第29話 惨劇の序章
一つのエリアに一人のジャッジが案内役として付き、各々闘技場内に入っていった。代表メンバーはそれぞれのエリアに用意された控え室に、それ以外は観客席へと赴く。
スケ夫とタルトとヤドックはメンバーではないが、エルカ達と共にメンバー控え室に同行した。スケ夫は世話係として。タルトはレオンの強い希望で。ヤドックはエルカの傍にいたいという本人の希望でだ。
入って暫くは階段を上り続けた。その後は、装飾も何も無い質素な石壁に囲まれた長い廊下を暫く歩いて行くと、エルカ達の前を歩くジャッジが、一つの鉄扉の前で足を止めた。扉の上に、Bと書かれた札がかけられている。
「こちらがBエリアの皆様の控え室になります。試合開始は一時間後からです。BエリアとCエリアは第一試合からなので、準備を怠らないようにお願い致します」
それだけ告げると、ジャッジは鉄扉の横に立ち、そのまま動かなくなった。自分はここにいるから、何かあれば声をかけてくれという事なのだろう。
エルカがドアノブに手をかけ、鉄扉を開け放った。そこは、十人ぐらいは余裕で住めるような広い部屋だった。広いだけでなく、まるでホテルのスイートルームのような豪勢な内装だ。そして、ベッド、食料、水、キッチン、トイレ、シャワールームと、最低限の物も用意してある。人間が住むのにもあまり不自由しないだろう。正面奥には横長の大きな窓がある。カゲトが興味津々にそこから景色を覗き見た。
「おっ、こりゃあ凄えな。エルカ、見てみろよ」
エルカがカゲトの横に立った。そこから見えるのは、闘技場の中心、つまりリングだった。リングは円形で、高さは約一メートル、直径は百メートル近い巨大な物だった。もっとも、エルカにとってはこのリングでも狭く感じるかもしれないが。
そしてリングを三百六十度囲う、雛壇状の観客席。巻き添えを食わないための配慮なのか、一番下の席でも地上から十メートルという高い位置にある。
客席数は、参加している全エリアの魔物達が全て収まるほどの数だ。遠くの方に、見慣れたBエリアの者達が、肩身狭そうに固まって座っているのも見える。この控え室は、その観客席の真上に位置していた。つまりメンバー達は、まるでVIP席のように、最も眺めのいい場所で試合を観戦出来るというわけだ。
「悪くないじゃない。腕が鳴るわね」
エルカは上機嫌そうに微笑むと、入口の扉に向かって歩き出した。
「エルカ、どこに行くんだ?」
「試合は一時間後だし、暇潰しに散歩してくるわ」
「……姫様」
「ヤドック、あんたはついてこなくていいから。ちょっと歩き回ったらすぐに戻るわよ」
そう言ってエルカは部屋を出て、乱暴に扉を閉めてしまった。ヤドックから溜め息が漏れるが、ここは黙って見送った。ここでエルカから目を離しても、エルカがこのタイミングで逃げるわけがなく、ルール上は他のエリアの者から襲われる心配も無いからだ。
試合開始まで残り一時間。スケ夫はキッチンに立ち、少しでも力の付く軽食を調理し始める。ベルーゼとタオは、緊張のためか部屋の中をウロウロと歩き回ったり、窓から見えるリングをボーッと眺めている。カゲトはようやくいつもの飄々とした雰囲気を醸しだし、口笛を吹きながら刀の手入れ。レオンはタルトを口説き、タルトはそれに適当に相槌を打つ。そんな調子で、各々が時間を潰していった。
「んー……別に面白い物はないわね」
闘技場内は、リングと観客席こそ派手な作りになっているが、その裏側はとにかく殺風景な物だった。途中、他エリアの参加者と見られる者と何人かすれ違った。向こうは人間であるエルカに注目していたが、エルカの方はこれといって気になる者はいなかった。魔界中の腕自慢が集まっているとはいえ、今のエルカのお眼鏡にかなうのは、相当なレベルに達していないと無理だ。
「おや? 君は確かBエリアの女の子だね?」
エルカが振り向くと、そこにはキザったらしい男が、微笑みを投げかけていた。普通の女なら思わず二度見してしまいそうな、甘いマスクが特徴だ。もちろんエルカは例外だが。
「そうだけど。あんた誰?」
「僕の名はチョー。Cエリアのボスさ。つ・ま・り、君達の初戦の相手だよ」
チョーが髪をかき上げながら名乗った。エルカの白けた視線が突き刺さっている事にも、本人は気にしていない。
