施餓鬼会

霜月透子

昭和五十五年八月十三日

 数歩先をゆく真っ白いワンピースが真夏の日射しをまとって風景から浮き上がって見える。蝉しぐれが日射しと共に降り注ぐ。風に煽られるようにひらひらと舞うアゲハチョウを追う小さな姿を見つめながら、ゆっくりと歩を進める。白い日傘の中は眩しくて、今度は黒い日傘を買おうと心に決める。


「ママー、はやくぅ!」


 白く光る妖精がスカートの裾を翻してこちらに身体を向ける。アゲハチョウがふわりと風に乗って遠のいていく。


さき、そんなに走ったら暑いでしょう」

「だいじょうぶだよぅ」


 両手を広げ、その場でくるりと回ってみせる。麦わら帽子から覗いた短めのおかっぱ頭の毛先がきらきら光る。


「もう汗びっしょりじゃない」


 私はかごバッグからハンドタオルを取り出して、きゃっきゃと笑う娘の首回りを拭う。毛先が濡れていくつかの束になっている。


 白い軽自動車が走り抜け、熱を持った空気が短い風となる。


 片側一車線の道路の歩道は一段高くなっているだけで、ガードレールもなにもない。けれども車の通りも少なく、それほど危険は感じない。

 まっすぐのびるアスファルトにてらてらとした逃げ水が揺れ、その外側には青々とした田んぼが広がっている。

 田んぼの向こうのこんもりと丸い小山からは無数の蝉の声が重なり合い、熱された空気がびりびりと震えている。


 ひと月ほど前に中干しを終えた田んぼの土は白っぽくひび割れて、夏が終わりに向かうのを感じさせる。

 茎の増える時期を過ぎた頃に田んぼの水を抜いて土を乾かすのが、中干しだ。稲の根をしっかりさせたり、秋の稲刈り作業をしやすくするためだという。

 八月も半ばのこの時期は、ほとんどの茎の中から穂が姿を現している。そんな出穂しゅっすい後の鮮やかな緑の波を眺める。

 そういえば、今年は白く粉を吹いたような稲の姿を見ていないなぁと少し残念に思う。稲の花はわずか二時間の開花だ。雄蕊おしべがぴょこぴょこと飛び出している様がかわいらしいのだが、今年はどうやら見逃してしまったようだ。


 稲の開花だけではない。きっと私はいろいろなものを見落としている。


 どこまでも広がる田んぼに黒い瓦屋根の家が点在している。

 ひっそりと建つあの家々の中ではきっと都会から帰省している子供たちと、そのまた子供たちが賑やかな声をあげているのだろう。

 我が家にはないお盆の風景だ。


 去年、お手頃価格でマイホームが持てるという理由だけで、縁もゆかりもないこの土地に越してきた。

 和憲かずのりさんの実家は北九州だが、結婚十年の間に帰省したのは初めの二年ほどだ。その後はなし崩しに音信不通の状態を貫いている。せっかく新幹線も開通し、東京・博多間が七時間足らずで移動できるようになったというのに。

 特に揉め事があったわけではない。ただなんとなく面倒な上、和憲さんが帰省を言い出さないのをいいことにこの状態が定着している。

 もしかすると、和憲さんは去年引っ越したことさえ実家には告げていないのかもしれない。家族や家庭といった括りをひどく軽く捉えている節がある。実家だけでなく、私や咲のことも。


