昼下がりにはロシアンティーを

葉月水鏡

プロローグ

毎年、春の息吹が街路樹を揺らす頃になると、あの日の出来事を思い出す。

3年ほど前、当時大学生だった俺は、学費を稼ぐためにバイトをしていた。

お洒落な佇まいの店が立ち並ぶ坂道の中腹から左に曲がり、細い道を少し歩いた所にある、煉瓦造りの小さな喫茶店。

そこは気軽に立ち寄れるような大手のコーヒーチェーン店ではなく、「珈琲」を嗜む、趣のある個人経営のお店である。

その日も俺は、いつもの様に軽食を作り、品出しをしていた。

コーヒーや紅茶の抽出は、マスターと呼ばれている初老と言うよりかは「ロマンスグレー」の呼び方が似合う雰囲気の峰村さんに一任されている。


お昼を過ぎた頃、スーツケースを持った一人の青年が来店された。

目鼻立ちは整い、茶褐色のミディアムロングの髪を後ろに流した、いかにも品のありそうなその人は、カウンターの一番奥に座った。

メニューを手に取り、念入りに一枚一枚、ページをめくる。

そしてため息をひとつ、メニューを閉じた。

「ロシアンティー、あります?」

うちはオーダーの品がメニューになくても、なるべく客の要望に応えるようにしているのだが、マスターは生まれてこの方、ロシアンティーを作ったことがない。

アルコールが生まれつき受け入れられなく、正確な味で客に出せないという理由で、アルコールを使うロシアンティーは敢えてメニューから外しているのだ。

元々品書きに無いから断ることもできるのだが、出来るだけお客様には満足して帰っていただきたいという彼のポリシーから

「東條くん、ちょっと」

私が呼ばれる訳であって。


---


「葉っぱはティンブラを。蒸らす間、少しお客様とお話してきますね」

 幾ら出来るだけ客の要望に応える店だとしても限度を弁えなければただの何でも屋になってしまう。

 それにある事を確かめたく、私は青年の傍へ歩み寄った。

 青年と暫く言葉を交わした私はキッチンへ戻り、マスターへ伝える。

 「リキュールは要りません。ラズベリーってモーニング用に使うのにストックありましたよね?」

「あぁ、棚の左から2番目にある」

 ロシアンティは本来、ジャムを加えず別皿で出し、舐めながら嗜む。また、アルコール類は使わない。嗜好として入れたりする分には構わない。

 その青年は、やはり本来の様式を好むようだった。

 スーツケースのボディーに、シェレメーチエヴォ国際空港「SVO」の3レターコードが貼られていたのと、顔立ちが少しロシアっぽく思えたからだ。

 いや、ただそれだけのヤマ勘だったのだが・・・。

 私は一式をトレーに整えると、お客様の元へ運ぶ。

「お待たせして申し訳ありません、ロシアンティーです」

 そっと差し出すと、私と顔を見合わせ、その人は控え目に微笑んだ。

「御無理を言ってすみません、ここへ来たらつい戴きたくなってしまったもので」

「あ、いえ・・・」

 ふわりとした笑顔に不意を突かれ、不覚にも男にしどろもどろになってしまったが、一呼吸おいて、ごゆっくりどうぞと声を掛け、踵を返す。

「あっ、あの・・・!」

 落ち着きを取り戻そうとしたところを急に呼び止められ、軽く飛び上がってしまった。

「以前、ここは『小路』という名前の喫茶店ではなかったでしょうか?」

 雇われの身だった私は昔のことは分らなかったので、ここはこの店の生き字引に答えてもらおう、と、マスターに目配せをして助け船を要求する。

 彼はそれに気づき、任せろと言いたげに彼はウィンクをした。

「それは私の叔父がここでやっていた時のものだよ」

 ゆっくりと、マスターが口を開いた。

「その店をわしが継いで、『cafe de lane』、小道の喫茶店にしたんだ。出来ることなら名前も全部引き継ぎたかったんだけど、想い出だけを貰ってね。あいつの味はあいつにしか出せないから、それを楽しみに来てくれた常連さんをガッカリさせちゃいけないからね」

 眉をハの字にさせ寂しそうに微笑んで、その客に語りかけた。

 青年は、そうですか…ありがとうございます。とだけ告げ、それ以上は自分もその青年も、深く触れようとはしなかった。


 それからの小一時間、青年は何かの文庫本を読みながら紅茶を嗜み、お客の一人としてその場の風景に溶け込んでいる。


 ……何か今でも記憶に残る出来事だった。  

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昼下がりにはロシアンティーを 葉月水鏡 @haduki_suikyo

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