第2話 シェビー
藤巳はシボレーのトラックで砂漠の一本道を走っていた。
道路脇に現れる白い建物は、うっかりすると何かの工場か発電、測候の施設だと思って素通りしてしまうほど地味で目立たない。
案内看板らしき物が何ひとつ無い私道で道を曲がり、窓の無い建物の裏手に回ると、一列に並ぶシャッターが見える。
そのうちの一枚が開けられた入り口にシボレーを突っ込ませた。
建物の内部は外見ほど地味では無い。学校の体育館ほどもある内部スペースは蛍光灯で煌々と照らされ、十数台の磨き上げられた車が並んでいた。
フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニ、ジャガー、ダットサン、アルピーヌ、世界各国の高性能車。
それらの車に比べれば少々くたびれた外観のトラックを停めたトミは、ドアを開けて車外に降りた。
二人の男が近づいてくる。一人は長身の黒人で、もう一人は小柄な白人。
「相変わらず早いな、トミ」
「いい音させてんじゃねーか」
二人の男に軽く手を上げる挨拶をしたトミは、トラックの後部から荷物を下ろし始めた。
高良藤巳は、東京で外車販売業を営む一家の息子として生まれた。
幼少期から世界の名車に囲まれ、高性能な車がなによりも好きだった藤巳は、高校に進学したぐらいの頃から無免許で始めた車の運転と整備に興味を持ち始め、自動車で飯を食う近道となる工業系の大学を志望した。
藤巳の父親は、自身が放浪の日々を過ごしながら気まぐれに始めた外車ブローカーで財を成したこともあり、藤巳の進路についてうるさい事は言わなかった。
藤巳自身も今まで、車に夢中で真面目とはいえない授業態度ながら勉強で悪い成績を取った事が無いことで、受験を楽観視していたが、事前の模試では充分な成績をとりながら、本番の問題との相性、悪天候による遅刻、体調不良等の不運が重なり、あっさり不合格となった。
このまま浪人生活を送るか大学以外の進路を見つけるか決めかねた藤巳は、父の協力でワーキングホリデービザを取って北米アリゾナ州に渡り、父と以前から付き合いのある自動車博物館で働き始めた。
幼い頃から父の仕事の関係で日米を往復する日々を過ごしていた藤巳は、英語は問題なく喋れた。
極度に乾燥した機構は車に錆びや腐食が発生させないこともあって、アメリカ中西部砂漠地帯には高級車の在庫保管業を兼ねた私設の博物館が数多く存在し、藤巳が身を寄せたホットホイール博物館も、ある事業家が収集した世界各国の名車が、ごく一部の紹介を受けた顧客のみに公開され、より高額な値段で売られる日を待っていた。
藤巳の仕事は博物館の設備や収蔵された車のメンテナンスに必要な各種の資材を、博物館から数十km離れた貨物集積所から運ぶ仕事。
日本ほど物流の発達していないアメリカ中西部。運送業者に頼むといつまでかかるかわからない仕事なら、自前のバイト運転手にやらせたほうが効率的という判断で雇われが、藤巳自身は給料は安くともこの仕事を気に入っていた。
博物館職員のフランクリンとミントは気のいい奴だし、与えられた下宿の部屋の窓からは博物館に収蔵された車が見渡せる。
そして、この仕事をやめられないもう一つの理由。
藤巳に仕事用として与えられた車。一九七四年式シボレーC-10。
ピックアップトラックという自動車区分が存在する。
業務用と自家用を兼ねられる乗用車サイズのトラック。
同種の車は日本や欧州にも存在するが、アメリカのピックアックトラック市場は世界のどの国より大規模なものとなっている。
生活必需品という理由で税金の減免を受けられるため、北米では戦後から今に至るまで最も数多く売れている車の第一位をシボレーのCタイプ、フォードFシリーズ等のピックアップトラックに占められている。
車両も税金も安価なピックアップトラックは乗用車と共通の車体、エンジンゆえ豊富な改造パーツが流通していてファミリーや個人事業者だけでなく若者にも人気がある。
藤巳が博物館の倉庫で見つけた、シェビーの愛称で呼ばれる黄色いシボレーC-10ピックアップトラックも、前オーナの手による各部の改造が施されていた。
博物館の物資輸送にはもっと年式が新しく無改造のフォルクスワーゲン・バンもあったが、藤巳は誰からも乗られることなく埃を被っていたシェビーで仕事をすることを望み、あっさり許可された。
