第26話 禁忌の言霊


 ■ ■ ■



 草上名冬に対して、天知ノリトがやったことは簡単だった。


 いや、実際にやったのはノキアであるので、ノリトは実のところ、何もやっていない。

 ノキアは、自身の習い事の先生の中で、若い男性の先生に、こう言ったのだ。


「お母様が、先生のことを好いているようですよ」


 ノキアの母は、若い頃にノキアを産んだので、まだ三十代前半だった。


 父はなかなか帰ってこないので、まだ若い母は寂しい日々を過ごしている――真実はともかく、そんな視線を向けられるようになるまで、時間はかからなかった。


 人口密度が高くなればなるほど、人の目は増え、噂は飛び交うようになる。

 虚構の醜聞が広まるのに、時間はかからなかった。


 これが、外での出来事ならば、なんてことはなかっただろう。しかし、草上名冬は生粋の箱入り娘であり、外の交友関係というものをそれほど持っていなかった。必然的に家の中での生活が彼女の全てであり、そして、その中で不名誉な噂が広まってしまった。


 母は厳格な人だった。

 少なくとも、ノキアに対して厳しく接する以上に、自身にも厳しい人だった。

 そんな彼女は、自身にまつわる醜聞に、耐えることが出来なかった。


 ある日、書き置きとともに忽然と屋敷から姿を消した名冬は、自身の両親以外には居場所を知らせず、ノキアや秀星の前にも、二度と姿を現さなくなった。


「こんなつもりじゃなかったんだ」


 誰ともなしに、ノキアは言い訳をしていた。

 こんなつもりではなかったのだ。

 自分はただ、母を少しだけ困らせたかっただけだ。

 それなのに、彼女は永遠に、母親を失った。


 呆然と立ち尽くすしかないノキアは、許しを求めた。

 ノキアがきっかけを作ったことを知っている人間は、一人を除いて居なかった。


 その一人である天知ノリトは、ノキアに入れ知恵をした張本人だった。


「大丈夫ですよ。ノキアお姉さん。あなたは悪くない」


 いけしゃあしゃあと言いながら、彼はその小さな身体で、ノキアを抱きしめた。

 許しを求めていたノキアにとって、その優しさは、思わずすがりつきたくなるものだった。


「ねえ。ノキアお姉さん。。『僕を好きになってください』」

「ああ。わかったよ」


 母がいなくなり、精神の安定を欠いていたあの時。

 ノリトが依存先となってくれたことは、もしかしたらノキアにとって幸せだったのかもしれない。


 しかし、それから一年間は、ノキアに自我などなかった。


 たまにやってくるノリトのお願いを聞くだけの日々。

 些細な子供じみたお願いから、倫理観を逸脱したものまで、それは多岐にわたった。


 二年前、ノリトが中学受験のために忙しくなったためにその交流は途切れた。

 その時にようやく、ノキアは自分が何をしていたかをはっきりと理解し、あまりのことに恐怖した。


 おそらく、そのことを父は知らない。

 ノキアは必死に隠していたし、ノリトもバレるようなヘマはしなかった。それが知られていれば、さすがの父も、ノリトとの婚姻を考えようとは思わないだろう。


 草上ノキアにとって、天知ノリトはトラウマの権化だ。

 そんな彼に怯えて生きるくらいなら、いっそ――



 ※ ※ ※



 草上ノキアの拳が、天知ノリトの頬に突き刺さる。

 それはもはや、倒れかかるような形での殴打だった。全体重が乗った拳は、ノリトの身体をおもいっきり殴り飛ばす。


 あまりの出来事に、ノリトは一瞬、頭が真っ白になった。


 一体何が起きているのか。一体何をされたのか。

 疑問符がいくつも浮かんでくる中で、自分へと拳を伸ばしている少女を見る。その瞬間、状況を理解するよりも先に、ノリトは憤りを覚えた。


 なぜ――

 どうして、今まで圧倒していたはずの少女に、この自分が一杯食わされなければならない。


 草上ノキアはノリトにとって好ましい少女だった。

 しかしそれは、自分の言うことを聞いてくれるからこその、感情だった。

 敵対するまでは良くても、こんな風に、一矢報われるのは――純粋に、我慢ならなかった。


 ノリトの表情が怒りに満たされる。

 ノキアの身体は限界だったのだろう。たたらを踏みながら、意識を保つので精一杯といった様子だ。しかし、その表情は満足げだ。してやったりといった態度で、まるでノリトを挑発しているかのようでもあった。