 お盆の時期に重なる一週間もの長期にわたる出張を告げた時も、申し訳程度にも残念がる様子をみせなかった。

 多くの企業が一斉休暇や業務縮小をするその期間に先方は休みなく働いていることになる。ご苦労なことである。

 それにしても、水着やプレゼント用のラッピングをした小箱を持参するとは、いったいどんな出張なのだろう。


「ママ。ついたね」


 小学校の校門で咲が振り返る。門は開け放されていて、自由に出入りできるようになっているが、わずかな日陰すらない校庭はギザギザした陽射しだけが支配している。


「あつっ!」


 咲が鉄製の門に触れて、飛び上がるようにして手を引っ込めた。


「咲っ! なにやってるの!」

「びっくりした……」

「熱かったでしょう。お水で冷やそうね」


 咲の手首を掴んで急いで校舎に入ると、途端に夏の声が遠ざかった。


 薄暗い廊下のPタイルが貼られた床はひんやりとしていて、スリッパを通してさえ足の裏の熱を冷ましてくれる。


 ペタンペタンと私の足音が響く。咲は裸足でペタペタ歩く。


 水道の蛇口をひねると水が勢いよくステンレスにあたり、バババババッとなにかの攻撃でも受けているかのような音が校舎に響く。ぬるま湯のような水でも咲の掌の熱は落ち着いたようだ。本人は既にけろりとしている。


 用務員室で鍵を借り、ひと気のない廊下を進む。

 日陰で冷たくなっている重い鉄のドアを開けるとそこにはやはり夏があった。蝉の声が大きくなる。

 すのこが敷かれただけの渡り廊下をカタカタ鳴らしながら進み、体育館校舎に入る。この校舎は二階が体育館になっていて、一階に音楽室と図書室がある。この並びはいかがなものかと思わなくもないが、私がどうこう言えるものでもない。


 夏休みも後半に入ったお盆の時期に学校開放に訪れる子供たちもいないようだ。親に連れられて田舎にいるか、宿題の追い上げに入り始めているかだろう。プール解放は人気があるらしく、きゃあきゃあと歓声が上がっているが。


「ママ、はやくぅ」


 咲が図書室の引き戸の前で足踏みをする。トイレを我慢している時のしぐさに似ているが、さすがに間違えているわけではないだろう。図書当番のボランティアも今日で三日目なのだから。


 夏休みに開放しているのはプールだけではない。図書室も解放している。図書委員とその親が交代で開館と貸出の当番に当っているのだ。

 咲はまだ三年生だから、もちろん図書委員ではない。お隣のお子さんが図書委員で、八月十日から十六日までの当番に当ってしまったらしい。ところが、そのお宅は豪勢にもヨーロッパ旅行に行かれるとのこと。交代しようにもお盆の時期はみんな帰省の予定があり、例外的に図書委員でもないただの隣人である私に白羽の矢がたったのだった。

 和憲さんも「出張」で留守だし、まあいいかと引き受けた。


「いっちばーん!」


 ガラリと開けたドアの隙間からするりと入り込んだ咲は薄暗い図書室を走り回る。


「咲。走っちゃだめよ」


 薄汚れた生成りのカーテンを開けながら、私はおざなりに声をかける。


「え~? なんでぇ?」

「なんでって、図書室では静かにしなさいって教わったでしょ?」

「でもだれもいないよ?」


 そりゃそうだろう。


「今開けたばかりだからね」

「きっと誰も来ないよ」


 縁起でもない予言をする。やる気をなくすじゃないの。


「まだわからないわよぉ。誰か本を借りにくるかもしれないじゃない」


 思いっきり笑顔で楽しそうに話しかける。今日も夕方までここで過ごさなくてはいけないのだ。なんとか楽しくしようと、子供番組のお姉さんを思い浮かべながら語りかける。けれどもこまっしゃくれた娘は容赦ない。


「だって、昨日も一昨日もその前も――」

「……そうね。誰も来なかったわね」


 苦笑しか返せない。


 八月十日から三日連続で利用者なし。

 なにも無理して図書室解放をしなくてもいいんじゃないかという気がする。けれども誰も来なくても一度引き受けたからにはきちんとやらなければ。夏休みだというのに咲をどこにも連れて行ってあげられない言い訳にもなる。


