松井田梓の嫉妬

 繭蓑中学校の二年三組に転校して来た妙義榛名。腰まで届く黒髪、顔の半分以上を隠してしまっている前髪。病み上がりのように細い手足で、聞き取れないようなか細い声。男子達は「転校生は可愛い」という他のクラスからの情報を聞いていたためにその落差に愕然とし、女子達は榛名の容姿に嫌悪を抱いた。不潔そうに見えたのだ。そればかりではない。彼女はクラスに馴染んでもらおうと声をかけたクラス委員の桐生美緒茄に対して、

「彼の名前は何と言いますか?」

 クラスの女子の多くが憧れている黒保根玲貴の事を尋ねたのだ。そのせいで、玲貴の親衛隊長を自他共に認める松井田梓が榛名を標的にした。

「放課後、体育館の裏に呼び出して。ウチのクラスの仕来りを教えてあげるから」

 一時限目が終わると、梓は射るような目で榛名を睨みつけながら、取り巻きの女子達に告げた。と言うより、命じた。梓の言葉は彼女達にとって絶対なのだ。

「はい」

 取り巻き達も榛名を睨みつけながら頷く。美緒茄はそんな梓達の思惑に気づくような勘のいい女子ではない。どちらかと言うと「天然」属性だ。本人はそれを言われると全力で否定するが。

「あのさ、桐生」

 梓達が榛名を敵視しているのに気づいている太田裕宇は、入学式の日に一目惚れした美緒茄と話すチャンスと思い、声をかけた。

「何、太田君?」

 美緒茄は微笑んで裕宇を見る。その笑顔に思わずポオッとなりそうな裕宇だったが、

「転校生の妙義さん、松井田達に目を付けられたみたいだぜ」

「そうなの?」

 美緒茄は目を見開いて驚き、梓達を見る。梓達は裕宇が美緒茄に告げ口したのに気づき、舌打ちをすると取り巻き達と共に教室を出て行った。

(今ので完全に松井田にわかっちゃったよ……)

 裕宇は美緒茄の天然に項垂れてしまったが、

「あ」

 榛名が席を立ち、教室を出て行くのを見て、

「妙義さんを追いかけて、桐生」

 裕宇が急かすので、美緒茄は首を傾げながら、

「うん」

 意味不明のまま、榛名を追いかけた。

(よし、俺も)

 裕宇は美緒茄が教室を出るのを見てから彼女を追いかけた。廊下の先を歩く榛名の姿が見える。

(どこへ行くんだろう?)

 裕宇は追跡を断念した。榛名は女子トイレに入って行ったのだ。

(まずいぞ。松井田達も多分トイレだ)

 裕宇はオロオロするばかりで何も対策を思いつけない。


あるじ、黒い気が渦巻いております』

 黒く濁った水底から発せられたような不気味な声が榛名の心に直接語りかけた。

『承知している』

 榛名は洗面台の前に固まって喋っている梓達に会釈し、一番右奥の個室に入った。それを見て梓が取り巻き達に目で指示を出す。取り巻き達は頷いて行動を開始し、後からトイレに入って来ようとした美緒茄をそのうちの一人が止めた。

「え、何? どうしたの?」

 美緒茄は彼女を止めた女子を見たが、

「ここは満員よ。別のトイレに行った方が早いわ」

 そう言われ、

「そうなの?」

 疑いもせずに引き下がり、廊下を歩いて行く。

(あ、私、トイレに行きたいんじゃなかった……)

 自分の大ボケに気づいた美緒茄は顔を赤らめてきびすを返した。

(何やってるんだ、桐生?)

 一部始終を見ていた裕宇は美緒茄のボケっぷりに呆れてしまった。

(中で何をするつもりだ、松井田の奴?)

 自分にできる事がなくて、裕宇は歯軋りした。


「手早くね」

 梓は掃除用具室からポリバケツを持って来させ、水で満たすと、榛名が入っている個室の前に行った。

「妙義さん、トイレ掃除始めるわね」

 彼女は狡猾な笑みを浮かべ、バケツの水を榛名が入っている個室の上に撒いた。水は重力に従って落下し、下にいる榛名は水浸し。取り巻きの誰もがそう考え、ニヤリとした。

「え?」

 ところが、水は重力に逆らうように舞い上がり、悦に入っていた梓の頭上に落下して来た。

「いやあ!」

 まさかの事態に梓は呆然とし、身体中から水を滴らせていた。トレードマークのツインテールも濡れたせいで萎れたように垂れ下がってしまった。それを見た取り巻き達も何が起こったのかわからず、動く事ができない。そんな彼女達が全く視界に入らないかのように個室から出て来た榛名は洗面台に行って手を洗うと、トイレを後にした。

