼女の左足が持ち上がり、靴裏が俺に向かって飛んでくることだろうか。

 緑地を震わすほどの悲鳴。裸の赤毛少女はフェラーリのクラッチで鍛えた左足で、藤巳を思いっきり蹴っ飛ばした。

 吹っ飛んだ藤巳は背後のフェラーリのボディに叩きつけられる。思わず口から「ゴメン!」と言葉が出た。どうやらフェラーリに傷がついていないことに安心する。

 「済まない。覗く気は無かったんだ。あっちを向いてるから服を着て欲しい」

 藤巳は背を向けたままフェラーリから離れ、隣に停めたシェビーに歩み寄ってボンネットに両手をついた。幸いアリゾナに来て以来まだ経験の無い、保安官に捕まった時の格好。

「勝手にジロジロ見たことは許して欲しい。あまりにも綺麗だったから」

 何一つ嘘は言っていない。

 藤巳は年頃の男子なりの女子への興味はあった。女の性格にうるさいタイプではないが体型の綺麗な女に対しては人並みより欲深いさえと言われている、ただ、もっと美しい物を目にすると、周りの木々や風景、あるいは女がただの物にしか見えなくなる。 

 まだ蹴り足りないらしく地面にダンダン!と足を叩きつけていた少女は、藤巳の言葉に何か勘違いしたのか、自分が裸であることを思い出したのかキャッと声を上げた。それから藤巳に向かって叫ぶ。

「こっち向いたらわたしのフェラーリで引きずってやるわよ!」 

 フェラーリのドアを荒々しく開けて乱暴に閉じる音。それからもう一度ドアが開く。

「300キールマールでね」

 再び閉じられるドアの音に、藤巳はもっと丁寧に扱って欲しいと思いながら片手を上げて了解を示す。

 随分ひどい訛りのある女の子みたいだが、デイトナは300キロメートルは出ない。

 フェラーリの中でゴソゴソとする気配の後、チャコっというフェラーリのドア独特の開閉音が聞こえた。

 背を向けていた藤巳にも、シェビーの窓ガラスに映って見えていた赤毛の少女は、白い服を着ていた。

 純白の詰襟シャツに同色のスラックス。自衛隊の制服に似ている気がする。どちらもキッチリとアイロンが当てられていて染み一つ無い。首にはフェラーリのボディと同じ赤いスカーフが巻かれている。靴は革のローファーだがヨットマンが履くデッキシューズのように底が薄い。

 身支度が整ったようなので、振り向きながら話しかける。

「もういいか?」

「まだよ!」

 藤巳は鋭い返答に圧されるように再び背を向ける。

 赤毛の娘がフェラーリの前を回ってシェビーの横まで歩み寄ってくる足音が聞こえる。少女は藤巳の首筋を掴んだ。

 パワーステアリングなんて機構の無いフェラーリのステアリングと、重いシフトレバーを操作する握力で藤巳の襟首を絞め上げる。藤巳には呼吸の苦しさより、彼女がどうやらこの車に乗るのに充分な膂力を備えているらしい事への安堵のほうが強い。

「あんたに聞きたいことがあるわ。一つはあんたはどの国のドラゴンドライバーか、もう一つは、何で男がドラゴンに乗っているのか」

 わからない事がまた増えた。

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