因縁の過去
英語担当の女性教師は震えながら授業をしている。窓際最後列の片品翠が転校生の妙義榛名を睨み続けていたので、彼女が黒板に書いた英語は歪んでいて読めなかった。しかし、クラスの誰もそれを指摘したり、非難したりしなかった。
(この無気力感は闇のせいなのか?)
榛名は周囲を目だけで見回しながら考えた。教室全体を翠が放つ闇が覆い、皆が気力を奪われている。元気がいい男子や女子達はまだ影響をそれほど受けていないが、最初から授業についていけていない生徒達は男女を問わず、翠の闇に押さえ込まれ、更に無気力を強めていた。
(闇は生気を奪うが、人間の気力を奪うとは聞いた事がない。やはりこれは片品さんに原因があるようだな)
榛名は突き刺すような翠の視線を背中に感じながら、思いを巡らせる。その時、チャイムが鳴り、授業が終了した。榛名は女性教師がまさに教室から逃げ出して行ったのを確認してから席を立ち、厩橋渉に近づいた。それに気づき、翠がキッとした。榛名の隣席の倉渕美琴もピクンとして榛名を見た。
(今度は何、妙義さん?)
榛名が翠の気に障る事ばかりしていると思っている美琴は今度は彼女が何をする気なのかと気が気ではない。それは翠の手下同然の男子達も同じだった。
「厩橋君、同じ転校生として教えてほしい事があるのですが」
榛名は無表情な顔を渉に向け、抑揚のない声で言った。渉は榛名を微笑んで見ると、
「何、妙義さん?」
その渉の反応に翠が更に殺気立つ。翠の様子を見ていた美琴は榛名と翠を交互に見るが、何もできない。
(厩橋君、妙義さんにそんな笑顔を見せないで……)
榛名に嫉妬している自分に驚く美琴である。無論榛名は翠の殺気も美琴の嫉妬心も感じていた。
(厩橋君を巡って、片品さんと倉渕さんの間に確執が生まれたのか)
榛名は微笑む渉に対し、
「この学校の勉強のレベルはどうですか? 先生方があまりにもやる気がないので心配なのですが」
と無表情なままで尋ねた。その言葉には美琴だけでなく、クラスの大半の生徒がギクッとして榛名を見た。渉も榛名のまさかの質問に驚いたのか、目を見開いて彼女を見ている。
「厩橋君?」
榛名が促すと、渉はハッと我に返り、
「そんな事はないと思うんだけど。妙義さんがいた学校、進学校だったの?」
渉は苦笑いしている。彼も彼なりに翠の異変に気づいているのだろう。そして彼女が自分に好意を寄せている事にも。
「普通の学校です。心配しているのは先生方が何かに怯えている事です。厩橋君はその原因を知っていますか?」
榛名は意図的に翠をチラッと見た。その仕草に周囲の生徒達がざわつき、美琴が席を立った。
「妙義さん、その話は……」
彼女が割って入ろうとした時、
「美琴、でしゃばるな。大好きな厩橋と喋りたいからって、会話に加わろうとするんじゃねえよ!」
翠が机を蹴倒して怒鳴った。女子達の何人かが泣き出し、男子達の何人かも顔を引きつらせている。
「そんなつもりは……」
美琴は翠の言いように泣きそうになったが、それを堪えて言った。
「じゃあ、どんなつもりなんだよ!?」
翠の怒りは更に増加した。榛名の目には彼女の放つ闇が教室を吹き飛ばしそうなくらい膨れ上がっているのが見えた。女子達は悲鳴を上げて教室を飛び出し、男子達の多くも慌てて飛び出して行った。教室に残ったのは、翠の手下の五人の男子達と榛名と美琴と渉だけである。廊下に飛び出したうちの幾人かが職員室へと走った。
(闇とは言っても、奴とは関係ないのか……)
榛名は翠を取り込もうとしている闇の者が探している者とは違うのに気づいた。