「さっきのクジ引きの後ベルーゼと一緒にいたところを見たから、Bエリアの子って事は分かってたけど……ここにいるって事は、まさか君も参加メンバーなのかい?」
「その通りよ。何か文句ある?」
「はは、参ったな。レディーをいたぶるのは、僕の主義に反するんだけどな」
チョーは馬鹿にしたような笑みを浮かべ、エルカの後ろの壁にドンと手を突き、エルカに顔を近づけた。
「レディーにはこんなきな臭い場所は似合わないよ。それよりどうかな? 大人しく棄権してくれれば、君を特別に我がCエリアに招待するよ。君ほどの美しいレディーなら、僕の傍にいる資格はあるからね。落ちこぼれのBエリアがいくら頑張ったって優勝なんか出来るわけないんだから、その方が賢明だよ」
エルカは生ゴミを見るような目でチョーを見据え、深く溜め息をついた。
「ルールに救われたわね。試合以外で他エリアの者との争いはご法度ってルールが無かったら、あんた既に死んでるわよ」
「……何だって?」
「初戦の相手があんたで良かったわ。実力的にはかなり物足りなさそうだけど、一番殴り甲斐のあるタイプよ。その自分でイケてると思ってる豚みたいなツラ、サンドバッグのようにボコボコにして更に醜くしてあげるわ。いや、マイナスとマイナスを掛けたら、逆にプラスになるかしら。ぷっ」
チョーの表情が固まった。笑顔のままだが、こめかみには血管がピクピクと動いていた。
「君……面白い事言うね。魔界一の美男子である僕を捕まえて、豚みたいなツラ……だって?」
「ああ、ごめん訂正するわ。豚に失礼だったわね。豚を百発ぐらい殴れば、ようやくあんたみたいな醜男が出来上がるかもね」
「ふ……ふふ……。レディーにここまで侮辱されたのは初めてだよ」
チョーは殺意を抑えつつ、壁から手を離して歩き出した。
「予告しよう。君は全身の毛穴から血を噴き出して死ぬ、とね。後悔する暇すら与えないよ」
「へえ、それは楽しみだわ」
チョーはそのまま歩き去って行った。試合開始時間が迫る。エルカは何事もなかったかのように、Bエリアの控え室へと戻っていった。
*
エルカ、ベルーゼ、タオ、カゲト、レオンの五人は、薄暗い入場門前で待機していた。集中……緊張……理由はそれぞれだが、誰も口を利く事はしなかった。門は牢屋の檻のようになっているため、向こう側にあるリングがよく見える。そのリングを挟んだ反対側に、もう一つの入場門が見える。そこがCエリアの入場門だ。待ちくたびれて野次を飛ばす観客達だったが、一人のジャッジがリングの上に立つと、それはようやく収まった。
「皆さん、お待たせしました。これより一回戦第一試合を開始します。Bエリア、Cエリア、共にご入場下さい」
二つの入場門が同時に開け放たれた。エルカ達は力強く足を踏み出し、リングに向かって歩き出した。一時静まり返っていた観客席が、再び沸き立つ。
向こう側に見えるのは、Cエリアの代表メンバーの五人。ボスのチョーを中心に、同じようなハンサム顔の若い男が四人。Cエリアの応援席から、女達の黄色い声援が飛びかう。Cエリアがどういうエリアなのか、エルカ達はそれで充分に把握できた。その一部分だけ見ると、まるでアイドルのコンサート会場だ。
全体的に華やかなCエリアとは対照的に、Bエリアの応援席からは手下達のむさ苦しい声援が飛ぶ。それ以外のエリアの観客席からは野次一色だ。
「それでは、対戦方式を決めます。代表者一人、リングに上がってください」
両エリアのボスである、ベルーゼとチョーがリングに上がった。二人の間にジャッジが立ち、コインを翳した。
「悪魔が描かれた方が表。天使が描かれた方が裏です。コイントスの結果を当てた方に決定権が与えられます」
「ふっ、そんなことは知っているよ。さっさと始めてくれたまえ」
チョーはあくまで余裕な態度を崩さない。ジャッジがコインを真上に弾き、落ちてきたところを左手の甲で受け止め、右手で覆い隠した。目では追えない取り方なので、勘に頼るしかない。
「表だ」
「じゃあ、僕は裏」
ジャッジが手をどけると、そこには悪魔が顔を覗かせていた。
「表なので、Bエリアが決めて下さい。五戦マッチか、勝ち抜き戦か、いかがなさいますか?」
「勝ち抜き戦だ」
即答。勝ち抜き戦でエルカを先鋒で出す。これが最も確実で手っ取り早いのは、最初から分かりきっていた事だからだ。
「本当にいいのかい? 勝ち抜き戦なら、この僕が五人抜きしてしまうよ? まあ、応援席にいる僕のファン達は、それを見たいだろうけどね」
