彼女は空の鯨

@kasa-obake

第1話

「本日も快晴です、キャプテン」

 モニタの中に金髪の少女が微笑む。モニタの正面、船長席に座る少年は少女の報告を聞きながら、海面と空を艦橋のガラス越しに見ていた。空はまだ薄暗く、空を映す海面もまた暗い。だが、彼方向こうの水平線には太陽が昇りつつあった。

「おはよう。特異事象は?」

「何一つ。滞りなく」

 水平線の向こうに見える空と海の境界は、少しずつ、だが目に見えて明るさを増していった。太陽が水平線に明るい線を引き始めてから、完全にその姿を見せるまでの時間は短い。そんな海と空を見ながら、この船のキャプテン、コールは暗闇に太陽の光が満たされていく様を眺めていた。黎明の紫は、やがて鮮やかに蒼へと変わる。この移り変わる空の色を見るのがコールは好きだった。

「まもなく日出の時刻となります、キャプテン」

 既に空は晴天であることをアピールするように、雲一つ無い空をコールに見せつけていた。ここまで見事な晴天は久しぶりだ。

「いい天気だな、メア。益々問題無さそうだ」

 コールは正面のモニタの中にいる少女に語りかけた。メアと呼ばれた金髪碧眼の少女は実体の無いただの人口知能だ。電子情報としてこの船の回線を元気に走り回っている。メアは普通の人間と変わらない自然さでコールに応える。

「はい、海面は穏やか、視界も良好、レーダーの感度も最高です」

 人口知能にも関わらず、メアはこうして、親愛の情すら漂わせコールと接している。ここまで人間らしい人口知能を、コールは他に知らなかった。コールにとって、メアが親代わりだったというのもそう思わせる理由の一つかもしれない。

「よし、『天気予報』で指示された海域への到着予定時刻は?」

「昨晩連絡のあった海域への到着予定時刻は○八○○です、キャプテン」

 ○八○○予定通り、とコールは確認する。艦橋から見える景色には白波も少なく、空も、それを映す海面も、ただひたすらに蒼い世界をコールに見せていた。変わり映えしない海と空だが、ここまで静かだと清々しい。

「了解、キャッチの用意は出来ているか?」

「アーム冷却剤、衝撃吸収剤の用意は出来ています。アームの作動確認は朝食後行います。目標の落下予測地点、時刻に合わせてのアーム制御プログラムは指定海域に着き次第微調整します」

「オーケー、とりあえず何の問題もないな?」

「ありません、キャプテン」

 海の上は変わらない。仕事もただ、淡々とこなせばいいとコールは思っている。地球の周囲に存在する金属群、それらが地球に落下してくるのをひたすら待ち、その金属、ブルーダストを回収する。それがコールの役目だった。

「ところでメア、今日のメシは?」

 コールはメアが考えているであろう献立を期待しながら尋ねた。人工知能の少女は応える。

「本日のメニューは白身魚のソテー、赤身魚のムニエル、青魚のマリネです、キャプテン」

「そりゃまた色とりどりなことで……、ってメア、魚しかないのか? この前野菜とか積んだだろ」

「贅沢は敵です。ニ、三日野菜を摂らなくても死にはしません」

「お前なぁ……、人間は味覚ってものがあるんだよ。毎食魚じゃ舌が寂しくて死にたくなるぞ」

「野菜は高価です。ギリギリまで節約しなければ食費が跳ね上がります。そうなれば私の体のメンテナンスもおぼつきません。メンテナンスができなければ私が若さを保てなくなってしまうではないですか」

 この少女は、自分のことを船そのものだと思っている。だからなにより船が大切なのだった。おそらく、コールより。この船は今年で就役して26年を迎える全長百メートル程度の中型船だ。戦艦のように鋭角的なフォルムではなく、全体的に丸い印象で上甲板は広い。ある種の女性的な形態ではある。だからこそ、彼女もこの船を自分自身だと思っているのかもしれない。

「だからってなぁ……。お前はいいかもしれんがな、俺はいい加減魚魚魚って、主食が魚類とかいう状況は我慢できなくなってきてんだよ」

「ならば鯨でも捕りますか?哺乳類なら美味しく召し上がれるでしょう。幸い、この辺りの海域には鯨の群れが確認されていますが」

「それはやめてくれ。この船であんなデカイもん解体出来ねぇよ」

 この船は本来ブルーダスト回収用の船ではないのだが、メアのおかげで装備さえあれば概ねどんな作業にも対応出来る。だが、鯨を解体するような装備は積んでいないし、流石にたったひとりのために鯨を1匹仕留めるのは無駄が多すぎる、とコールは思う。