「妙義さん、大丈夫?」

 榛名が出て来たのを見て、美緒茄が声をかけた。榛名は立ち止まって振り返り、

「大丈夫、とは?」

 首を傾げて美緒茄を見る。美緒茄は苦笑いして、

「ううん、何でもない。太田君が心配してたから」

 裕宇を見て言った。榛名も裕宇を見た。

「太田君が?」

 美緒茄にそんな事を言われて、榛名に見られたので、裕宇はギクッとした。

「心配?」

 不思議そうな顔で榛名に見つめられ、裕宇は気恥ずかしくなって俯いてしまう。

「あ、いや、妙義さんが松井田達に睨まれていたからさ……」

 裕宇は頭を掻きながら言った。

「大丈夫。全部わかっていたから」

 榛名はそう言うと、教室に向かって歩き出す。そして裕宇とすれ違いざま、

「でも、ありがとう」

 耳元で囁くような榛名の声が聞こえ、裕宇は顔が紅潮するのを感じた。

(あれ、でも妙義さん、どうして俺が太田だってわかったのかな?)

 裕宇はふと疑問に思った。よく考えてみると自己紹介をしていないのだ。美緒茄が自分を見たのでそうだと思ったのかな、とも考えたが、榛名の不思議な言葉を思い起こし、更に疑問が湧いて来る。

(妙義さん、『全部わかっていたから』って言ったよな。どういう事なんだろう?)

「なあんだ、そういう事か」

 美緒茄が急に嬉しそうな顔になって言い出す。

「な、何だよ?」

 裕宇は美緒茄がニコニコして自分に近づいて来るのを見て更に顔を熱くしてしまった。

「太田君、妙義さんの事が好きなんでしょ?」

 美緒茄はドヤ顔でまた大ボケをかまして来た。本当に好きな子にそんな事を言われて、裕宇は涙が出そうなくらい悲しかったが、

「んな訳ねえだろ!」

 精一杯虚勢を張ってムッとした顔で美緒茄に言い返し、え切れなくなってダッと駆け出すと男子トイレに飛び込んだ。

「あれ、違うの?」

 置いてきぼりにされた美緒茄は首を傾げた。


 裕宇は個室に駆け込み、倒れ込むように便座に座った。

(わざとじゃないよな? 桐生は天然なだけだよな?)

 美緒茄の度が過ぎた見当外れの言葉に裕宇はついそんな事を想像してしまう。

(いや、桐生はそれほど計算高い子じゃない。それは一年以上彼女を見て来て、よくわかってるはずじゃないか)

 美緒茄は確かに可愛くて性格も良いが、信じられないくらい鈍感なのだ。特に誰が誰を好きだとか、あの子とあの子は仲が悪いとかは全然わかっていない。そんな事でクラス委員が務まるのかと思えてしまうが、自薦ではなく他薦で候補に上がり、投票で選ばれたのだから、人望はあるのだ。

(男共の多くは、桐生のボケたところがいい奴が多いんだよな)

 裕宇はその時ふとある事を思い出した。

(黒保根玲貴……。あいつは松井田達を気にも留めていない。あいつも、桐生が好きなんだ)

 自分が好きだからこそ、玲貴が美緒茄に頻繁に視線を送っているのがわかる。梓は何故か玲貴の気持ちが美緒茄にあるのに気づいていないのだ。

(それも妙な話なんだけどな)

 苦笑いをした時、チャイムが鳴るのが聞こえた。

「いっけね!」

 裕宇は慌ててトイレを飛び出し、教室へと走った。


 次の授業を体育着で受けた梓は、怒りの矛先を誰に向ければいいのかわからず、憤懣やるかたない顔で教科書を鞄に入れていた。

「梓さん、いいですか」

 取り巻きの一人が梓に近づき、小声で言った。榛名の足を引っかけて転ばそうとした女子だ。

「何?」

 吊り目をより吊り上げ、梓は忌ま忌ましそうにその女子を見る。彼女は梓の迫力に一瞬言葉を失いそうになったが、

「あの転校生、何だか変なんです」

「そんな事、言われなくてもわかってるわよ」

 わざわざ私に言いに来る事か、と梓は思い、睨みつけた。すると取り巻きの女子は更に声を低くして、

「私、見ちゃったんです」

「何を?」

 梓のイライラは募る。取り巻き女子は梓が今にも掴みかかりそうな顔をしているので、これ以上話を長引かせるのはまずいと思い、榛名の足を引っかけた時に榛名の転倒を阻止した気味の悪い手の話をした。

