VS(ブイ・エス)

spin

第1話

 ようやく涼しくなってきた一〇月半ばの土曜の夜、健吾けんごは、渋谷のハチ公前でクリスを待っていた。ツタヤビルの大型ビジョンにはバーチャルアイドル・ЯINA《リナ》のPV(プロモーションビデオ)が映し出されている。ЯINAは、ミニスカートが特徴の女子高生ファッションに身を包み、ゼロ年代に活躍したアーティスト・t.A.T.u.《タトゥー》のカバー曲を歌っている。健吾は、その滑らかな動きと完璧な美貌に見入った。

「健吾さん、お久しぶりデース! 元気でしたか?」

 クリスが現れた。相変わらずの長身・金髪で人目を引かずにはいられなかった。Tシャツの胸の部分に大きく横に「色是即空」の文言が入っている。健吾は、「ご無沙汰してます」と言って、クリスとハイタッチを交わした。

 二人は宇田川町のビルの地下一階にあるレトロ居酒屋に入った。店内には若者が多いが、健吾と同世代の客もちらほらいる。二人はカウンター席に着いた。店内は、九〇年代を偲ばせるさまざまなグッズで飾られている。ポケベル、ゲームボーイ、ハイテクスニーカーなどがカウンター奥のショーケースに収まっていた。モニターには、当時のドラマが音声なしで流れている。BGMには、リンドバーグの曲がかかっていた。壁には九〇年代のアーティストのポスターが貼ってある。

「おもしろい店ですね」

 お互いに生ビールを注文すると、クリスは周りを見渡した後、言った。

「そう言ってもらえると嬉しいです。いくら日本通のクリスさんでも、ここに飾ってあるものは、ほとんど知らないんじゃないですか?」

「そうですね。知っているものと言えば、『エヴァンゲリオン』と昔のゲーム機くらいですね」

「この店は、九〇年代、つまりネットが普及する前の一〇年をフィーチャーしているんです。僕らの子供の頃ですね」

「へぇ~、そうなんですか。何かおもしろいですね」

「実は僕、最近、九〇年代に急に興味を覚えるようになったんです。当時、今や完全に消滅したテレクラが流行ったそうですが、テレクラで行われていたというテレフォンセックスは、VS(バーチャルセックス)に通じるものがあるように思えます。というか、テレフォンセックスがVSの最も初歩的な形態だったと思えるのです」

「いよいよ本題に入りましたね。今夜は健吾さんにお会いできることを楽しみにしていました。そのVSですが、二年前から随分と進化したそうで、本当にすばらしいです!」

 生ビールが来たところで、二人は乾杯した。

「何というか時代の勢いですね。才能ある人材にも恵まれました。VSを追求している人は僕以外にも大勢いるんです。優秀なスタッフが日夜取り組めばそりゃあ進化もするでしょう」

「で、完成したと聞きましたが?」

「はい。一応は完成しました」

「いつ頃発売予定ですか?」

「一年以内に発売する予定です。今は商品化の最終段階に入っていて、規制機関から認証を取得したり、販促資料やマニュアルを作成したりしているところです」

「おめでとうございます!」

 二人はもう一度乾杯した。

「きっと革命的な製品になるでしょうね」

「まず、遠距離のカップルにとって、これ以上待ち望まれた装置はないでしょう。さらに同居しているカップルでも、オプションとしてVSを使うというのもアリだと思います。VSではアバターをいろいろカスタマイズすることもできますからね。要するにコスプレみたいなものです。ただ、今の技術では仕方のないことですが、今のところVSには、直接の性交ほどの臨場感はありません。といっても、たとえば、VSだから浮気にならないという主張は通らないと思います。社会的影響について言えば、性風俗産業に多大な変革をもたらすのではないかと思います。すでにVR(バーチャルリアリティ)ポルノは出回っていて、物理的接触を伴う性風俗は、斜陽産業になっているようですが、VSが普及したら、VS専門の売春婦が出てくるでしょう。まあ、これは良いことかもしれませんが。VSだからという理由で不特定多数との性交のハードルが下がることはあり得るでしょう」

「セックスしないことで有名な日本人も変わるでしょうか?」

「リアルなセックスに限って言えば、あまり変わらないかもしれませんね。日本にはオナニー文化が根付いてますから。セックスのハードルが下がるといっても、セックスで商売している女性がVSに走るという意味で、VSがリアルであれ、バーチャルであれ、一般女性にとって、セックスのトリガーになるかといえば、わかりませんね」

「なるほど~。VSには非常に興味深いものがありますが、わたしは一方で危惧していることがあるんです。それは、もしあまりに手軽に皆がVSを楽しめるようになったら、セックスの価値が落ちてしまうのではないか、ということです」

