太田裕宇、榛名に惚れる
妙義榛名はクラスメートの太田裕宇がいきなり現れたのを見て、無表情な顔を驚きに変えていた。そして裕宇もまた、榛名以外の全員が気を失っているのを見て、何が起こったのかと考えているのと、榛名の答えを待つために口を
『
榛名の式神である
『まだ彼がどこまで見たのかわからない』
次第に冷静さを取り戻した榛名はまた無表情に戻り、裕宇に近づく。裕宇は榛名が動いたのでビクッとし、思わず一歩後退した。
「妙義さん、答えてよ。何があったの?」
裕宇は震える声でもう一度問いを発した。榛名は裕宇が怯えているのに気づき、歩を止めた。
「何があったって、どういう事?」
榛名は惚けて尋ね返した。裕宇がどの時点でここに来たのか、確認するためだ。裕宇は唾を呑み込んで、
「部活で休憩してた時、妙義さんと桐生が松井田の取り巻きとここへ来るのを見かけたんだ。それで、気になって来たんだよ」
榛名はそれでも表情を変えない。裕宇は榛名を見つめたままで、
「てっきり、妙義さんと桐生が酷い目に遭わされていると思っていたのに、妙義さんだけが立っているから……」
榛名は表情を変える事はなかったが、内心はホッとしていた。
(何も見られていないか)
裕宇は怪訝そうな顔でそんな榛名を見る。榛名は裕宇の視線に気づき、
「私もわからない。みんながいきなり倒れてしまったの」
「ええ?」
全貌は明かせないが、倒れている事実は隠せない。それでも裕宇は衝撃を受けていた。
「大丈夫なの、みんな?」
裕宇は一番気になる桐生美緒茄のそばに駆け寄った。そして、美緒茄の近くで倒れている女子が失禁しているのを見て、ドキッとして赤面した。
(呼ぶのは女の先生にしないと可哀想だな)
榛名は美緒茄達を見渡して、
「全員、呼吸はしているし、脈拍も正常値。大丈夫だと思う」
「そう」
この事態を目の当たりにしてあまりにも冷静に応じる榛名に違和感を覚える裕宇であったが、
(妙義さんの家って、もしかして医者なのかな?)
と考える事にした。
「こいつも漏らしてる……」
裕宇は首謀者の松井田梓の取り巻きの五人が失禁しているのを知った。
(女の先生だけじゃ、どうにもならないな……)
裕宇は顔を引きつらせてもう一度榛名を見る。
「俺、先生を呼んで来るから、ここにいて」
「うん」
榛名は小さく頷いた。裕宇は榛名だけが気を失っていない事実をどう受け止めたらいいのかわからなかったが、それを彼女に訊く勇気がなかったので、そのままそこから駆け去り、職員室を目指した。榛名は裕宇の姿が見えなくなったのを確認すると美緒茄に近づき、
「桐生さん」
と揺り動かした。美緒茄は薄らと目を開き、榛名を視界に捉えるとハッとして起き上がった。
「大丈夫、妙義さん? 何もされていない?」
美緒茄の記憶はここに来た時まで遡って消されているのだ。それは梓達も同様である。
「大丈夫。みんなが気を失ってしまったから、びっくりして……」
そう言いながらも、榛名は表情を変えていない。美緒茄はそれを聞いて仰天した。
「ええ!?」
彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。美緒茄達を呼び出した梓以下総勢十五人があちこちで倒れているのが目に入り、更に唖然としてしまった。
「この子、漏らしちゃってる……」
美緒茄はすぐそばで倒れている取り巻きの一人を見て両手で口を覆った。
「あれ?」
美緒茄の消されたはずの記憶がフラッシュバックした。
(この子がお漏らししてるのを前にも見た気がする……)
そして、足元を見た。何故か右の靴が少し濡れている。
(しまった……)
榛名は美緒茄が記憶の糸を
『主、もう一度その
禍津が心の中に語りかける。榛名は、
『大丈夫だ』
彼女は禍津の提案を退け、美緒茄に近づいた。
「良かった、桐生さんが気がついてくれて……」
榛名は精一杯の演技で美緒茄の背中に抱きついた。
「妙義さん……」
いきなり後ろから榛名に抱きつかれた美緒茄は靴を確認しようとした事を忘れ、榛名を見た。
「先生を呼びに行かないと……」
美緒茄は榛名に抱きつかれて照れ臭いのか、顔を赤らめて振り返った。
「それなら、太田君が呼びに行ってくれた」
榛名は美緒茄を見つめて言った。美緒茄は間近で榛名の目を見てドキッとしてしまった。
(何、妙義さんの目、凄く奇麗……)
美緒茄にはそういう趣味はないのだが、榛名の憂いを
「そう言えば、太田君、どうしてここに来たのかな?」
美緒茄は榛名の瞳の魔力に落ちてしまいそうな自分を感じたので、榛名に尋ねたのか、独り言なのかわからない言葉を発した。
「私と桐生さんが松井田さんのお友達に連れて行かれるのを見たらしいの。心配して来たって言ってた」
榛名は美緒茄の気を逸らせるのに成功したので、裕宇が駆けて行った方に目を向けて言った。
「そうなんだ」
美緒茄はニッとした。榛名は美緒茄の表情の変化を不思議に思い、
「どうしたの?」
美緒茄は名探偵のようなドヤ顔をして、
「やっぱり太田君は妙義さんが好きなのよ。だからここまで来たのよ」
榛名はリアクションに困ってしまった。
(この子、太田君の気持ちをわかっていないの?)
