真・巨獣黙示録
はくたく
第0章 蘇る巨獣王
第1話0-1 プロローグ
二000メートルの深海。
一言で言っても、実感をもってイメージできる人は少ないだろう。
水圧は水深が一メートル深くなるごとに0.一気圧高くなる。つまり水深二000メートルでは実に二百気圧、平地での一気圧に対して二百倍の圧力が体全体にかかると考えていい。
しかし、もし体内に圧力によって体積の変化しにくい水などの液体が満たされていれば、水圧が増したとしても、すぐに二百倍の力で押し潰されるというわけではない。たとえば水深移動の激しい深海魚の中には、浮き袋の中に空気ではなく脂肪やワックスを溜めているものも見られるくらいである。
しかし人間は、肺にはもちろん耳や喉などの呼吸器官につながる場所にも空気が溜まっている。そしてそれらが内側からの圧力としてはたらいている。
巨大イカによって深海に引きずり出された明は、それらの空気が体内から一瞬にして押し出された。
浮力を失った明の体は、ゆっくりと沈み始めていた。
「明君!! 明君!!」
漂いながら沈みゆく明の体がモニターで映し出され、紀久子は半狂乱になった。
席から立ち上がり、深海探査艇・シーサーペントへと走り出す。だが、外部ハッチの前には八幡教授が立ちふさがっていた。無言のまま紀久子の両肩をつかんで乱暴に押し戻す。
「私、行きます!! そこをどいてください!!」
抗議するように睨んだ紀久子は、しかし八幡の目が潤んでいるのを見て立ちすくんだ。
「ダメだ。君も分かるだろう? こんな深海の水圧下では、一瞬であっても生きていられる人間はいない。それにあの巨大イカの脅威が去らない限り、我々の命も危ないんだ。唯一の脱出手段であるシーサーペントを失う危険を冒すことは出来ん」
苦い表情で答えたのはウィリアム教授だ。
「Yes.ヤツはおそらく巨獣化したArchiteuthisの変異体ダロウ……アレが襲ってきたら、この第三ブロックも危ナイ」
カインが、モニターに映る巨大イカを見つめながら言った。
「アルキ……なんだって?」
東宮照晃がカインの言葉を聞き取れずに聞き返す。
「Architeuthis ダイオウイカの学名ダ。まったく、日本人は専門外の学名を覚えナイナ」
「…………あんたの発音がネイティブ過ぎンだよ」
口を尖らせた東宮がそっぽを向いて小さく呟いた。
「なるほどアルキテウティス……ダイオウイカの巨獣化個体か…………」
ぎりっと歯を鳴らす音がした。温厚な八幡には珍しい怒りの表情だ。
「我々を救ってくれた明君の仇だ。せめてあのアルキテウティスにとどめを刺そう」
八幡達が巨大イカ・アルキテウティスと戦う覚悟を決めていたころ、明は海底に到達していた。もちろんとっくに意識はない。ウィリアム教授の言った通り、普通の人間なら即死のはずである。
しかし明の体内には不死のG細胞が生きていた。そして個体生存を最優先しようとする細胞内共生生物メタボルバキアが、既に完全に明の体内に定着していた。
それらの働きによって、明の肉体は仮死状態となっていたのだ。
もちろん酸素すらない深海では、完全な死を迎えるのにそう何分もかかりはしない。ただ、明が落ちた海底は他とは少々違う場所であった。いや、正確には海底ではなく、巨大な生物の体の上であったのだ。
「G」と呼称される巨大生物。
その頭部にパックリと開いた傷口。白い肉が剥き出しになったその傷口に、偶然にも明の体は落ちた。
痛々しく裂けた白い肉が、明の体を綿のように柔らかく包み込む。
不死身と言われた『G』であっても、欠損してしまっている器官は再生できない。つまり、中枢神経系を欠損した『G』がよみがえる可能性は、ほぼゼロのはずであった。
だが、それゆえに『G』は、いや、G細胞と共生するメタボルバキアは待っていたのだ。欠損した器官と同じ細胞組織を持つ生きたG細胞を。