 料理が届いた。たこ焼きに刺し身の盛り合わせ、そしてアンチョビキャベツだ。二人とも、二杯目のビールを注文した。

「おっしゃっていることはわかりますが、それは杞憂ではないでしょうか? セックスがどうでもよくなるとして、恋人もまた同じように思っているなら問題ないですし、独身男性の場合でも、セックス目的で女性とデートするようなことがなくなれば、それはいいことですよね?」

 健吾はそう答えながら、自分が感じている懸念を話したいという誘惑に駆られた。

「なるほど。では、健吾さんはVSは人類にとって良いことしかない、と考えているのですか?」

「……正直言うと、わかりません。危惧しているのは、VSが今出回っているVRポルノの一変種になる可能性です。VSはアバターを通しての人間同士のセックスで、VRポルノのようなプログラムではありませんが、それでも、両者は見た目的には似通っています。わたしは妻と何度かVSを試しましたが、その結果、VSにはどこか決定的にリアルなセックスに及ばないところがあるように感じたのです。要するにアバターとリアルな相手との乖離があるのです。もちろん、今の技術では、ある程度は仕方ないでしょう。ここで、思い起こされるのは、セックスロボット、いわゆるセクサロイドです。鳴り物入りで発売されたセクサロイドは、最初こそ熱狂的に受け入れられたものの、わずか数年で過去の遺物になりました。あれだけ完成度が高ければ、普及してもおかしくなかった。そうならなかったのは、やはり人間以外のモノとのセックスに我々は抵抗があるからなのではないでしょうか? アバターでも同じことかもしれません。まあ、衛生面では何ら心配ないとか、アバターのメリットもありますが。ただ、セックスに賭けられたもの、まあ、月並みな言い方をすれば、愛と言えるでしょうが、今のところアバターではそれを表すことができないように思うのです」

 健吾はいささか早口で話すと、ビールのジョッキをあおった。

「セクサロイドは残念でしたね。ロボットと愛し合うのは、人類には難しいのかもしれません。VSもまたテクノロジーを介したセックスという点では似ています。……わたしは経験がないので、何とも言えませんが、おっしゃっていることはわかります。セックスに何を賭けるかでセックスの意味は変わってきます。つまり、娯楽としてのセックスから愛の確認としてのセックスというスペクトルがあります。VSでは、高レベルのセックスは難しいということですね。そうだとしても、VSはまだ揺籃期にあるんです。あまり多くを期待できないと思いますが」

「わたしも単なるユーザーならそう考えます。しかし、わたしは直接VSに関わっている身なので、なんとかVSの質を高めたいと考えてしまうのです」

「技術の進化により、いずれは匂いも再現できようになるのではないでしょうか? いずれはリアルなセックスと遜色なくなるとは考えられないでしょうか?」

「その可能性はあります。しかし一方で、VSには超えられない壁があるようにも思います」

「……さっき『九〇年代に興味が湧いてきた』とおっしゃいましたが、そのことは今のお話と関係があるのでしょうか?」

「ええ、あります。VSの開発では、生物学的ないしは神経学的な観点からリアルなセックスと同じ状態を再現することを目指しました。要するに、わたしたちのVSでは発汗やら脳内物質の放出やらで測定される、リアルなセックスと同様の身体的状態が再現できれば、達成とされるのです。このアプローチが間違っていたとは思いません。しかしながら、何か別の要素も必要であるように思っています。レトロな文化にそのヒントがあるように思うのです」

 クリスは考え込むように、頷いた。店内には尾崎豊の曲が流れている。



 君の弾くピアノ まだ覚束ない

 刺激の強すぎるこの街では心が鈍くなってゆくよ

 君を抱きしめ離したくない

 愛の光をともし続けたい



 健吾はたこ焼きを頬張りながら、尾崎を熱心に聴いていた中学時代を思い出していた。

(あの頃からずいぶん遠くへ来たな。この曲もよく聴いたっけ。懐かしくもこそばゆい感覚。青臭いといえばそれまでだが……)

「いいことを思いつきました。これからレトロな文化に触れてみませんか? 何かヒントになるかもしれませんよ」

 クリスは目を輝かせて言った。


 クリスに連れて来られたのは、渋谷の歓楽街の真っ只中にあるストリップ劇場だった。月一回くらいの頻度で来ているというクリスの話によると、今月いっぱいでこのストリップ劇場は廃業するということだった。

 二人は窓口で白髪の男性に三千円の入場料を払って、地下の劇場への階段を降りた。観音開きの扉を開くと、ストリップ嬢がパフォーマンスの最中だった。キャットウォークを歩く嬢の露わになった股間の黒いデルタゾーンが健吾の視神経に突き刺さった。

 客席には中高年の男性ばかり一〇人かそこらしかいなかった。パフォーマンス中の女の子のショーが終わると、健吾は運良く、これまでいた客と入れ替わりに、最前列の席に陣取ることができた。