それからすぐ、藤巳はこのシボレーが途方もないパワーを宿していることを知った、
シボレー・コルベットのローカルレース車両から剥ぎ取ったエンジンに加え、サスペンションはサブフレームとパイプで作り直され、ボディの各部にも強化が施されていた。
トミがやったことはといえば洗車と、博物館職員のフランクリン、ミントの協力で行われた簡単な消耗部品の交換ぐらい。
博物館の車両に馬力やトルク等の釣書きを付けるため館内のメンテナンス室に設置されたシャーシダイナモ型測定器にかけたところ、OHVのアメリカ車としては驚異的な8000回転まで回ったエンジンは九百馬力を絞り出し、トルクは測定器を破壊してしまうほどの数値ゆえ不明。
何より凄いのは、これほどのパワーを発揮しながら常用回転の範囲では扱いやすいこと。
実用車としての用を十分果たし、助手席の下に吊り下げられたクーラーをかけっぱなしにしながら日々の仕事に使っても不調や故障とは縁遠い。
フランクリンとミントに聞いたところ、マテルという彼らの先輩職員が自らの給料と時間の大半を費やして組み上げたもので、彼は自分が作り上げたシェビーを味わうことなく女に刺されて死んだらしい。
自動車博物館に勤めているが普段はカワサキのバイクしか乗らないフランクリンも、妻子が出来てからトヨタの4WDに乗っているミントも、トミみたいな奴に乗ってもらえてマテルは喜んでると言って、シェビーの維持に様々な助力をしてくれる。
仕事を終えた藤巳の目の前にあるものも、その一部なんだろう。
たった今、藤巳が運んできた段ボール箱を、フランクリンが子供にプレゼントを見せるような嬉しそうな笑顔で開けた。
中身はラグビーボールほどの大きさの青いボンベと、ホースやバルブ等の細々とした部品。ミントが説明する。
「ナイトロオキサイドシステム、エンジンに亜酸化窒素を噴射して吸気の酸素量を大幅に上げる。十五%から二十%のパワーアップを可能とするユニットだ」
ナイトロなら藤巳も知っていた。日本ではニトロという呼び名のほうが馴染み深い。
フランクリンは箱の中身と、現在は藤巳の物となったシボレーのボンネットを交互に撫でながら話し始める。
「マテルがシェビーに着けたいっていって注文してたパーツが今さら届いてよ、これもトミのものだ」
ミントはパーツの一つ一つを欠品が無いか確かめながら言う。
「取り付けもセッティングも難しいものではないから、今から着けてシャーシダイナモでセッティングする。すぐ終わるから外で試走してくるといい」
藤巳は自分の体が震えるのがわかった。
フランクリンとミント、目の前の二人とマテルという今はもう居ない元オーナーへの言葉では言い尽くせぬ感謝。それより何より、これで遂に藤身のシェビーが1千馬力のモンスターになる。
この博物館に収蔵されている高性能車や、博物館の外を走るあらゆる車より速く強く。
今までもこの普段は大人しいシボレーで、博物館周辺にある広い直線道路を飛ばす時、アクセルを踏むたび体中で感じるパワーを恐れ、ほんの数秒しか全開に出来なかった。
これでニトロまで積んだらどうなってしまうのか。藤巳はこのシェビーにに羽根が生えて、藤巳を乗せてどこかに飛んでいくのではないかと馬鹿げたことを思った。
博物館のメンテナンススペースに入れられたシェビー。藤巳も手伝おうとしたが、いつも藤巳の事をバイト職員じゃなく自分の子供のように扱うフランクリンとミントに、カフェスペースでお菓子でも食べて待ってろと追い出される。
藤巳が作業に参加しようとしたのは彼らに悪いと思ったわけではなく、ただ少しでも早くニトロ搭載のシェビーで走りたかったから。
カフェスペースで作業終わりを待ちながら、暇に任せて博物館に収蔵された車を眺めた。
どれもフランクリンとミントの手で磨き上げられ、いつでも走れるよう動態保存されている。
受験失敗の挫折から逃れるようにやってきたアリゾナで、色々な人に出会い、様々な車に出会い、そしてシェビーに出会った。満たされた時間、でもこれが一生の仕事なのかと迷う時。
思索の答えが出る前に防音されたメンテナンススペースのドアが開き、中からシェビーが押し出されてくる。
見た目は変わらない。近づいて窓から中を覗いても変わったところは見当たらない。ミントが説明を始める。