裕宇が可哀想だと思う榛名だった。そして、余計なお世話だとは思ったが、ここまで様子を見に来てくれた上先生まで呼びに行った裕宇の恩に報いようと考え、
「太田君は桐生さんが心配だったんだよ。彼が好きなのは桐生さんだよ」
すると美緒茄は目を見開いて榛名を見た。そして大声で笑い出し、
「あり得ないよ、妙義さん。太田君はいつも私を『天然ボケ』ってからかってるんだから」
涙を目に浮かべて笑う美緒茄を見て、榛名は裕宇のために発言するのを諦めた。
ところが、その裕宇は職員室に向かおうとしたところを野球部の先輩に見つかってしまった。
「練習サボってどこに行ってたんだ、太田?」
それも悪い事に部長に見つかったのだ。一番ネチネチと嫌味を言う懐の小さい先輩だと裕宇は思っている。
「サボっていたのではなくてですね、体育館の裏で女子達が集団で気絶していて……」
裕宇は必死で弁明したが、そんなおかしな話を信用してくれるほど優しい部長ではない。
「嘘を吐くなら、もっとうまい嘘を吐け!」
「嘘ではないんです」
なおも言い訳しようとする裕宇の襟首を捩じ上げ、部長は言った。
「言い訳している暇があったら、さっさと戻れ!」
「はい!」
裕宇は榛名と美緒茄が気にかかったが、今はどうする事もできない。彼は仕方なくグラウンドに走って行った。
「ちょっと目を離すとこれだ」
部長はムスッとして歩き出した。
『主、先程の
禍津が榛名に教えてくれた。
『その方がいい。先生が来たら騒ぎが大きくなる。ここは放っておいても大丈夫だ』
榛名は美緒茄を見た。
「太田君、遅いね」
美緒茄は手持ち無沙汰そうに言った。
「様子を見に行って来て、桐生さん。太田君、説明に手間取っているのかも知れないから」
美緒茄は榛名にそう言われてポンと手を叩き、
「そうだね。太田君てさ、結構いい加減だから、先生を呼びに行ったかどうかもわからないよ」
榛名は裕宇が哀れで仕方がない。
(ここまで思いが届いていない関係は切ないな)
彼女は術を使ってでも裕宇と美緒茄を近づけようと思った。
「じゃ、行って来るね。もし松井田さん達が目を覚ましたら、逃げてね」
心根は優しい美緒茄なので裕宇の気持ちが伝われば、必ず二人はうまくいくと榛名は確信した。美緒茄は手を振りながら駆けて行き、危うく転びそうになった。
(ああいうところもいい人の証拠だ)
榛名は顔をほんの少しだけ
(桐生さんには申し訳ないけど、この場で起こった事を例えわずかでも思い出されては困る)
榛名は周囲に誰もいないのを確認すると尋常ではない速さで走り、校舎に通じている渡り廊下を歩いている美緒茄を抜き去りながら、彼女の背中に呪符を貼り付けた。呪符は美緒茄の身体に吸い込まれるように消えた。
「え?」
美緒茄は一陣の風が吹き抜けたような錯覚に陥り、それと同時に先程までの記憶を失った。
(ごめんなさい、桐生さん)
榛名は駆け去りながら心の中で美緒茄に謝罪した。
「私、何でこんなところにいるんだろう?」
美緒茄は周囲を見渡して首を傾げた。榛名はそれを見定めた上で何食わぬ顔で彼女の前に現れた。
「桐生さん、教えて欲しい事があるんだけど」
美緒茄は不意に現れた榛名を不思議にも思わずに微笑んで、
「いいよ。何?」
と尋ねた。
