決別するアフマド
第6章『決別するアフマド 1』
「名前?」
「ああ。いつまでも“お前”とか“君”って呼び合うのはお互いに疲れるだろ?」
消灯時間に入ってすこし過ぎた頃、一人の少年が小声でそんなことを言い出した。
ここに居る少年少女達にとっては、就寝時間だけが唯一、ある程度の自由が約束されている時間だった。集団用の寝室は窓がないコンクリートの壁に囲まれた空間で、そこに無骨な二段ベッドが並べられているだけの簡素なものであったが、監視の目がないというだけでも、少年少女達は心底から安堵することができた。不定期的に部屋の見回りに来る大人の気配にさえ注意していれば、このように肩の力を抜いた会話だって交わすことができる。
ちなみにこの部屋で寝ているのは全員が12歳以下の少年少女たちだ。それ以上の年齢の者は男女別の部屋に移されることになるが、第二次性徴期に入っていない、もしくは入って間もない者であれば男女混合部屋でも問題ない、というのが大人達の言い分だった。
「だからさ、今から一人一人に名前をつけようぜ! そのほうが呼びやすいだろ?」
二段ベッドの上で先ほどから一席ぶっているのは、リーダー格の少年だ。中東系のやや浅黒い肌を持ち、トレードマークの天然パーマが目を引く、そんな少年だった。首からは競泳用のような細長いゴーグルを下げているが、本人曰く『“実験”の際に研究者から譲り受けた』とのことだった。基本的に少年少女たちは私物の所有を一切許されていない為、彼に持たされているゴーグルにも何かしらの意図があるのだろうが、当の本人は『なんかカッコいい』という理由から、好き好んで付けているらしい。
「馬鹿ね。名前なんて必要ないわ。何の為の識別番号だと思ってるのよ」
少年の向かい側のベッドに腰掛ける金髪の少女が、少年の方を見向きもせずに軽くあしらった。鋭い釣り目のせいで必要以上に冷たい印象を与えがちな彼女であったが、こうやってたわいも無い会話にも何らかのリアクションを示してくれる辺り、根は面倒見が良いのかもしれない。
「バカはお前だよバーカ。あんな長ったらしい番号をいちいち覚えてられっかよ。大体、殆どの奴らは自分の番号くらいしか覚えちゃいないだろ」
「あら。あなたを基準にして物事を図って欲しくはないわね。“識別番号 B-22620083”さん」
「おま……何で俺の番号覚えてんだよ。軽く気持ち悪っ」
わざとらしくブルブルと震えてみせる天然パーマの少年を金髪の少女がきつく睨んでいると、彼女と同じベッドの下段にいる胡桃色の髪の少女が目を輝かせて話しに加わってくる。
「わたしは大賛成っ! だって……」
「おいバカ! もうちっと声の音量下げろ! 見回りにバレたらどうすんだ!」
その場にいるほぼ全員に咎められ、少女は慌てて口元を押さえる。彼女はよく言えば天然、悪く言えば浅はかといった性格の持ち主だったが、だからこそここのような血生臭い施設の中では、仲間たちの緊張を和ませることができる清涼剤のような役割を担っていた。
「うぅ、ごめん。でもね、名前で呼び合うっていうのは素敵なことだと思うよ!」
「……で、本音は?」
「わたしも番号おぼえられない!」
「だよな」
意見が合致した天然パーマの少年と胡桃色の髪の少女が互いにサムズアップを交わす。それを見て金髪の少女も「わかったわよ……」と諦めた様子でそれに賛同した。
「……でもさ、名前なんて、一体どうやって付ければいいんだろう。付けたことだってないのに」
素朴な疑問を口にしたのは、部屋の隅のベッドに座る少年だ。ゴボウのように細長い手足を持つその少年は、常にどこか思いつめたような表情をしているのが印象的だった。その見た目通りに少し心配性の気があるものの、思慮深く温厚な彼を嫌う者など殆どいなかった。
「うーん。言われてみれば、確かにわかんねぇな」
ゲノメノン社のモルモットとして生を受けた彼らは、当然ながら就学経験もなければ文字の読み書きなども殆どできない。“名前”という単語の使い方や性質はある程度知っていても、辞書的な定義や命名のルール・方法などについては誰も知りえなかった。
「まあ、俺たちの間だけで使うあだ名みたいなもんだし、そんなに深く考えなくてもいいんじゃねーの」
「でも、あだ名のつけ方だって僕、わからないよ」
「んなもん俺がテキトーに付けてやるよ!」
「ええ、適当はやだなぁ」
引きつった笑いを浮かべる少年を意にも介さず、天然パーマの少年は親指を立てて自分を示す。
「まずは俺! たった今この瞬間から俺の名前は“アフマド”だ」
自らをアフマドと呼称した少年に対し、すかさず金髪の少女が問いかける。
