昭和五十五年八月十四日

 用務員室へ向かっているとサイレンが聞こえてきた。


「こんにちはぁ!」


 開け放してある入口から咲が大きな声で挨拶をすると、サイレンの音が小さくなり、甲子園のざわめきが蝉の声に掻き消されていく。


「ああ。さっちゃん、こんにちは」


 用務員の磐田いわたさんはラジオのボリュームを下げた後、その場で腰を伸ばすと、「はいよ」と私に向かって図書室の鍵を差し出した。


 磐田さんの右手は、人差し指の第二関節から先がない。初めて見た時は、思わず息を飲んだ。失礼だと思って平静を装ってみたが、磐田さんはそんな視線には慣れていると言ってガハハッと笑った。


「戦争でやっちまってね。名誉の負傷じゃないよ、不名誉の負傷だな、こりゃ」


 そう言って磐田さんは肩の高さで銃を構えるしぐさをする。


「塹壕からこう敵を撃つわけよ。ほんとはな、こうやってちゃんと目標を捉えなきゃいけないんだけど、オレらだって当時十七、八だから、怖いわけよ。でもって、頭引っ込めて手だけ出して撃ってたんだな。上官に見つかれば張り倒されるけど、敵に頭撃たれりゃ死んじまうからな。張り倒される方がマシだ。で、敵さんにまんまと指を持っていかれたわけさ。上官の指示通りに頭出してたらお陀仏よ」


 磐田さんは右足も引きずっているから、戦地から無傷で帰って来たわけではない。それでも「オレは運がよかった」と笑う。「戦争だけはいけねぇよ」と太い眉毛を八の字にして笑う。


「ママ、今日はあたしが図書室の鍵開けてあげる」

「あら。そう? じゃあ、お願いね」


 咲の汗ばんだ手に鍵を握らせると、軽快なスキップで走り去る。


「咲ー。廊下走っちゃダメでしょう?」


 がらんどうの校舎で私の声が思いのほかよく響く。大声出すのもダメなんだろうなと心の中でぺろりと舌を出す。

 咲は後ろに引っ張られたようにぴたりと止まると、姿勢を正してしずしずと歩き始めた。


「さっちゃんは素直ないい子だなぁ」


 磐田さんが呟くように褒めてくれたその瞬間、咲は再びスキップを始めた。


「もう、あの子ったら、言われた時だけなんですよ~」


 困ったように謙遜してみるが、実のところ、そんな咲は子供らしくてかわいい。夏休みだからどこかに連れて行けとせがむこともなく、お父さんが留守で寂しいと泣くこともない。我が子ながらよくできた子だと思う。


「松尾さんはお盆もこっちかい?」

「はい。主人が出張なもんですから」

「そりゃ大変だ。お父さんも頑張ってるんだな」


 私は曖昧な笑みを残して、その場を去る。

 なにを頑張っていることやら。でも構わない。私には咲がいるから。私たち夫婦にはもったいないくらいの素直でいい子。


 既に姿の消えた咲を追って図書室へ向かうと、中からころころと笑い声が転がってきた。


「じゃあこれは?」

「ちがうよ、こう書くんだよ」

「うそ。そんな字、見たことないもん」

「さち子ちゃんの字だって見たことないよ」


 さち子ちゃん?


 がらりとドアを開けると、椅子から腰を浮かし、閲覧席の机に身を乗り出したふたりの女の子が頭をくっつけていた。


「変なの~」


 ふたり声を揃えて笑う。笑いながら上体を起こしたその時、さち子ちゃんと目があった。


 あら? 昨日とちょっと印象が違う……?


「あ。咲ちゃんのお母さん、こんにちは」

「あー、ママ、おそ~い!」


「ごめん、ごめん。――それより、ふたりはお友達じゃなかったよね?」


 咲が両手の拳を口元にあてて、ぐふふと笑う。


「今、友達になったんだもん。ね~」

「ね~」


 ふたりの女の子は顔を見合わせて同じ方向に首を傾けた。


 咲はなにも言わなかったが、ひとりぼっちの時間に飽きていたに違いない。話し相手ができて嬉しそうだ。

 さち子ちゃんも昨日より血色がいいし、私に声を聞かせなかったのも元気がないというよりは緊張していたのかもしれない。

 なんにせよ、女の子がふたりではしゃいでいる様はいいのものだ。ほかの子が来るまでは多少騒がしくてもいいだろう。


 それにしても、さち子ちゃんの親はどんな人なのだろう。真夏だというのに昨日とまったく同じ服装をさせているなんて。子供なのだから汗もたくさんかくだろうし、昨日の夕立でずぶ濡れになったはずだ。いくら日射しが強いと言っても半日やそこらで服が乾くとも思えない。

 咲と並んだ腕の太さがかなり違う。足も折れそうなほどに細い。身長だって――。あ、いや、でも、個人差はある。さち子ちゃんの家系は細身なのかもしれない。しかし、それにしたって……。


「お母さん」


 聞き慣れない呼び方にはっとすると、さち子ちゃんが見上げていた。私がきょとんとしていると、さち子ちゃんの耳が真っ赤に染まった。


「……あ。えっと……」

「あー! さち子ちゃん、間違えた~!」


 もじもじするさち子ちゃんに咲がすり寄ってきて、冷やかしている。


 そういえば、私が子供の頃も思わず先生に向かって「お母さん」と呼びかけてしまう子がいたっけ。それだけ「お母さん」と呼びかける習慣が身についていてしまっているのだろう。さち子ちゃんもおうちではたくさんお母さんに甘えているに違いない。だからこその呼び間違えなのだ。よかった、安心した。