 パタン。


 カウンターに一冊の本が置かれる。


「これ返します」


 咲が生真面目な顔をして、昨日借りて行った本と図書カードを差し出した。図書館ごっこのつもりらしい。

 それならばと、私も他人行儀に応える。


「はい。ごくろうさまでした」


 図書カードに書かれた名前は裏面にまでわたっている。人気のある本らしい。「返した日」の欄に「八月十三日」と書かれているのを確認して「返」のハンコを押す。


 すると咲は満足げに微笑んで、その本を抱えて窓際の「中学年向け」と書かれた書架に向かっていく。

 書架は腰高窓に届かないくらいの高さしかない。

 書架の上辺をくすぐるようにカーテンが行ったり来たり撫でていく。


 咲は書架の前にしゃがみこんで、代本板(だいほんばん)と本を入れ替えると、新たな本を物色し始める。

 代本板とは直角三角形の山を切り取って台形にしたような木の板のこと。借りた本の代わりにその場所に入れておいて、同じ場所に返せるようにするものらしい。背の部分に学年、組、名前が書かれていて、誰が本を借りているのかがわかるようになっている。咲のは「三年五組 松尾咲」と黄色いテープに書いてある。黄色は三年生の色だ。


 私が小学生の頃は図書室があったのか記憶にない。まともな特別教室はなかったのではないかと思う。

 私は終戦の翌年に生まれたので、教室すらまともに使えなかった。兵隊に行っていた男の人たちが次々と帰国し結婚していったため、ベビーブームといわれる出生数増加があったのだ。

 小学校では教室が足りなくて、体育館を衝立で仕切って使ったりしていた。それでもまだ足りないので、午前と午後の二部制だった時期もある。

 今なら学校建設を進めるところだろうけれど、当時はまだ防空壕の跡に家財道具を持ち込んで暮らしている人も珍しくなかったから、そういう人たちを差し置いて学校を増やすわけにもいかなかったのかもしれない。


 窓の外をころころとした笑い声が通り過ぎていく。


 首を伸ばして覗いてみると、赤や青のナイロン製巾着袋を提げた子供たちの背中が見えた。プールでひと泳ぎしてきたのだろう。先程の咲の汗に濡れた髪とは違って、涼しげな瑞々しい束になって雫が滴っている。


 工場のサイレンのような音が風に乗ってくる。


 くぐもった男性の声も聞こえる。時折ひび割れるその音はきっと高校野球のラジオ放送だろう。職員室で誰かが聞いているのかもしれない。

 試合開始のサイレンが耳に残る。私にはあのサイレンが工場の昼休みを告げる音に聞こえるが、母は空襲警報に聞こえると言っていた。

 咲にはどう聞こえるのだろう。


 ふと見れば物色中に魅せられた本があったらしい。書架の前の床に座り込んで真剣な表情で開いた本と向き合っている。


 よかった。今日も大人しくしていてくれそうだ。


 閑古鳥すら鳴かないこの図書室で夕方までの時間を過ごさなければならない。


 さてと。私もなにか読むとしよう。とはいっても、あるのはすべて小学生の読む本。どれもあっという間に読み終えてしまう。うーん。困った。


 咲の集中を途切れさせないよう、静かに立ち上がり、そっとカウンターを出る。壁に沿って置かれた書架を見渡し――ヒッと息をのむ。


 ドアが細く開いていて、その隙間から片目が覗いていた。


 しかし、よく見れば手も足もある。引っ込み思案な子供が利用者のいない図書室に入りづらくて、入口から半身を差し入れたまま様子を窺っているだけだった。

 おいでおいでと手招きすると、ようやくおどおどと入ってきた。咲より年下だろうか。痩せて小柄な女の子。


 それにしても、懐かしい恰好。


 臙脂えんじのワンピースのスカート部分に黄色いアヒルのアップリケ。そして肩先でふんわりと膨らんだ提灯袖ちょうちんそで。白い丸襟がついている。


 そういえば昔はどこの家も貧しくて、既製品の洋服なんてお金持ちのうちの子しか来ていなかった。だいたいは母親や近所のおばさんが縫ってくれた。兄弟や知り合いのお下がりを着ているのも当たり前だったし。着古した大人の服を仕立て直した……そう、更生服って言ったっけ。