裕宇は部長に説教をされ、ランニング十周の罰を受けていた。それもノックを百本受けてからなのでヘロヘロになっている。彼は意識が飛びそうなほど疲労していたが、視界に美緒茄と榛名を捉えたので、気力が戻った。
(良かった、二人とも無事だったのか……)
何があったのか知りたくなった裕宇は最後の力を振り絞るように速度を上げ、ランニングを終えた。
「ありがとうございました!」
裕宇はグラウンドにお辞儀をし、後片づけを手早く終えると、部室棟に走った。部室の中にはもう誰もいない。罰を受けた裕宇が最後だ。
「早かったな、太田。今度からは気をつけろよ」
いないと思っていた部長が部室棟の陰から姿を見せたので、裕宇はギョッとしてしまった。
「申し訳ありませんでした」
裕宇は部長に深々と頭を下げた。部長は何故か笑顔で、
「みんなが上がった後でも、正直に十周走ったお前は立派だよ」
と言い、立ち去った。裕宇は初めて部長の事が好きになれそうな気がした。
「ありがとうございます!」
彼は部長の背中にもう一度頭を下げた。
榛名は美緒茄に音楽室や美術室の場所を聞いて一緒に行ってもらった。体育館裏の記憶を忘れさせるために質問を連発した。それほど榛名は慎重になっていた。そして教室に忘れ物をしたふりをして、美緒茄を先に帰らせた。
(黒幕の黒保根玲貴は相当の使い手のようだから、彼女を巻き込みたくない)
榛名は玲貴が美緒茄を狙っているのに気づいていたのだ。
『主、闇の者が近くにおります』
禍津が榛名の心に語りかける。榛名は、
『奴が放った闇の一部が消えたので戻って来たか』
探す手間が省けたと思った。
『ケリをつけるぞ、禍津』
『承知』
榛名は美緒茄が他の女子達と下校するのを確認してから、校舎を出た。
裕宇は着替えを終え、部室のドアの鍵を顧問の先生に返しに行ってから美緒茄と榛名を探したが、二人共学校を出た後だった。
(遅かったか……)
梓達との事を訊くふりをして、美緒茄と帰れると思った裕宇は項垂れて校門を出た。
「あれ?」
彼は道の先を榛名が歩いているのに気づいた。
(妙義さんだ。桐生も一緒なのかな?)
裕宇の足取りが速くなる。しかし、榛名は裕宇の想像以上に歩くのが速く、たちまち見えなくなってしまった。
(妙義さん、速い……)
自分が疲れているせいだと思った裕宇はそのうち追いつけると考え、榛名が曲がった路地に入った。
「いない……」
そこは直線が五十メートルほど続く道だったが、榛名の姿はない。しかも左右共曲がれる道はないのだ。
(妙義さん、速過ぎるよ……)
裕宇はまた項垂れて歩いた。
その榛名は人通りがない裏道に面した空き地にいた。そこには玲貴もいる。
「驚いたよ、
玲貴は狡猾な笑みを浮かべ、榛名を見た。
「お前も消す」
榛名はすぐに終わらせるために自分の力を解放していた。彼女の周囲に暴風のように強力な気の流れが起こり、長い髪を巻き上げ、半分隠れていた榛名の顔が全部見えるようになった。
「美形だな、お前。只殺すのは惜しい」
玲貴が舌なめずりした。
「お前如きに私を殺す事はできない」
榛名は無表情のままで言い返した。
「妙義さん、可愛い……」
追いかけて来た裕宇が榛名の素顔を見て、惚れてしまった事を彼女は知らない。
「でも、どうして風もないのに髪が揺れてるの?」
裕宇には榛名の気の流れは見えていないのである。
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