「ならば我慢することです。海藻程度なら添えますので期待していて下さい」

「その心遣いに涙が出そうだよ」

 はぁとため息を付いて二人は問答を終了する。時刻は0643、飯時だ。今は白身魚でも我慢して、今回の回収ででかいのを当てて野菜を満足するまで食おうとコールは決意する。

「ところでキャプテン」

「なーに」

「ただいま、本艦の上空に未確認の落下物を確認しました。このコースは衝突します」

「なにぃ!?」

 レーダーを確認する。確かに上空から降ってくる物体がある。しかも、大きい。ブルーダストならばもっと小さく映る。

「なんで気付かなかった!? 回避間に合うか!」

 コールは狼狽して叫ぶ。こういうときは落ち着いて対処するのが真のキャプテンだと教わったが、そんな悠長なことは行ってられない、緊急事態だった。

「変針間に合いません。アームを展開しキャッチを試みます。冷却剤、衝撃吸収剤循環用意。上空の目標、十秒後に衝突します」

 船の前甲板に設置されたアームと呼ばれるブルーダストの回収用機械腕が動き出す。盾を持った腕、という見た目どおり、空か降ってきたものを受け止め、衝撃を吸収し、落下物を回収する。だが、いきなりでは落下物の弾道計算が間に合わず、衝撃を殺し切れない恐れがある。最悪、アームが破壊されて商売ができなくなる。

「緊急の衝撃吸収プログラムを展開します。3、2、1」

 次の瞬間、轟音と共に船体に衝撃が走る!

「冷却剤散布開始」

 アームの「盾」から衝撃吸収材と共に冷却剤が吹き出す。降ってきた物体の熱と反応してすさまじい勢いで気化していく。アームが軋み、装甲から衝撃吸収剤が吹き出す。

「アーム、持ちません」

 メアがそういった直後、アームが根元から崩れ落ちた。船体にもう一度衝撃が走る。多分、アームを破壊してなお、殺し切れなかった衝撃が甲板に響いたのだろう。コールは慌てて近くのパイプにしがみつく。

「目標物、前甲板に突き刺さりました。損傷の全容はまだ分かりませんが、航行には支障ありません」

「命に別状はない、か」

 揺れが収まりふう、と息をつく。助かった、とはいえ損害を考えると先が真っ暗だ。アームの修理にどれだけの費用がかかるだろうか。

「んで、その落下してきたものは何だ」

 せめてそれが純度の高いブルーダストであることを願う。そうでなければ完全に破産だ。コールは願った。

「人です」

「はぁあ?」

 思わず、コールは裏返った声で聞き返す。

「正確には人の入ったカプセルです。救難信号のようなものがあります。ただ、落下の衝撃で中の人間はミンチになった可能性が……、よかったですね、久々の肉ですよ」

「そーいうブラックなジョークはやめろ。カメラ回せ」

「はい、キャプテン」

 映像が艦橋のモニタに映し出される。確かに、カプセルのようなものが見えるが、辺りは未だ高熱と冷却剤との反応で出来た白煙が立ち込めている。

「映像を解析し、白煙をカメラから除去します」

 映像が切り替わり、白煙を取り除いた画像が表示される。そこには表面が焼け焦げた、円筒形の何かが見える。周囲の甲板は未だ金属が赤く焼けているが、憎らしいことに、アームを破壊してなお甲板に突き刺さったその円筒形の物体は変形すらしていない。