「なんで“アフマド”なのよ」
「え? そりゃ、俺が“あっ!”としてて“フッ……”ともしてて、“マドッ!”って感じだからだよ」
「やっぱり適当じゃない」
実はこの名前には、アラビア語で『最も称賛された者』という意味が込められているのだが、当然ながらここにいる少年たちにとって、そんなことは知る由もなかった。
「それからお前。お前の名前は“シェリー”な」
アフマドが金髪の少女を指差して言った。
「一応聞くけど、その理由は?」
「なんかいつも“しぇりーっ”としてるじゃん、お前」
「……はぁ。もうこの際だからなんでもいいわ」
呆れて物も言えないといった素振りを見せる金髪の少女だったが、口元はどこか嬉しそうにほころんでいるようだった。
「ねぇ、わたしは? わたしは?」
胡桃色の髪の少女が目を輝かせてアフマドに聞いた。
「そうだなー。うし、お前は“ミルカ”だ」
「それはわたしが“ミルッ”としてて“カッ!”となってるから?」
「いや、乳臭いから“ミルク”に寄せてみた」
「わたしだけ明確な理由アリなんだ!?」
ミルカがぷんすかと頬を膨らませていると、今度は双子の姉弟がこちらにやってきた。二人はこの部屋の子供達の中でも最年少であり、いつも微笑ましく手を握り合っているその姿は、まるで部屋に飾られた可愛らしい人形のようだった。
「私たちのも決めてー! お揃いのがいい!」
「ねーちゃん。しーっ」
「おいおい。お揃いじゃあ名前を付ける意味がないだろ」
「えーっ?」
「しかたないよねーちゃん。そういうものだもん」
このやり取りからも見て取れるように、姉の方は元気で人懐っこく、弟の方は姉に比べてやや大人しかった。
「じゃあこうしよう。お前らは“リリー”と“リリアン”だ。語感も似てるし、なんか双子っぽいだろ?」
「リリー? わたしがリリーで」
「ぼくがリリアン」
互いに顔を見合わせて確認している双子に、アフマドは頷く。
「アフマド……って、呼べばいいんだよね。僕のは?」
やはり思い詰めた表情をしている少年が、しかしどこか興味津々そうな様子で聞いた。
「おっ、さっそく使ってやがるな」
「確かに、名前があると便利だね」
「だろ? それでお前の名前は……よし、“ブルック”にしよう。なんか知的っぽい」
それから……とアフマドは、今まで部屋の隅で傍観者に徹していた少年を指差した。横に大きく跳ねた焦げ茶色の髪の少年は、遠目から見れば少女にも見えてしまうような中性的な顔立ちだったが、彼の放つ狼のような気迫が、そのような印象を吹き飛ばしていた。
布団に包まっていた少年は、突然に指名を受けて一瞬ビクリと肩を震わせたが、すぐにいつもの無愛想な表情を作った。
「……なに」
「ハハハッ。話の流れ的にわかってるくせに、照れんなって」
「別にオレ、名前なんていらないケド」
「……アハハハ。あー、そう」
少年に軽くあしらわれ、アフマドが半笑いのまま凍りつく。
正直なところ、アフマドはこの少年を苦手としていた。別に嫌っているわけではない。ただ、何に対しても拒絶を示す彼がまるで冷徹なロボットのようにみえ、人間味がまるで感じられなかったからだ。アフマドからしてみれば、彼が日頃どのような“実験”を受けているのかは知らないが、せめて世間話くらいには付き合ってほしいものであった。
「……っじゃなくて! お前にも名前で呼び合うことに協力してもらうぞ! これは命令だかんな!」
アフマドは高らかに告げるが、やはり少年は消極的な反応を示す。
「なんでそんなに名前にこだわるのさ。そんなの無くたって、他人を呼ぶことはできるだろ」
「名前で呼んだほうがもっとこう……、そう! 絆が芽生えるだろ! 俺だって、お前とも仲良くなりたいんだよ!」
「あっそ」
こいつ……ちっとは喜んだりしろよ。こっちとら恥ずかしさを忍んで言ってやったのに。
またも軽くあしらわれてしまったアフマドは青筋をピクピクと震わせながらも、やがて吹っ切れた様子に彼に断言する。
「とにかく、お前の名前は俺が勝手に決めさせてもらう! お前はたった今この瞬間から“ナット”だかんな! 覚えとけよ!」
(ナット……? うわぁ、ヘンテコな名前だなぁ)
ナットと名付けられた少年は心の底からそう思っていたちょうどその時、唐突に部屋のドアが乱暴に蹴り開けられた。少年少女たちは反射的に身構える。
開け放たれたドアの向こうに立っていたのは“教育係”の男だった。逆三角形型の鍛え抜かれた肉体の持ち主で、研究者達からはフロッグマンと呼ばれていた男は、手に革製の鞭を握りながらにんまりと下品な笑みを浮かべている。
(マズい、見回りに気づかれてたか……!?)