そして、明の体内のメタボルバキアもまた求めていたのだ。明という新しい宿主をなんとか生きのびさせ、メタボルバキア自身をも救う巨大なエネルギーを。
深海で偶然に出会った、二つの個体に共生している微生物の利己的戦略が合致した。
「なんだ? この濁りは……?」
第一ブロックの管制室で外部モニターを監視していた干田が、訝しげにつぶやいた。
「どうしたんですか?」
倒れていたすべての所員に、なんとか抗生物質の点滴を終えた石瀬が、干田の横に並んだ。
「いや、妙な濁りが発生しているんだ。これまでこんな現象は見たことがない」
干田の言う通り、確かに妙であった。
濁りが一点を目指し、渦を巻いて流れていくのだ。濁りの正体は深海に沈降してくる懸濁物質、マリンスノーのようだ。それが、まるで何かに吸い込まれてでもいるかのように、かなりのスピードで流れに乗って周囲から集まってきている。シュラインが深海生物を臭いで集めた時とよく似ている。ただ違うのは、集められているのが遊泳能力のないはずのマリンスノーであるという点だった。
「あの、渦の中心には……」
石瀬は呆然とモニターを見ている。
「あそこにあるものと言ったら…………」
Gしかないことは、干田にもよく分かっていた。
ただ見守るしかできないまま、マリンスノーの濃度はさらに増し始めていた。
「アルキテウティスに動きが戻ってきました。麻痺がとれてきたようです」
オペレータシートに座った紀久子の固い声が響く。
アルキテウティスが電撃を受けて麻痺してからすでに十五分が経過していた。明が放ったショックアンカーは、確実にダメージを与えていたが、やはり死んではいなかったのだ。何度か大きな水流を漏斗と呼ばれる器官から吐き出し、こちらに向かって触腕を突き出そうとしている。
干田達の見ていたマリンスノーの急速な動きは、離れた第三ブロックにいる紀久子達には見えていなかった。
「いいか。カイン君?」
「OK、Dr.八幡」
深海作業服・サラマンダーの応急調整はなんとか完了していた。
八幡は稼働状態ではなかった未塗装の試作機に乗り込んでいる。球形の試作機は機動力も低く戦闘向きではないが、ショックアンカーだけは装備することが出来た。
「出撃と同時に、私がショックアンカーでもう一度ヤツを麻痺させる。カイン君は、PLN弾でヤツの頭部を凍らせてくれ。最後はポイズンアローでとどめを刺そう」
「ラジャー。了解ダ。」
「では、発進!!」
しかし、外部ハッチへの通路が開かない。
「どうしたんだね。松尾君?」
八幡の問いにも答えはない。全員が言葉を失ったようにモニターを見つめているだけだ。
「何ガ、あった?」
スーツ前部を開いて顔を出した二人は、第三ブロックのメインモニターに映っているものを見てやはり言葉を失った。
「G…………」
しんとなった室内に、いずもの低い声が響く。
そこには海底をゆっくりと歩き、こちらへ近づいてくる巨獣Gの姿がエコーロケーションのモノクロ画像で映し出されていた。
「最悪ダ」
カインがスーツから体を半分のぞかせたままつぶやいた。
Gとの距離が更に縮まり、反響解析画像、エコーロケーションモニターから、視覚モニターへ切り替わる。
「ほ……宝石?」
強い外部照明に照らされてGの額に浮かび上がったその器官は、赤い宝石のようだと、いずもは思った。
「あんな器官は……見たことがない」
ここにいるのは長くGを研究してきた研究者ばかりのはずだが、そんなものを見た者は誰もいなかった。
「Gが……目を……」
Gの目が急に鋭い反射光を放った。全員の背筋に戦慄が走る。開いたGの目に、凶悪な光が宿ったように見えたのだ。
Gは、隙を狙うかのように周囲をゆっくりと回っているアルキテウティスに向き直り、明確に威嚇の姿勢をとった。
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