「冷却を急いでくれ、あの真下の区画には俺の私物が入った倉庫があるんだ」

「あの卑猥な映像ソフトですか? それなら焼け尽くすまで放っておきましょうかね」

「なんで知ってんだよ! 島の人間にプロテクト掛けてもらってたのに!」

「あの程度のプロテクト私にとっては無いも同然です。あと、その映像は私の方のプログラムでロックしておきました」

 別のことで頭を抱える羽目になったコールが顔を覆う。

「その映像の事はどうでもいいとして、これ以上被害が増えるのは好ましくありません、冷却を急ぎます」

 前甲板の周辺から冷却剤が吹き出す。アームに通していた冷却剤をそちらに回したようだった。白煙がさらに立ち込める。

「冷却、ほぼ終了しました。人間にも無害な温度になっていますが、冷却剤の影響がありますのでもう少々お待ちを」

「はぁ……俺の……大切なものが……」

「そんなに気を落とさないで下さい、そんなことで。そんな子に育てた覚えはありませんよ」

「うっさい! ちくしょう、旧世代の映像はレアだってのに……」

「いい加減にして下さい、ほら、白煙の除去も完了しましたよ」

 確かに白煙は晴れていた。コールの気分は曇天模様だったが。

「周囲に危険はありません。私から解析出来ることはしておきますので、キャプテンは肉眼での確認をお願いします」

「はいはい、りょーかい」

 足取りも重く、外の甲板に出る。確かに白煙は無いが、まだ結構な匂いが残っている。

「はぁ、ついてない。こいつのせいで……」

 そう言って焦げた円筒形の物体を蹴ったが、びくともしない。

「そういえば人が入ってるとかなんとか言ってたな。本当か? っていうかこんなのの中には入ってたら普通は……」

 もう、死んでる。中に入ってるであろう死体を想像して背筋に悪寒が走った。さっきのメアでもないが、良くてバキバキ、悪くてグチャグチャだろう。もしくは焼け焦げて既に火葬されているか……、いずれにせよ、気分のよくなるものではないだろう。だが、

「さっき、救難信号が出てるとかいってたよな?」

 ということは、中の機械は死んでないということだろうか。あの衝撃で? それに何故こんなものが空から降ってくるのか。ブルーダスト以外の物体が降ってくることなど、生まれて初めてだ。コールは疑問だらけになりながらも、とりあえずその物体を調べる。

「なんなんだろうな、これ。周りは焦げてるが……、ってランプがついてる?」

 円筒形の物体の周囲をぐるりと回って調べてみると、赤い発光している部分を見つけた。その部分をさらにみると、レバーがついているのが見える。

レバーを指でつついてみる。完全に冷めているようで、やけどをするような危険はなさそうだとコールは判断する。そして手をかけ、そのレバーを回した。180°回すと、円筒に隙間が現れ、その隙間からすごい勢いで先程見たような白煙が吹き出した。

「うぉっ!?」

 コールは慌てて離れる。咳き込み、目から涙が溢れる。踏んだり蹴ったりとはこのことだろうか。そうこうしているうちに、完全に円筒形の物体は形を変えていた。円筒形から、それを半分に割ったような半円形になっている。

 白煙が、晴れる。

 そして、その中に見えたのは、なんというか、コールにとっては非常に目を向け辛いものだった。

 あった、というより、居たのだ。その中に。

 降ってきたモノのなかに、うずくまる胎児のように、女の子が一人。

 全裸で。

 



「目は覚めたか?」

 時刻は0946、本来回収予定だったダストの回収は諦めざるを得なかった。予定の海域に向うのは止め、現在は船団島に帰るための航路を進んでいる。艦長はパックに入ったゼリー飲料を吸いながら聞いた。朝飯を食う暇がなかったのでこれで我慢しているのだ。