「……やれるものなら、やってみればいい」
それだけ言って、ベルーゼはリングから降りた。先鋒で出るつもりのチョーは、そのままリングに残る。役目を終えたベルーゼが、四人の元へ戻ってきた。そしてエルカに耳打ちする。
「じゃあ、後は任せたぞ。お前の力を見せ付けて、奴らを黙らせてやれ」
「言われるまでもないわ」
エルカがベルーゼと入れ替わるようにリングに上がった。リング上で再び対面する、エルカとチョー。両者共に、ルックスもファッションも、魔界の武闘大会とは思えない華やかさだ。このまま社交ダンスを始めても違和感はないだろう。しかし、両者の間に交わされる火花がそれを全否定する。
「今更謝ってももう許さないからね。君は触れてはいけない物に触れてしまったんだ……」
「あっそ。ねえジャッジ、さっさと始めて頂戴。早くこの醜男をボコりたくて、ウズウズしてんだから」
チョーは、未だかつてここまでコケにされた事はなかった。大観衆の前で、この糞生意気な女に大恥をかかせてやる…………チョーは心に誓った。
「……なあ、レオン。あいつ何秒持つと思う? 俺は十秒と見たが」
カゲトがニヤニヤしながらレオンに問いかけた。
「じゃあ、僕は二十秒」
「いや、仮にもエリアボスだ……。エルカ相手とはいえ、一分は持つんじゃないか? タオはどう思う?」
ベルーゼが口を挟んで、タオに話を振った。
「えっと……私は、無事に勝ってくれればそれでいいです……」
カゲト達の間でこんな舐めたやり取りが行われているとは露知らず、Cエリアのメンバー四人は、チョーの勝利を信じて疑わない。
「分かりました。では…………試合開始ッ」
ジャッジの試合開始宣言と同時に、チョーが両手を広げ、回転しながら優雅に舞い上がった。Cエリアの応援席から感嘆の声が上がる。
「ふふ、知っているよ。人間は空を飛べないってね。まずは手の届かない空中から、魔法でじわじわといたぶってやる。弱りきった後に、ゆっくりと料理して……」
チョーは気付いた……エルカがリング上にいない事に。背後に気配を感じた時には、既に遅かった。チョーの背中に衝撃が走り、リングが凄まじい速さで視界に迫った。リングに激突した直後、再び背中に衝撃と、骨がバキバキと折れる音…………エルカの膝がチョーの背中に刺さっていた。エルカはチョーの髪を掴み引き起こす。そして顔面に拳を連打、連打、連打、連打連打連打。ヤドックとの組み手で解消しきれなかった鬱憤を、まとめてチョーの顔面に叩き込んでいく。とにかく顔だけを執拗に狙い続けた。そして純白のエルカのドレスに、早速返り血のアートが描かれていく。
エルカがチョーの髪を掴んだまま、腕を引いて腰を深く落とす。そして、最後の一撃をチョーの顔面にぶちかました。チョーの体はリング外の観客席の下の壁に激突し、大の字に張り付けになった。
「一応殺さないでおいてやったわ。後で自分の顔を鏡で見てみなさい。とっても素敵な顔に加工しておいてあげたから」
「場外。勝者、Bエリア・エルカ」
ジャッジが手を上げ、エルカの勝利を告げる。開始からジャスト十秒。予想をピタリと当てたカゲトが、ベルーゼとレオンの肩を抱き、勝ち誇った笑みを浮かべた。
しかし闘技場内は、完全に凍り付いて静まり返っていた。この魔界でも滅多に見られないような惨劇を、彼らは目の当たりにしたのだ。Cエリアの女達も、悲鳴を上げる事すら忘れて呆然としている。エルカはある事を思い出し、ハッとなった。
「あっ……結局どうやって全身の毛穴から血を噴き出させるつもりだったのかしら? まあ、どうでもいいわね」
エルカは、青ざめているCエリアの残りのメンバーに向き直り、この日一番の笑顔を向けた。
「次の相手は誰かしら? あっ、言っておくけど棄権は認めないわよ。棄権したら、この大会が終わった直後に、あんたら全員皆殺しにするから。今ここで半殺しにされるか、ちょっとだけ長生きして後で死ぬか。どちらか選びなさいな」
ベルーゼは自身のトラウマを蘇らせながら、ちょっとだけCエリアの連中に同情した。エルカという悪魔と、早々に出会ってしまった事に……。彼らもきっと、ベルーゼと同じトラウマを植え付けられる事になるだろう。
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