 前髪は眉の上で一直線に切り揃えられ、後ろはおかっぱ頭と呼ぶには短すぎるくらいで、襟足なんて刈り上げになっている。


 端正なかわいらしい顔をしているのに、こんな時代遅れの恰好をさせるなんて、この子の親はいったいどんな美的センスをしているのだろう。初めて会った子なのに不憫でならない。


「何年生?」


 腰をかがめて小さな声で尋ねると、指を三本立てた。


「あら。三年生なら、うちの咲と一緒ね。お友達かしら?」


 女の子は床に座り込んだままの咲をちらりと見て、首を傾げた。見覚えがないらしい。


「お名前は?」


 女の子の唇が小さく動く。夏だというのにプールに浸かり過ぎた子のような紫がかった色の唇。


「ん? なぁに? もうちょっと大きな声でお話しても大丈夫よ」


 どうせ誰も来ないし、という言葉は言わないでおく。


「……さち子」


 高く細い美しい声だった。ぞくりと首筋に鳥肌が立つ。もっと声を聞きたい。私はあれこれ話しかける。

「ひとりで来たの?」「おうちはどこ?」「何組?」

 さち子ちゃんは首を縦に振ったり、横に振ったり、あるいは傾げたりしてなかなか声を発してくれない。返事をしないわけではないから引っ込み思案なわけではないと思うが、随分とおとなしい子だ。常に明るい春の陽気のような咲と比べると、さち子ちゃんは秋の気配をまとっている。


「くしゅん」


 咲のくしゃみで、風が冷えていることに気がついた。


 先程まで窓から入ってきていた風は、今は廊下から吹いている。初秋の風のようなひやりと澄んだ空気が腕と頬を撫でていく。

 空気が一気に湿度を帯び、木目のはっきりしたこげ茶色の床板から、夏休み前に塗られたばかりのワックスの油臭い臭いが立ち昇る。

 さあっと暗雲が立ち込め、辺りが灰色に沈み込む。

 窓から外へとはためき、喉を鳴らす猫のような遠雷が響く。


 ボツッ。


 どこに当ったのだろう、やけに大きな雨粒が落ちる音がした。


 ――夕立がくる。


 慌てて窓を閉めているうちにボツボツボツと急に雨粒の量が増し、すべての窓を閉め終えるよりも早くボボボボボと打ち付ける音となり、すぐにゴォーッと白雨に染まる。


 私のスカートの裾に小さな手がしがみついている。


「大丈夫よ」


 優しく声をかけて、蛍光灯のスイッチを押すとチカチカッと瞬いて明るさが戻ってきた。闇が遠のき、ひとまずほっと息をつく。


「怖かったのね、さち子ちゃん」


 声をかけながら撫でた頭が驚いたように上を向く。


「ママ? 私、咲だよ?」


 ふっくらとした頬にぷるんと赤い唇の愛娘だった。


「咲、さち子ちゃん……女の子はどこ?」

「女の子?」

「雨が降って来た時、図書室に女の子いたでしょう?」


 咲は首を傾げた。見ていないのだろうか。


 図書室は市の図書館とは違って、壁際にしか書架がないため、一目で室内が見渡せる。そこには誰の姿もない。二箇所ある入口のドアはどちらもぴたりと閉じていた。


 夕立がやってきたから急いで帰ったのだろう。やむまでここで雨宿りしていけばよかったのに。無事に帰れただろうか。雨に濡れながら走り去る赤いワンピース姿を思う。


 近づいてくる雷鳴。身体の芯に響く轟音に咲が怯えてしがみつく。私はその小さな頭をぎゅっと抱き締めた。






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