 けれども安心感と同じくらい、残念だった。


 さち子ちゃんが親の愛に飢えていたらよかったのに。そして、私が咲と同じように可愛がってあげるのだ。ひかえめではかなげなあの子が懐いたらどんなに満たされるだろう。


「さち子ちゃん、あたしのママのこと、お母さんって呼んだ~」

「やめなさいっ!」


 咲がビクンッと跳ねて、しりもちをついた。まったくもう、そんなに驚くことないでしょ。大袈裟なんだから。こうやって人の気を惹こうとするところなんて父親そっくり。


「咲、お友達をからかうのはやめなさい」

「だって……」

「だってじゃないの。ほら、さち子ちゃん、泣きそうになっているじゃないの」


 さち子ちゃんは耳と頬を赤く染めたまま目に涙を浮かべている。その目で私を上目づかいに見つめ「ごめんなさい……」と呟いた。


 その瞬間、首筋から背中にかけて心地よい痺れが走る。


「いいのよ、さち子ちゃん。ちょっと間違えちゃっただけだもんね」


 床に膝をついて人差し指の背で涙を拭ってあげる。はにかんだように微笑むのもまたいじらしい。


「あのね……間違えたんじゃないの」


 昨日のような高く細い声。ああ、もうぎゅーっと抱き締めたくなる。それより、今なんて?


「呼んでみたかったの」


 今にも消え入りそうな声なのに、私の耳にしっかり届く。


「……そうなの?」

「わたし……お母さんがいないから……」


 そうか、だから身なりも食事も父親だけじゃ気が回らないのね! そしてさち子ちゃんのお父さんはお仕事だから、昼間はこうして図書館に来ている。そういうことなんだわ!


 すべてが腑に落ちた。と同時に気兼ねなくこの子に接することができるという悦びが湧きあがってくるのを感じる。


「そうだわ! おばちゃんがさち子ちゃんのお母さんになってあげる」

「なに言ってるの、ママっ!」


 腕に飛びついた咲が重い。避けようとしてその腕を引くと、咲はまたもや大袈裟に転んでみせる。


 一方、さち子ちゃんは、「え? いいの?」と喜びを押し殺して申し訳なさそうに眉根を寄せる。


「もちろんよ。本当のお母さんになるわけにはいかないけれど、おばちゃんを『お母さん』って呼んでくれていいわよ」

「うれしい……!」


 両手で口元を覆い、何度も何度も「嬉しい」と呟いている。


 こんな些細なことで喜んでくれるとは。心なしか先程よりもさらに肌艶がよくなったように見える。

 心が満たされると、こんなにも子供は生気を取り戻すのかと神秘を感じずにはいられない。思いを外に向ける咲とは違って、喜びさえ身の内に向けるさち子ちゃんを見ていると、私の身体の芯は熱くなり、どろりと全身に広がっていく。


「咲」


 ワックスでつやつや光る床板にぺたりと座り込んだままの娘をそっと抱き起す。


「さち子ちゃんと仲良くするのよ。できるわね?」

「……うん」


 偉いわ。今度は口答えしないのね。さち子ちゃんと遊んでいるおかげだわ。私の娘がもっともっといい子になるといいのだけれど。


 ふたりはまた閲覧席へと戻って行く。しばらくは静かにそれぞれの本を読んでいたけれど、次第に言葉を交わし始め、またくすくすと笑い合ったりしている。よかった。仲良くしている。


 なんて穏やかな光景。


 日が沈むにはまだ早いのに、図書室の中はもう薄暗い。けれども子供たちも本をおしゃべりに夢中で、本なんて読んでいないし、このままでもいいだろう。人工的な蛍光灯の明かりは想像しただけでも目の奥が痛む気がする。自然のままの柔らかな夕暮れの訪れを静かに待ちたい気分だ。


 今日はプール解放のない日なのだろうか。窓の外を通り過ぎる声もない。

 いつしか空気を掻き回すほどの蝉しぐれも途絶えている。

 ただひんやりとした風と静かな時だけが流れる。


 少女たちの笑みを含んだ囁き声と、時折そよ風が通り過ぎるだけの淀んだ空気の図書室。


 手持無沙汰に壁沿いの書架を撫でながらふらりと歩いてみる。新刊コーナーではツンとした印刷用インクの匂い、古い文学全集の棚からはお線香の煙が染みついた寺院のような匂い。


 もう誰もこの図書室に来なければいいのに。私たちだけの空間。静かで穏やかなこの時。


 どこからか焚火の煙が漂ってくる。煙いのにどこか懐かしい。磐田さんがすぐそこの焼却炉でなにか燃やしているのかもしれない。


 窓の桟に手をかけ、身を乗り出すと、意外にも外は色鮮やかに光の溢れる真夏の午後だった。

 ザバァッと辺りの木々の葉を揺らす大波のような風が吹き抜け、思わず目を伏せる。

 顔にかかる髪を指先でよけて室内を振り返る。


「あら? さち子ちゃんは?」

「わかんない。帰ったみたい」


 さち子ちゃんの席には藁半紙わらばんしが一枚。どこにあったのか、深紅の絵の具で「松尾咲」と書かれていた。


 カナカナカナ――。


 ひぐらしが鳴き始め、黄昏時が近づくのを知らせている。







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