「はあ?」

 梓のイライラは更に悪化した。

「そんなバカげた話をするために私に声をかけないで」

 梓は犬を追い払うように手を動かした。

「は、はい……」

 取り巻きの女子はガッカリした顔で梓から離れた。その話を玲貴が聞いていた。

(なるほど、そういう事か)

 玲貴はフッと笑うと、自分の席に着いた。そして彼は次に授業の教科書を鞄から取り出している榛名を視界の端で捉えた。榛名の方は玲貴の視線を感じていないのか、わかっていて惚けているのか読めない表情で教科書をめくっていた。

(俺を見つけたのは誉めてやるよ、下等なまじない師。だが、そこまでさ)

 玲貴の左の口角が微かに吊り上がる。玲貴が気になっていた裕宇だけが、彼の表情の変化に気づいていた。

(黒保根の奴、妙義さんを見ている。何のつもりだ?)

 玲貴の標的ターゲットは美緒茄だと想定していた裕宇は眉をひそめた。

『主、奴が見ています』

 くぐもった声が榛名の心に語りかけた。

『承知している。今日、ケリをつける』

 榛名は表情を変えずに応じた。玲貴が本当は美緒茄を狙っている事はわからない梓だが、玲貴が榛名を見ている事には気づいた。

(どうしてあんな不気味な女を見ているんですか、玲貴様!?)

 まだ湿っているツインテールをハンドタオルで拭いながら、梓は心の中で叫んだ。

(はあ……。妙義さんとどうすれば打ち解けられるかしら?)

 そんな心理戦が展開されている事など全く感じていない美緒茄は頬杖を突いていた。


 悩みも虚しく、榛名との親交を深めるアイディアが浮かばないまま授業を終えてしまった美緒茄は、せめて一緒に下校しようと思い、帰り支度をしている榛名に近づこうと席を立った。ところが、彼女よりも早く梓の取り巻き達五人が榛名の周りに立った。

「あ……」

 美緒茄はハッとして裕宇に救いを求めようと彼の席を見たが、裕宇はすでに部活動のため教室からいなくなっていた。野球部は遅刻者に厳しい。裕宇自身も榛名と梓の事が気になっていたのだが、怖い先輩の顔が浮かび、泣く泣くグラウンドに向かったのだ。夏休みまでの辛抱だと考えながら。

(どうしよう?)

 美緒茄はオロオロしていたが、取り巻きの二人が自分に近づいて来たのに気づいた。

「あんたも一緒に来て、桐生さん」

「私も?」

 意外な展開に美緒茄は目を見開いた。

「今日は委員会もないんでしょ? 大丈夫だよね」

 もう一人がニヤリとして顔を近づける。

「あ、そうね。うん、わかった」

 美緒茄は榛名一人を彼女達と行かせるのは危険だと思い、素直に応じた。


 榛名と美緒茄が連れて行かれたのは、体育館の裏。その向こうには鬱蒼うっそうとした常緑樹の林があり、間には三メートルほどの高さのフェンスがある。美緒茄と榛名を待っていたのは、ようやく乾いた制服に着替えた梓と残りの取り巻き総勢十人。美緒茄達を連れて来た取り巻きと合わせると十五人だ。

(何が始まるの?)

 美緒茄はビビリ過ぎて笑ってしまった。それに対して榛名は無表情のままだ。

「何がおかしいの、桐生?」

 梓はキッと美緒茄睨みつけて怒鳴った。取り巻き達も口々に「そうよそうよ」と言い募る。

「ごめん、松井田さん。おかしかった訳じゃないの……」

 美緒茄は顔を引きつらせて何とかそれだけ応えた。

『主、こやつら、操られております』

 くぐもった不気味な声が榛名の心に言う。

『やはりな。闇に取り込まれかけているようだ』

 榛名は目だけで梓達を見渡した。

「妙義榛名、だっけ? あんた、転校早々玲貴様にちょっかいかけようとするなんて、見かけによらず図々しいじゃねえかよ!」

 梓は視線を美緒茄から榛名に移して語気を荒げた。

「ま、松井田さん……」

 美緒茄は梓の裏の顔を初めて見て、仰天していた。クラスの大半が梓の二面性を知っていたが、美緒茄は持ち前の天然のせいで全く知らなかったのだ。

「あんたにはそれなりの罰を受けてもらうよ。それから、桐生!」

 ドスの効いた声で梓が睨む。美緒茄はもう泣きそうだ。

「あんたも同罪だ。罰を受けてもらうよ」

 体育館裏で闇に取り付かれた者達が欲望のままに振舞おうとしていた。

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