(だが厄介だ。こいつは人間の無気力を餌にしている。このままだと学校全体が食われる)
榛名は翠に向き直り、彼女を見据えた。
(しかも片品さんは闇に同調してしまっている。自分の思いが叶わないこの学校を消してしまいたいと思っている)
翠が怒りを爆発させたせいで、榛名は彼女の深層心理まで覗く事ができた。そして同時に闇の根付き方が深く、翠は助けられないとも思った。
(無理かも知れない。片品さんが闇と気を合わせている以上、力ずくで引き離すと彼女の心が壊れてしまう)
榛名はなす術を思いつけず目を細めた。
「片品さん、僕が君を怒らせたのなら謝るよ。ごめん」
渉は立ち上がって翠を見ると、深々と頭を下げた。榛名は渉の行動に面食らい、美琴はショックを受けた。
(厩橋君、翠に頭なんか下げないでよ。貴方は悪くないんだから……)
美琴の悲しみの波動が翠を刺激した。渉の言葉で収まりかけていた彼女の怒りがまた反発して膨れ上がったのだ。
(厩橋君への思いと倉渕さんへの憎しみがせめぎ合っているのか)
榛名は翠と美琴を見比べた。
(倉渕さんと片品さんの
翠が闇に囚われて自制が効かない以上、美琴を下がらせるしかないと判断した榛名は、
「倉渕さん、ちょっといい?」
強引に彼女の腕を掴んで教室から出て行く。
「ちょっと、妙義さん……」
身長が二十センチ以上違うのに榛名が
「美琴め……」
それでも彼女は、かつての親友である美琴に対する怒りを解き切ってはいなかった。
(やっぱり、片品さんは美琴に敵意を持っているのか)
渉は翠が美琴の後ろ姿を睨んでいたのを見てそう理解した。
(でも、僕の気持ちは変わらない。七年前からずっと……)
彼はポケットから古びた短い鉛筆を取り出して見つめた。
榛名は廊下で怯えている他のクラスメート達を尻目に美琴を引っ張ったままで階段を昇っていった。
「何があったの?」
入れ違いにクラス担任の月夜野鞠子が彼女を呼びに行った生徒達と現れた。鞠子が教室を覗くと、翠が蹴倒した机を手下の男子の二人が起こし、中から散乱したものを元に戻していた。
「何でもねえよ。いちいち見に来るな、ヘボ女が!」
翠が眼を吊り上げて鞠子に怒鳴ったので、
「ひ!」
彼女は思わず
「大丈夫みたいね!」
と言い置くと、廊下を駆け去ってしまった。それを見た生徒達は互いに顔を見合わせ、溜息を吐いた。そして、翠が落ち着いたのを見て、それぞれ自分達の席に戻った。
「片品さん」
渉は翠と美琴の仲違いを解決しようと思い、彼女に近づいた。手下の五人が立ち塞がろうとしたのを、
「どけ。厩橋は私に用があるんだよ」
翠が下がらせ、渉を見た。渉は手下達の鋭い視線を浴びながら、翠の前に立った。
「何だい、厩橋? 美琴を捨てて私に乗り換える事にしたのか?」
翠はニヤリとした。すると渉は、
「僕と倉渕さんはそういう関係じゃないよ、片品さん。君と倉渕さんは親友なんだろう? 二人が口も利かないなんて、何だかすごく悲しい事だから、仲直りしてほしいんだ」
翠は渉の話を聞いて大声で笑い出した。
「情けないね、あんたは。美琴に言われてそんな事を言いに来たんだろう?」
「違う。僕の意志だ。倉渕さんは関係ない」
渉は翠に笑われても冷静に返答した。ここで感情的になったら、何にもならないと思ったのだ。
「嫌だね。あいつはもう親友どころか、友達でもない。だから口を利く必要はないのさ」
翠のその言葉に渉は衝撃を受けた。
(美琴は友人でもないだって……? 片品さん、どうしちゃったんだ?)
