来なけりゃ良かったかも知れない
杉村衣水
第1話
仕事中、痒みを覚えて無意識に首を掻いた。
爪の感触に、怪我をしているのだと知り、どうしてだったかを思い出す。
休憩時間が来ると、カバンから携帯を取り出して彼に連絡を入れた。
今晩は空いているか、と。
その夜、自宅マンションでテレビを観ていると、インターホンが鳴らされた。
ゆっくりと玄関ドアに近付き扉を開けると、戸惑ったような面倒臭そうな青年の顔があって可笑しくなる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「入って、お茶でもどう」
「お邪魔します、頂きます」
健康的にうっすらと日に焼けた肌、筋張った肢体に、視線は俺より少し低い。
今時珍しい黒髪で、それは耳に掛からないくらいに整えられていた。
少し眦の上がった瞳と薄い唇は性格をきつく見せるが、昨晩の痴態は可愛らしかった。
「昨日の今日で連絡してくると思いませんでした。僕が気に入ったんですか?」
「うん」
やかんを火に掛けて頷く。
男のデリヘルを頼んだのは昨日が初めてだった。
相手に困っていた訳では無いが、ただ単に好奇心からサイトを開き、顔なんか曖昧にしか写っていない一覧から好みを選んだ。
好みなんて言っても、首筋のホクロが目に付いただけだ。
どうせ不細工が来るのだろうと馬鹿にしていたら、そんな事も無く、なんでこんな所で金を稼いでいるのかと疑問に思う位には整った顔立ちの青年がやって来た。
「はあ、どのあたりが」
「面倒臭そうな所。もっと媚でも売ればチップ弾む客もいるかも知れないのに。君やる気ないでしょ」
「まあ、無いですけど」
「無いならやめれば良いのにー」
「僕ゲイなんですけど」
「ん? うん、まあ座れば」
展開の読めない話を始めた彼にソファをすすめる。
そこにボスンと腰を落とした男はその柔らかさに満足したようだった。
「別に恋愛がしたい訳じゃないんですよね。やれればそれで良くて。だからそこら辺面倒臭くて、デリヘルは気持ち良くなって金が貰えるんでやってるんです。媚とか、面倒」
「枯れてるね、君いくつよ」
「こういう事してる人間に年齢訊くのはタブーじゃないですか」
「肌綺麗だもんね、10代?」
「なんでも良いです。なんなんですかこれ、さっさとやりませんか」
苛々としてきたのか、お茶葉を用意している俺に彼は眉間にシワを寄せてそう言う。
「金払ってるのはこっちだよ。その時間を好きに使ったって良いだろう」
笑ってそう返すと、彼は大人しく口をつぐんだが眉間のシワは解かなかった。
やがてお湯が沸き、お茶を淹れて彼の前の座卓に湯呑を置く。
湯気のたつそれにちらりと視線をやってから、青年は深く溜め息をついた。
「いただきます」
「ようかんいる?」
「いりません」
それからしばらく無言でお茶を飲み、リビングには二人分のお茶をすする音しかしなかった。
「え、なんなんですか、これほんと、なんなんですか」
しびれを切らした彼が真顔でそう訊いてくる。
「僕、ここ来てから一時間くらい経ちますけどお茶しか飲んで無いですよ」
「うん、まあ、俺今日は別にやる気ないし、っていうかそんな元気じゃないし」
「はあ?」
「飯でも食おうか、ピザとる?」
「いやいやいや、いや良いんですけど別に、でもあんたは良いの? 金勿体無くねえ? ていうか僕のこの時間はなんなの?」
「勿体無いと思ってないからこういう使い方をしてるんだけど。なんなら課題とか宿題とかしてもらって良いよ」
「するか、持ってきてないし」
「あ、学生さんなんだね」
「あっ」
「メニューこれね、好きなの選んで」
「か、帰りたい」
「料金前払いなのはそっちだろ」
結局その日、二人でテレビを観ながらピザを食べ、一緒に風呂に入り、同じベッドで寝たがセックスはしなかった。
朝、早く起きて朝食をつくっていると、寝室から寝ぼけ半分不本意半分の表情をした彼が起き出してきた。
「おはよう、コーヒーに砂糖入れる?」
「……おはようございます。二杯入れて下さい」
「解った」
「うーん、いや、そうじゃなくて、僕はここで何をしてんだ……?」
「今日分の料金も払ってるよ」
「うっそー」
棒読みでそう口にした彼はソファに埋もれるように寝転がった。
「僕の人生が金であんたに買われてる……」
「楽で良いんじゃない?」
男の顔を覗き込むようにソファの傍に立つと、彼は開ききらない片目で俺を見返してきた。
「アパート解約した方が良い?」
「俺飽き性だからなあ」
「最悪だ」
「まあまあ、朝ご飯食おうよ」
「……いただきます」
「君ってなんだかんだ順応力高そうだよね」
「全てが面倒なだけです」
「あ、そう。セックス出来なくて拗ねてんの?」
「違います、そりゃあ出来た方が良いですけど」
よたよたとダイニングテーブルに寄って来て、何故か立ったまま彼はクロワッサンに噛り付いた。
「座れば」
「はい」
椅子をすすめると素直に腰を下ろす。
パリパリした皮をぽろぽろテーブルに落としながら、彼は自分が汚しているのに至極不快そうな顔で唇を舐めた。
「食い辛い」
「俺は毎朝クロワッサンなの」
「飽き性なんじゃないんですか」
「これだけは変わんないんだよねえ」
「……僕はクロワッサンにならないといけないのか」
「何言ってんの」
来なけりゃ良かったかも知れない 杉村衣水 @sugi_mura
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