 新しく登場した「なぎさ」という子は、短い浴衣のコスチュームを着ていた。大柄で、胸が大きく、脚も長く、非常にプロモーションに恵まれた体つきだった。顔は、大きな目と鼻筋が通った鼻が特徴の美人だった。音楽はJ-POPが大音量でかかっている(後で調べたところ「夏祭り」という昔の曲だと判明した)。奥の舞台を行ったり来たりして、遠くを見るように手をかざすしぐさは、郷愁を誘う歌詞と関係があるように思えた。

 やがてなぎさは、立ち上がって手を伸ばせば触れられるくらいの距離に来て、脚をくの字に曲げて、上半身だけ起こして横たわり、浴衣をはだけ出した。キャットウォークの端部の回転する舞台装置上で、ゆっくりと肌を露わにするそのしぐさを、健吾は劣情をたぎらせながら、食い入るように見つめていた。そのゆるゆると脱衣するしぐさには、想像だにしなかったエロスがあった。彼女の視線が健吾を捉えたとき、健吾は我を忘れて、まともに彼女を見返した。彼女は、回転にまかせて、健吾に流し目を送った。次に健吾と相対したとき、なぎさは、ずっと健吾と視線を合わせたまま、片方の脚を上げて、黒いパンティを脚から抜き取って見せた。その間、健吾は彼女と二人だけの世界に没入していた。もはや音楽も聞こえなかった。そこには具体的な内容こそ欠いているものの、深いコミュニケーションがあるように感じられた。圧倒的な高揚感、そして強烈な至福感があった。その後、彼女は、あられもない姿で、脚を広げて、擬似性交を披露した。品のない、洗練とは程遠いショーだった。しかし、なぎさと交わした眼差しが健吾にとってはすべてで他のことはどうでもよかった。

 その後、次の嬢のショーも見たが、そのときは、自分とも他の客とも一切アイコンタクトはなかった。そういうわけで、なぎさとのアイコンタクトは、健吾にとって特別な――あえて言うならば恋の始まり的な――出来事になった。実際、ストリップショーという状況を考慮しなければ、恋の始まりになるには十分の出来事だった。ショーの一環にすぎない、というのが常識的な見方であり、それは健吾も理解していたが、それでも、健吾はすでに心をかき乱されており、常識的な声に与することはできなかった。


 三人目のショーが終わったところで二人は外に出た。時間は、一〇時半過ぎだった。

「どうでした?」とクリス。

「思った以上だったよ。特に二人目の子がね」

「なぎさちゃんですね。なるほど。……実は僕、劇場の人とも知り合いで、最後にストリップ嬢と常連と劇場関係者で打ち上げやるそうなんですよ。よかったら、健吾さんも参加しませんか?」 

「え、マジで!? 是非!」

 健吾は願ってもないチャンスに小躍りせんばかりだった。


 それから、二人は道玄坂にあるクラブに行った。地下にある、小規模なクラブだった。音楽はテクノ系だ。テクノの重厚な音像が体にぶち当たる。健吾は、なぎさの眼差しを思い浮かべた。彼女の眼差しから受けた衝撃が今、この暗闇を縦横に走るレーザーや、腹に響く重厚な音になって暗闇を満たしているかのようだった。そのためか、健吾はテクノ音楽に大いに乗ることができた。

 二人は三時頃までほぼひっきりなしに踊ると、バーカウンターで休んだ。そのとき、クリスは是非VSを試させて欲しい、と健吾にせがんだ。健吾は、快諾し、プロトタイプを手配する約束をした。それはいわば、なぎさを含む飲み会の交換条件に感じられた。クリスはまさかそのために俺をストリップに連れて行ったのか、と健吾は訝ったが、あえてクリスに問い質す真似はしなかった。

「楽しみだなあ」とクリスは煙草をふかしながら言った。

「……ところで、クリスは結婚はしてなかったよね?」

「してないよ」

「相手はいるの?」

「大丈夫。ご心配なく」

 クリスは笑った。

「VSに抵抗ある人もいるけど、相手の人がそうでないことを祈るよ」

「それも大丈夫。彼女は好奇心旺盛だから」

 クリスは彼女について話した。

「僕の彼女は、日本人なんですが、セックスに貪欲なんですね。まあ見た目からしていわゆるビッチというか、エロいんですけど。そういうところも気に入っているんですが」

「それは羨ましい」

「健吾さんは、奥さんとはどうなんですか?」

「う~ん、まあ、仲良くやってるけど。刺激が欲しい」

「ハハハ、それでなぎさちゃんですか。奥さんを悲しませることに加担するのは気が進みませんので、あまりのめり込まないでくださいよ」

 クリスは、健吾の隣にいる肩の露出した女の子を見ながら言った。

「わかってるよ」と健吾は言ったものの、それはあまりに形式的な言い草だった。

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