呆然とした顔で立ち尽くす渉を鬱陶しく思ったのか、
「向こうに行けよ、美琴の使いっ走りが!」
翠は立ち上がって渉を押した。渉はヨロヨロと後ろに下がり、力なく自分の席に戻った。
その頃榛名は美琴を屋上まで連れて行き、話をしていた。彼女は美琴に自分が転校して来た理由を話した。
「翠が闇に取り込まれている?」
俄には信じ難い事を告げられ、美琴は眉をひそめて榛名を見下ろす。榛名は美琴を見上げて、
「片品さんが闇につけ入られたのは、恐らく貴女との蟠りが原因。厩橋君とは何があったのか教えて。そうすれば、片品さんを救えるかも知れない」
榛名は真剣そのものの目で言った。美琴も翠の変貌ぶりを見る限り、何かに取り憑かれたと考えるのが一番妥当だと思えたので、榛名の言葉を信じてみる事にした。
「厩橋君は、私の初恋の人なの」
美琴は恥ずかしそうに話し始めた。しかし榛名の表情には変化はない。
「小学校一年生の時に、私と厩橋君は出会ったの。彼は私より身長が低かったけど、頭が良くて、女子にも人気があったわ。もちろん七歳だから、恋愛感情というものではなかったとは思うけど」
榛名は、
(今でも厩橋君は倉渕さんより背が小さい)
と思ったが、それは言わない。美琴がその事を気にしているからである。
「その頃は、今ほど身長差はなかったわよ。ほんの数センチだけだったんだから」
まるで榛名の思った事を見抜いたように美琴が言い添えた。
「何日かが過ぎて、クラスの男子が私が大切にしていた筆箱を橋の上から川に投げ込んでしまったの」
美琴の表情が暗くなったのを見て、その筆箱がとても大切なものだったのだと榛名は理解した。
「私は驚いて只泣くばかりだったわ。意地悪をした男子は私があまり大きな声で泣くので友達と逃げてしまったの。それを追いかけてくれたのが翠で、川に落とされた筆箱を拾いに行ってくれたのが厩橋君なの」
榛名は翠が逃げた男子を捕まえて戻って来たのを美琴の思い出から読み取った。それが始まりのようだ。
(片品さんは厩橋君が好きだったのではないのか)
翠は美琴に喜んでもらえると思い、男子を得意満面で引き摺って来た。ところが、美琴はずぶ濡れになりながらも筆箱を拾って来てくれた渉と話すのに夢中で、自分を見てくれなかった。翠はショックを受けたようだった。だが、それは切っ掛けに過ぎない。
「私、筆箱を拾ってくれた厩橋君にばかり注目してしまって、翠に男子を連れて来てもらったお礼を言わなかったの。それに気づいたのは、厩橋君がお父さんの仕事の都合で転校した後だった」
美琴は目を潤ませている。
「厩橋君は一学期の終わりに転校してしまったから、私は三ヶ月あまり、翠にお礼を言うのを忘れていたの。その事に気づけたのは、厩橋君の言葉だった」
美琴は潤んだ瞳を榛名に向けた。榛名は目を細めて次の言葉を待った。
「私は厩橋君が行ってしまうのが悲しくて、他の子達のようにプレゼントを渡す事ができなかった。それで慌てて差し出したのが、彼に拾ってもらった筆箱の中に唯一残っていた短い鉛筆だったの」
美琴の右目から涙が零れた。
「それを渡して厩橋君にお礼を言った時、彼から言われた言葉で、私は翠に取り返しのつかない事をしてしまったと気づいたの。厩橋君は『僕は美琴ちゃんが泣いていたから筆箱を拾っただけだよ。でも、翠ちゃんは自分より身体の大きい男子を捕まえたんだ。翠ちゃんにもお礼を言わないとね』って言ったの」
美琴が自分の過ちに気づき、翠に謝った事で、その時の蟠りは一旦は消えた。
「翠と私の仲は元通りになって、親友の絆は深まったわ。そして中学に進学して、それはもっと強固なものになったの」
勉強だけでなく、クラスの活動でも、美琴はクラス委員の翠を支える存在となり、二人は二人三脚で歩んで来たのだ。
「私達の関係がまたおかしくなったのは、厩橋君が転校して来た日だった。彼があの時の人だと私がすぐ気づかなかったのに、翠は気づいた。そして、当時は私と厩橋君の仲に嫉妬していたって翠が言ったの。私は冗談だと思ったし、厩橋君も笑って聞いていた。でもそうじゃなかったの」
二人はかれこれ二十分ほど話しているのだが、始業のチャイムが一向に鳴らないのを美琴は気づかない。榛名が止めているのだ。
「彼が転校して来てから一週間ほど経って、翠が突然私に言ったわ。『厩橋君に告白して、正式に付き合ってもらう』って。私は胸が痛んだけど、何を比較しても翠に劣る自分が、彼女と厩橋君を争える訳がないって……」
今度は美琴の左の目から涙が零れたのを榛名は見た。
「でも諦め切れなかった。私、その時にはっきりわかったの。厩橋君が好きだって……。あの時からずっと好きだったんだって……。忘れていた時間はあったけど、そんなの関係ないって……」
美琴の思いが翠を刺激する構造はあまりにも根深い。榛名は眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
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