警視庁刑事部特命捜査課~人格喪失

魚谷

第1話

 虎熊(くまとら)あきらは真夜中の住宅街を巡回していた。

 初任科教育を終え代々木警察署地域課に配属、交番勤務をはじめてからもうすぐ半年。

 すっかり巡回地域の地理は把握している。

 はじめて警察官として配属されたのが一月の雪のちらつく日だったが、今はもう制服にきがえると蒸し暑い七月。

 同じ渋谷区でも繁華街をカバーしている渋谷警察署とくらべ、代々木警察署の管轄は住宅街が主だ。

 あきらは自転車を止め、目の前のマンションをみあげる。

 不動通りから一本道をはずれた場所にある女性専用住居、ディアス本町。

 山手通りからも離れた閑静な住宅街のなかにある築十年ほどのそのマンションはつい一週間前、凄惨な殺人事件の現場だった。

 被害者とちょくせつ面識はなかったが巡回連絡でこのマンションにも訪問していただけに忸怩たる思いがある。

「あれ……?」

 七階建てのマンションの五階部分、南に面した窓が光ったような気がした。

 その部屋の電気は消えている。そこは殺人が起きた場所ということもあって一瞬、背筋がぞくりとしたが、すぐに打ち消す。目を凝らすと、懐中電灯のあかりだとわかった。

 すでに現場検証は終わっている。捜査員が出入りすることも考えられない。

 なにより間もなく、午前一時を迎えようとしているこんな時刻に。

 ハンドルを握る手におもわず力がこもる。

 応援を呼ぶべきか、すくなくとも交番にいる上司に報告をと受信機に手をのばそうとしとき、それまで部屋を舐めるようにうごいていた懐中電灯のあかりが不意に消えた。

 受信機に手をかけたまましばし窓をみていたが、しばらくしてエントランスに人影があらわれる。背格好からして男性だ。

 住人である管理人をふくめマンション内に男性はいないはず。

 オートロックといっても住人が入った直後を狙えば、エントランスに入ることは難しいことではない。あきらは自転車を暗がりに置くと、身をひそめた。

 自動扉がひらく。あきらは玄関をでてくる人影めがけとびかかった。

「グッ……」

 男のうめき。

 俯せにおさえこみ、すばやく間接を決める。

「警察よっ。不法侵入の現行犯で逮捕しますっ!」


「――その人が実は現役警察官であった、ということね」

 あきらからことの顛末を聞いた、藤岡鮎美(ふじおかあゆみ)はワイングラスを手に笑いを噛み殺して言った。

 鮎美は警察学校の同期だ。彼女とあきらは卒配の際、渋谷警察署の地域課にそろって配属された。交番は違うものの、同じ寮で頻繁に顔をあわせる仲だ。

 鮎美はとくべつ外見が派手で目をひくような美人ではないが、一度こうして話してみると、くりくりまなこやえくぼが可愛い笑顔に大抵の男はやられてしまう。これが愛嬌かと思わせるものがある。警察学校時代、同期の男たちから鮎美の趣味や好きなものを教えてくれと言われて辟易したことは一再でなく、魔性というのは鮎美のような子をいうのだろうと確信するに至った。

 今日はあきらは非番で、仕事おわりの鮎美と待ち合わせ、彼女のおすすめという渋谷の個室居酒屋で飲んでいた。

 警察官、それも上の階級の人間をあやまって逮捕してしまったのが昨日のこと。

 最初は自分が誘ったのだからと店は決めるといったのだが、「あきらがいく店って、ガッツリ系すぎるんだよね。おいしいんだけど胃がもたれちゃうから」とのことらしい。

「ね、どうしよ。こういうのやっぱり不祥事扱いかな。そしたら、刑事になるときとか支障になったり……」

「まあ、同じくらいの能力の人が候補にいた場合は、まあ、処分なしが有利とは思うけど……」

「女刑事になれなきゃ意味ないよう! せっかく身体を鍛えてきたのにーっ!」

「……力こぶが自慢っていうのはちょっと、し過ぎだとは思うけどね。いくら刑事が体力勝負とはいえ」

「うぇーんっ!」

 あきらは話しているうちに、こみあげてくるものがあって目を潤ませてしまう。

「あきら、猫背になってるよ。ビシッとして」

「そんな気分にならないよう。それに、刑事にならなきゃ猫背をなおす意味ないもん!」

 友人に指摘された背はますます丸まる。

 あきらにとって百七十センチの上背はコンプレックスだ。小学校高学年のときにはすでに百六十五センチはあってデカブツといわれたこともあったが、たいして気にしなかった。

 なにしろ大きいことはいいことだと本気で思っていた。ジュニアバスケでも男子を押しのけて得点を決め、チームのエースだった。

 からかってきた男性陣を逆にチビ野郎とおいかけまわしていたほどだ。

 しかし中学生になり、どうやら女の子はそんなに背が伸びないもの、ということを知ってからは自分の背の高さが気になりだした。

 決定的だったのは高校生のときだ。はじめて自分から告白して玉砕。理由が、好きとか嫌いとかではなく、きみといるとチビって思われるからというものだった。

 ちなみに好きになった子は百六十センチで、あきらはその当時にはもう百七十センチに達していた。それからは部活の勧誘はことわり、背を丸めることが多くなった。

 そんなあきらが警察を志したのは、モデルをつとめている女優がドラマで颯爽と活躍する捜査一課の女刑事を演じているドラマを見たことだった。

 男社会のなかで、ときに壁にぶつかりながらも、自分らしさを忘れない主人公の姿にすっかり魅了された。

 つくりものだとはわかっていたが、自分の生きる道はここしかないと高校卒業後、大学進学を希望していた両親を説得して警察学校の門を叩いた。

 そしてゆくゆくは自分も、あの主人公と同じ輝かしい舞台にたてるものと信じていた――。

「二十代で警部ってことを考えると、キャリアかー。名前はなんだっけ」

「……覚えてない。警察官だってわかった瞬間、頭のなかが真っ白になっちゃって」

 あきらは顔を手で覆う。

「はじめての自力逮捕、なんだっけ」

「……うん」

「ま、まあまあ。相手にだって問題があったのは間違いないんだから。捜査本部の人たちだって、あんたのことより、その人のことに腹立ててたんでしょ」

「う、うん……」

 たしかに逮捕したのが現役の警察官だと知り、署は騒ぎになった。

 しかし代々木警察署の署員のだれより激昂したのはディアス本町の殺人事件の捜査本部をたちあげていた本庁の捜査一課の課員たちだった。管理官までとんでくる大騒ぎになった。

 あきらはどんな怒声をあびるか内心ふるえていたが、彼らは怒るというよりも、よくやったやら、溜飲がさがったやらとまったく正反対のことをいわれた。

「相手は捜査員でもないのにマンションの管理人に捜査員とかいって入ったわけでしょ? 双方問題あり、喧嘩両成敗って考えて問題ないんじゃない?」

「……両成敗」

「そうよ。日本の伝統っ」鮎美はあきらを励ますよう声を張った。

「ねえ、両成敗ってさ。わざわざ呼び出しをうけてまですること、なのかな」

「は?」

「本庁の人事部から呼びだしうけちゃったんだけど……これ、両成敗、かな……?」

「そっか。よびだし、か」

 鮎美はチャイムボタンで店員をよびだすと、この店で一番いちばん高い焼酎ください、それからあれやこれやと肴を注文する。

「今日はあたしのおごり。じゃんじゃん食べて、じゃんじゃん飲もう! ねっ!」

「…………」

 あきらの背中はテーブルに頭がめりこみそうなほどひどく曲がるのだった。

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