「命名ごっこなんて、楽しい遊びをやってるねぇ! おじちゃんも混ざりたいな〜あっ!」
緊張で神経をすり減らしている少年少女達とは対照的に、フロッグマンは満面な笑みを浮かべて見せる。大人がするにしてはあまりにも無邪気過ぎるその笑顔は、かえって子供達の不安感を煽っていた。
「でもねぇ……。イケナイなあ、子供がこんな時間まで起きてちゃあ」
フロッグマンの瞳孔が開く。どこまでも黒く濁った彼の黒い瞳は、まさに蛇をも睨み返す恐れ知らずのカエルのようだった。
「オ・シ・オ・キ。しちゃうんだからねぇっ!!」
刹那、フロッグマンの鋭い鞭打ちがアフマドの身体を目掛けて放たれた。あまりにも素早い動作にアフマドは反応が遅れ、回避も受け身の姿勢を取ることも忘れ、ただその場に立ち尽くしていた。
「あ……」
「どけっ!」
鞭が直撃する寸前でナットがアフマドを押し退け、代わりに鞭に触れる形となった。つい耳を塞ぎたくなるような乾いた音が室内に響く。
予想外の事態に、鞭を打たれたナットよりも、庇われたアフマドのほうが困惑していた。
「ナット、お前……どうして?」
尻餅をついているアフマドを見向きもせず、ナットはフロッグマンを睨みつける。
「こいつらの代わりにオレを打てよ。サンドバッグにはもってこいだろ」
「言うねぇ。さてはおたく、傷つけられて気持ちよくなっちゃう系人類?」
「は?」
「おおっといけない! これ以上は18禁の話題になっちゃうぞっと。まあともかく、減らず口を叩く子にはやはりしつけをしておかなきゃあねェ!」
一発、また一発と、龍のように宙をうねる鞭がナットのまだ幼く華奢な身体に容赦なく叩き込まれていく。その光景を見せつけられていたアフマドら少年少女たちはただそれを見守っていることしかできなかった。別に助け舟を出さない彼らが非情だったというわけではない。それほどまでに大きな恐怖がこの空間を支配していたのだ。
最後の重い一撃がナットに突き刺さり、体が勢いよく後方に吹き飛ばされる。ナットはすぐに立ち上がると、フロッグマンを視線の先の捉えながら切れた唇を手で強引に拭っていた。
「もう、イジメ甲斐のない餓鬼でちゅねえ! これに懲りたらもう夜更かしなんてするんじゃあないぞっ! じゃあね、おやすみっ!」
少し不満足げなフロッグマンだったが、ようやく拷問を止めると鞭を腰に仕舞い、ガニ股で部屋から出て行った。
「ちょっと、大丈夫!?」
シェリーが血相を変えて声をかけ、全員がナットの側に駆け寄る。散々鞭を打ち込まれた肌は赤く晴れ上がり、あらゆる箇所から出血もしている。こうして立っていられるのが不思議なくらいだった。
「別に、大丈夫だけど」
しかし、ナットはまるで何事もなかったかのような平然とした表情でそう答えた。
「いや、どこをどう見ても大丈夫じゃあねえだろ!? 強がってる場合じゃ……」
「
アフマドの言葉を遮るように、ナットが短く告げる。
「大人達に散々いじくり回されたせいで、オレの身体は痛みを感じないように出来てるんだ。だから、ダイ……ジョウ……」
言いかけたところで、ナットはその場で力尽きてしまった。倒れかけた彼の体を、アフマドは慌てて受け止める。
「……バカ野郎。痛みを感じなくたって、ダメージは身体に残るだろうが」
この出来事をきっかけに彼らとの絆が芽生えることになるということを、この時のナットはまだ知る由もなかった。
*
日付が変わっても、“雨”は一向に止む気配がなかった。コロニーのシャフトから降り注ぐ水の粒が窓ガラスを伝い、雨音のベールが街中を包み込んでいた。ここが地球ならカエルの鳴き声でも聞こえて来そうな天候であったが、残念ながら『ダーク・ガーデン』にはヒト以外の動物は生息していない。
「……ナットさん!」
橙色の照明が薄っすらと照らすリビングにて、エリーが自分の肩を強く揺さぶっているのを感じて、一人硬いソファの上で毛布一枚をかけて寝ていたナットはようやく目を覚ました。
「大丈夫ですか? ひどくうなされてましたけど……」
「あ、ああ……大丈夫」
パジャマ姿のエリーが心配そうにこちらを覗き込んでくる。急遽ミルカの家に止まることになったエリーとミリアの二人は当然ながら着替えの服を持っていなかった為、昨晩はミルカのパジャマを借りて寝ていたようだ。ちなみにミルカ宅には男性用の服はなく、ナットは普段通りの格好で一夜を過ごした。
(朝っぱらから、ちと過激すぎやしねぇか……?)
