メタフィクションテスト

@ninnzinn

虚構の虚構でライトノベル、あるいは現実の現実でメタフィクション

「ただいまー」

 私は家に帰りつくやいなや、自室のパソコンを開き、書き途中の小説を開き、執筆を開始した。

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私は、家に着いた。今日も大したことのない授業、大したことのない友達を過ごし、多少の宿題を課され帰ってきた。そんなことを言ったとしてこの話に何の役に立つのかと言われれば私自身もよくわからない。実際、私は描かれているだけの存在であるからだ。

 さて、私は今、ライトノベルを持っている。いわゆる「ライトノベル」。光であり、正しくあり、そして軽く、優美だ。私には定義は分からないが、ライトノベルといわれているのだからライトノベルなのだろう。

 私の持つライトノベルには、女の子がたくさん出てくる。

 「べ、別にあんたのことが好きだっていうわけじゃないんだからねっ! 」

 「わたしが何を言っているのかよくわからないとは心外だね、だから、私が言っていることはただ一つ、君が好きだということだけだよ」

 「あなたはバカなの? 馬と鹿で表わされるアレなのかしら? そう、そうなのね、じゃあ死になさい」

 と、いった具合だ。

これが面白いかどうかの判断基準は私にはない。すべては描かれるものだからだ。

 あなたが読んでいることは、ライトノベルなのだろうか? 分類上はおそらくライトノベルといえるだろう。なぜなら私は容姿端麗、全知全能のスーパー美少女なのだから。今まであなたが気が付かなかったのも無理はない。描かれていなかったからだ。

 これでおそらく分類上ライトノベルになっただろう。しかしどうであろう。本当にそうだろうか。おおかたそうとも言い切れないはずだ。なぜなら、「ライトノベルかそうでないかは、その環境によって決まる」からだ。この本は本当に「ライト」ノベルなのだろうか。そう、つまり私が言いたいのはあなた、そうあなたがこの虚構をどのように読んでいるかということだ。

 紙で読むか、パソコンで読むか、はたまたスマホという人もいるに違いない。

 虚構を、その「虚構」たらしめるのは、その虚構以外何も存在しない。言い換えれば虚構はその情報によってのみ決定されるということだ。ライトか、ヘビーか。物理的なそれは虚構には全く関与しない。ライトノベルかそうでないか決定するのは、単純な環境の違いによってのみ。

 ところで、こんなにも益体の無い思考をつらつらとさせられている私は、「私」であるのか、いや私なのか。それはつまり、どこが虚構なのかということだ。

 コンピューターの話を知っているだろうか。コンピューターはコンピューターを内部でシミュレートできる。同様に、世界は「世界」をシミュレートできる。単純な情報として。つまるところ、虚構が大事な点は、世界をシミュレートできるという点だ。

 私は、今現在ここにいると描かれている。描写の力は絶対だ。私は描写の力に屈している。ほら、そそるでしょ? 最近、増えてきたこの描き方、私はあまり好まない。

 世界を模写し、複製し、創造し、変形し、投影できるのが虚構の特徴のはずであるが、しかし多くのラノベはそのことを意識していないことに、私は非常に疑問を感じる。

 作者の表出点、こんな単語を出してしまったらもう本当に終わりのような気がするけれども、しかしこれを語ることをせずにこれを帰結させることはできない。残念なことに、作者は虚構中に表出する。私はこのように語っていると描かれているが、この描き方そのものが常に作者自体の影響下に置かれているし、行動の一つ一つも作者によるシミュレートの産物であることを、私はもっと根深いところで知っている。つまり、私は常に作者の表出点である可能性をぬぐいきれない。ここが虚構なのか、「虚構」なのかは区別ができないが。

 ところで、私は現時点で何をしているのかといわれれば、本棚を整理している。しかし、本棚とは非常に魅力的な構造だと思う。どうしてかといわれたらやはり本棚が何かということに言及しなくてはならないだろう。本棚とは本が収納される棚である。本とは、誰かがその知識を以って書いたデータの集まりだ。その集まりが集まっているなんて素晴らしい。まさしく、何だろう、面白い落ちが思いつかなかった。本棚を整理することは本を読むことに似ているように思われる。

 私は本を読むことが好きだ。ほかに趣味がないかといわれればそんなことはないし、読んでいる本はくだらないものが多いからいわゆる読書マニアの人には怒られてしまうと思うけれども、本が好きだ。読書とはなかなかに風情があって、読み方によっては世界が読めてしまう。本は作家の知識の集まりであると先に述べたが、その知識もどこかの本から由来しているものだ。ということは本自体が別な本の本棚になっているわけだ。本の中の知識を系列づけてきちんと整えることこそが読書なのならば、つまり本棚の整理とはそのものが読書、実際的な本の読み方につながっているわけだと私は、私が思う。

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