 それを見て。

 カッと、怒りで頭が真っ白になる。


「この――」


 そして、天知ノリトは。

 自身に課していた唯一の縛りを、あっさりと解いてしまった。



「【】!!」



 踏みとどまっていたノキアの瞳孔が開く。

 口がパクパクと動き、身体が不自然に崩れ落ちる。受け身など取れるはずもなく、顔面から地面に落ちたノキアは、そのままあっさりと霊子体を崩壊させた。


 消え行く霊子の光は、命の残滓だ。


 そして――草上ノキアは死亡した。



 ※ ※ ※



 その一部始終を、七塚ミラは上空で見ていた。

 草上ノキアの反撃と、天知ノリトの無慈悲な一言。


「【】」


 その【】が使われた意味を、ミラははっきりと理解していた。

 消滅していく草上ノキアの霊子体。それは、魔力の限界が来たとか、そういったものではなかった。明らかに異常な消え方は、本体の方に問題がある。


「ノキ……ちゃん」


 ミラの顔から血の気が引く。

 あまりのショックに、体中から力が抜けていった。


 上空で鏡の制御を放棄したミラは、そのまま自由落下する。

 四十メートル近い摩天楼の上から落下した少女は、地面にクレーターを作りながら天知ノリトの前に降り立った。



 ※ ※ ※



 そして――


 天知ノリトは、ノキアが消えた所を、呆然と見下ろしていた。


 ノリトにとって、その【】は禁句だった。それだけはしないようにと誓っていたのに、ほんの少し動揺しただけで、思わず使ってしまった。


 思わずで使ってしまったという事実が、ノリトの頭を真っ白にさせる。


 今から否定の【】を使用したとしても、目の前に対象者が居ないと【】は効果が無い。今すぐ霊子体を解いて、現実世界の草上ノキアに対して【】を使わないと――心停止の時間が長いと、後遺症が残ってしまう。


 しかし、そこまでの考えが及ばず、ノリトは動揺するだけで立ち尽くすことしか出来ない。


 そんな彼のすぐそばで、盛大な落下音が響き渡った。

 まるで、人一人がコンクリートにぶつかったような音。


 反射的に、そちらの方を振り返る。


「君は――」


 そこには、落下によって血まみれになった、七塚ミラの姿があった。


「……許さない」


 ぽつりとつぶやく声は、地をはうような迫力があった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで、彼女はノリトに迫る。一歩ごとに怪我が悪化し、血が吹き出す。血がぽたぽたと落ちる端から、霊子の塵となって消えていく。


 その姿は幽鬼じみていて、思わずノリトは身を引いてしまう。


「と、【】!」


 真正面から【】を食らったミラは、衝撃を受けたように身体をのけぞらせる。

 その瞬間、彼女の背後の鏡が一枚砕け散った。


「――ゆるさ、ない」


 ミラはまた一歩、足を踏み出す。

 言霊をまともに受けたのに動けている。その事実に、ノリトは動揺を隠せない。


「く、この【】! 【】!」


 言霊を受ける度にミラは大きくのけぞるものの、その度に背後の鏡に大きなヒビが入り、また一歩を踏み出す。

 何度やっても向かってくる様子は、ゾンビそのものだ。


 七塚ミラには何度か言霊を破られている。

 それはおそらく彼女のパッシブスキルの力なのだろうと予測していたが、ここまで効かないのは、ノリトの価値観を大きく揺さぶった。


「よくも……よくも、ノキちゃんを」


 ミラの周囲に異変が起きる。

 割れた鏡から、黒い影のようなものが沸き上がってきたのだ。

 それは霧のようであり、ミラの身体にまとわりながら、彼女の動きに追随している。


 明らかにまともでないその姿に、ノリトはパニックになる。


「【】! 【】! く、この――」


 後ずさりながら、ノリトはとっさに思いついた言葉を口にする。


「――【】!」


 一向に止まる気配がなく、それどころかのけぞりすらしなくなったミラに、ノリトはついに破れかぶれになり、絶叫するように言霊を飛ばす。


 だが、その【】という【】は、効果的だったらしい。

 ミラの周囲に浮遊している鏡が、一瞬にして全て砕け散った。


 ミラにとって、鏡は分身のようなものである。それを一瞬にして砕かれた上に、【】の力に寄って因子にも傷が入れられた。


 さすがに歩みは止まり、ミラはその場に膝をつく。


「はぁ、はぁ。は、はは」


 目の前の脅威がようやく歩みを止めたことに、ノリトは乾いた笑い声をあげる。嫌な汗が背中を伝っている。はっきりと、恐怖を覚えていることを自覚した。



 ようやく緊張を解いた。


 



 ミラの割れた鏡が、漆黒の闇を生み出した。


「が、ぐ、ぁああああ!」


 喉を潰さんばかりの絶叫が響き渡る。


 言葉にならない叫びをあげながら、よろよろと、七塚ミラは立ち上がる。

 その瞳はすでに焦点があっておらず、足取りからしても意識があるように見えない。


 割れた鏡からは、どす黒い霧が溢れ出し、彼女の全身をまとっている。まるで、周りの黒い霧が、彼女を無理やり立たせているようにすら見えた。


 一度は過ぎ去ったはずの恐怖が、またも天知ノリトを襲う。


(なんなんだ――このファントムは!)


 ノリトの動揺をよそに、七塚ミラは、正気を失った目でふらふらと身体を支える。


「ふ、ぅう。うぅ、ぁぁああ!」


 うつろな目で、ミラはうめき声を上げながらまた歩み始める。


 もはや余裕などない。

 得体のしれないファントムに、ノリトの理性は吹き飛び、そして、二度目の禁忌を犯した。



「【】」



 ※ ※ ※



 その異変を、久能シオンはデバイスを通じて知った。


 情報処理用の携帯端末には、ファントムである七塚ミラのステータスと、現在の状態が表示されている。現在、体力がかなり削られているが、まだ戦える状態なのは分かっていた。


 そんな彼女のステータス画面が、まるでノイズでも走ったかのように点滅を始めた。


「なんだこれ……」


 故障なんてことがあるはずもないのだが、それを疑ってしまうほどに画面が点滅する。

 その中で、七塚ミラの因子のところに、見慣れない名前が見えた。

 すぐに消えてしまったが、そこには『黄泉』という文字が見えた。


「――」


 急がなければいけない。

 シオンは魔法デバイスを手に取ると、走りながら一つの魔法式を準備する。


「『スタンバイ』――」





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