先述した通り、現在のエリーは自分より一回り小さいミルカサイズの水色のパジャマを無理やり着込んでいるため、彼女の豊満な肉体を包みきれず、今にもはち切れそうになっていた。上下の服の間には、形の良いへそまで覗かせている。
「……ナットさん?」
(ハッ!)
恥ずかしそうに胸元を隠しながらこちらを睨むエリーの視線に気付き、健全な青少年であるナットは慌てて目を逸らす。
「お、おはようエリー……。今日もいい朝だな」
「外はまだ夜みたいですがね」
若干不貞腐れた様子のエリーが窓の方へ目をやり、ナットもそれにつられて視線を向ける。窓の奥に見える景色は未だ暗闇に包まれていた。
「おかしいな。日の出の時間はとっくに過ぎてる筈なのに」
部屋の壁に備え付けられた時計は、確かに6時半過ぎを示していた。基本的にコロニーでは、グリニッジ標準時における午前6時丁度に日照開始時間が設定されている。にも関わらず、何故かコロニーの人工太陽装置は正常通りに稼働していない。
「ふぁ〜。よく寝たぁ。二人とも早起きだねぇ」
「おはよー、ナット。エリー……って、あれ。まだ夜?」
呑気に欠伸をしているミリアと、まだ眠そうに瞼を擦っているミルカの二人がリビングにやってきた。ミルカの貸しているパジャマがミリアに何の問題もなくジャストフィットしていることについては特に言及しないでおこう、とナットは思った。
「いや、時間的には確かに朝のはず……なのだけど」
エリーが困惑するのも無理はない。ナット達がこのコロニーを訪れてからというものの、異常な事態ばかりが立て続けに起こっている。普段このコロニーに住んでいるはずのミルカでさえそう感じているのだから、少なくともこれが正常でないことは間違いないだろう。
「ん? あれはなんだ?」
雨と暗闇が支配する街を窓から一望していたナットは、サイレンを鳴らし青いランプを光らせながら走行している一台のワゴン車を発見した。黒い塗装を施されたワゴン車には、黄色い帯のようなマーキングが施されている。
「ああ、あれは『ダーク・ガーデン』の治安警察だよ」
といっても、ジャンク屋コミュニティが組織した私立の警察だけどね。と補足説明してくれたのはミルカだ。
この『ダーク・ガーデン』はその性質上から、悪質な詐欺や暴力事件などの犯罪が後を絶たない。そのため、コミュニティ側がそれを取り締まる必要があったのだろう。
「宇宙港の方に向かってやがるな。物騒なことにならなきゃいいけど」
宇宙港。それはすなわち、コロニーの管理局がある場所でもある。治安警察がそこへ向かっているのには、きっとこの“雨”や“日の出”が関係しているのだろう。さらに言えば、宇宙港にはコスモフリートとそのクルー達が停泊しているはずだ。
(ひょっとして、何かオレの見えないところで大きな事件が起きつつあるのか……? 港にはあいつらが居るから、大丈夫だとは思うが……)
ナットはやりようのない不安感をどうにか拭うように、携帯端末を手に取った。
やはり、連絡はつきそうにない。
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