「通常ニトロのボンベとコントローラーは車内に装着するものだが、シボレーはエンジンスペースが広く余裕があるからエンジンルーム内に設置した」
藤巳はシボレーに乗り込む。新しいベビ-ベッドを子供が気に入ってくれるかどうか見守るような顔をしていたフランクリンは、いつもと変わらないベンチシートの運転席に落ち着いた藤巳が、車内を見回して新しいスイッチを探すのを見て声を上げて笑った。
「楽園まで一直線のボタンはここだぜ」
革巻きステアリングのスポーク部分。目立たないながらステアリング操作しながら親指で押すのにちょうどいい位置に、誤作動防止のカバーがかかったプッシュスイッチがあった。
藤巳はカバー越しにスイッチを何度も押す。こんな簡単なことで藤巳の望んでいた世界まで走っていけるのか。
藤巳はなんとか二人に感謝を伝えようとしたが、仰々しい礼を言うといつも親が子供に遠慮されたような残念そうな顔をするフランクリンは、背を向けて敷地に繋がるシャッターを開けた。藤巳は理解した。子供は外で遊んで来いというわけか。
ミントは窓から顔を突っ込み、遊具の扱い方に神経質になる母親のように注意を与える。
「あまり低い回転でナイトロを噴射するとエンストする恐れがあるから5千回転以上で使うといい。最も効果を発揮するのは五速七千回転だ」
藤巳は抑えきれぬ高揚をコントロールするように、ずっと前から抱いていた疑問を二人にぶつけた
「なぁフランクリン、ミント、この博物館にある車、俺のシェビー、みんな大事にされているから今も走ってる。でも、そうならなかった車もあるんだよな」
この仕事をする前は中古車販売業者だったミントが答えた。
「たくさんある、事故で失われた車、ただ故障して直す費用に見合わないからスクラップにされた車、錆びて土に還った車もある」
こんなことを聞いたら笑われるかもしれないと思い、今まで親や高校の車好き仲間にも話さなかった問いの答えを、藤巳はなぜか彼らに求めた。
「もしかしてこの世のどこかに、残ることの出来なかった車の墓場なんてものがあるのかな」
いつも藤巳が何か言うたびに茶化して笑うフランクリンが珍しく黙って考え込むような顔をした、それから口を開く。
「さぁな、あるかもしれないが無いかもしれない、俺にはわからない」
この仕事につく前はずっと工業大学で研究をしていたというフランクリンは、藤巳の目を見つめて言う。
「わからない時は、知りたくなった時は、走って探しに行くんだ」
答えになっているようななっていないような返答。藤巳は答えた。
「わかった、ありがとうフランクリン、ミント」
「夕飯までに帰ってこいよ」というミントに手を上げて挨拶した藤巳は、シェビーで博物館を飛び出した。
もう脳内からさっきの疑問は消え、頭の中は1千馬力のシェビーの事で一杯になっている。
その性能を発揮させる場所は博物館のすぐ近くにあった。砂漠の真ん中を通る一本の舗装道路。
舗装されて間もないうちに近隣に大きなフリーウェイが開通したおかげで、道路状態良好ながら通行する車はほとんど無く、ホリデーワーキングビザで滞在している藤巳には致命的な交通違反キップを切る警官もほとんど来ることは無い。
藤巳はシェビーのアクセルを踏んだ。シフトアップを繰り返し、体がバラバラになりそうな加速感に身を浸す。
百五十マイルまで刻まれたスピードメーターを振り切った頃、ミントから聞いた五速七千回転に達する。
ステアリング上のニトロスイッチのカバーを指で跳ね上げる。早くなる鼓動を意識しながらボタンを押した。
頭が後ろに飛んでいきそうな衝撃と共に、シェビーは1000馬力の領域に飛び込む。
二百kmを超えたあたりから形を成さぬ滝のような様だったフロントガラス越しの風景が、また変わったのがわかった。
急加速で脳の血流がおかしくなったかと思い、恐怖を感じた藤巳は、ニトロスイッチをもう一度押して噴射を止め、アクセルをゆっくりと戻した。
左に回りきっていたスピードメーターの針が右へど戻っていく。見えてくるのは慣れ親しんだ砂漠の一本道のはずだった。
藤巳は、今まで見たことの無い塩湖の真ん中に居た。
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