「いいえ。未だ目が覚める様子はありません。ですが、体の方には特に異常ないようです。恐らく眠っているだけ」

「あの落下で、か?」

「私としても驚愕モノですが、事実です。ところで、キャプテン」

「何だ」

「あの子の裸、見ましたよね?」

「ぶっ、いきなりなんだ、おい」

 思わず口の中のゼリーを吹き出すコール。

「あんな映像ソフトがあるというのに現実の少女の裸を、意識がないことをいいことに舐め回すように見るなど、鬼畜極まりますね」

「別に舐め回すようにはみてねぇよ!」

「いいえ、見てました。あの少女が出てきた瞬間からたっぷり40秒程目が釘付けになっていました」

「別に裸だからってわけじゃなくてだな、いきなりあんな子が出てきたら普通驚くだろ? ちょっと放心してただけで……」

「あと、体を触りました」

「医務室に運ぶためなんだからそれこそ仕方ないだろうが!」

 その時も、出来るだけ見ないように注意しながら彼は落ちてきた少女を運んだのだった。十分紳士的な対応だったと、コールは思う。

「ところでキャプテン」

「今度は何だ」

「あの子、目がさめたみたいですよ」

「何っ? どんな様子だ」

「まだベッドの上ですが、体を起こしてます。カメラ回しますか?まだ全裸ですが」

「回さんでいい回さんでいい」

 ホントはちょっと見たかったのだが、コールは口に出すことはない。

「ちょっと向こうのモニタで説明してきます。とりあえず服を着せてきますのでキャプテンは待っていて下さい。覗いたらダメですよ?」

「あーもういいからさっさと行け」

 艦橋のモニタからメアが消えた。コールは艦橋から彼女の入っていた物体が未だ突き刺さっている前甲板を眺める。アームがあれば片付けられるのだが、そのアームは無残な有様で横たわっている。まさかここまで完膚無きまでに破壊されるとは思わなかった。簡単な修理ならこの船の機材とメアの誘導があれば問題ないのだが、これでは新しいものに取り替えるしか無いだろう。こういう時、一人しか居ないこの船は不便だ。普通、この船のサイズなら数十人が乗っているのが基本なのだが、メアが居るおかげで普段は全く支障がない。そのことが仇になった。かと言って、この船に他の人間がゾロゾロと乗っているのは想像出来ない。降ってきた少女にしても、島につけば、そこで降りてもらうことになるだろう。此の船は、他の人間を置いてはいけないのだから。

 救いがあるとすれば、突き刺さっている物体は、メアによればかなりの高純度、大容量のブルーダストを搭載しているということか。あの小さなカプセルにそんなものが何故必要なのかは分からないが、ともかく、それを売ればいい金にはなるだろう。修理費とトントンになるかは分からないが、破産だけは免れそうだった。それに、あのカプセル自体もなかなかの値打ちモノらしい。外装の素材だけでも、ブルーダストとまでは行かなくてもそこそこの値にはなるかもしれない。この船が壊されたのは恨めしいが、元が取れるならまだいい。不慮の事故で沈んで行く船を目の当たりにしたことがあるコールにとっては、アレほどの衝撃で沈まなかったことに感謝しているくらいだった。

 それからたっぷり30分は待たされて、いい加減あの中のブルーダストの値段を釣り上げる算段をするのにコールが飽きた頃に、メアが艦橋のモニタに戻ってきた。

「戻りました、キャプテン……、はぁ」

「どうしたいきなり」

 人工知能がため息など似合わない。

「どうしたもこうしたも……。疲れましたよ。服の着方も何も分からないようだったので、懇切丁寧に教えて差し上げたのです」

「服の着方も分からない? 言葉は分かるのか」

「おそらく、分かっているはずです。一応こちらの言葉通りには従うようですし。ただ、知識だけはあるのに、常識や認識がほぼ欠如しています」

「なんだそれは……、記憶もないのか?」

「ありませんね。自分のことなどまるで分からないという様子です。あれがホントの箱入り娘という奴ですかね。あ、上手いこといいました?」

「言ってない言ってない」

 この人工知能は時々よく分からない。

「もう服は着替え終わってますから、迎えに行ったらどうですか? とりあえずキャプテンの方から事情を聞き出してください」

「お前が出来んのに俺にできるか。記憶もないんだろ、後で食事だけは持って行ってやるさ」

「女の子にそんな冷たい態度で許されると思ってますか?」

 表情は変わらないのに背筋が凍る声で、メアが言った。かなり怖い時のメアだ。人工知能がどうやったらそんな声を出せるのか、コールには常々不思議だった。

「いや、……冗談だ冗談。はっはっは、女の子は丁重にもてなさないとな」

「まったく、そんなんだから島の女の子にもモテないんですよ。せっかく脈アリな子がいるっていうのに、相変わらず朴念仁ですし……」

「あ? 何の話だ」

「いえいえこっちの話です。ほら、早く迎えに行ってあげて下さい」

 そう言われて、ようやく艦長席から腰をあげる。医務室は下の区画だ。

「私も船の状態をもう一度チェックします。異常がなければそちらにも行きますから。ヘンなことしちゃだめですよ?」

「するか」

 まったく、面倒な事になった、と思う。島についてからの修理の計画も立てなくてはいけないし。ハッチを開く手も心なしか力が入らない。艦橋からでて、梯子を滑り落ちるように、コールは降りて行った。


 医務室の前にたどり着く。この向こうにあの子がいるんだよなぁ、と思うと少し緊張する。なにせ裸を見てしまっているわけで……。コールにとって女と関わることなど、島で馴染みの農家の娘とか、その程度しかいなかった。メアは人工知能だから論外。

 何てことはない、と自分に言い聞かせる。落ち着いたところで、ハッチを開ける。

 目の前に、彼女が居た。

 ハッチの真正面に彼女が立っていたのだった。驚いて少し後ずさる。向こうは何の感慨も無いようで、眉ひとつ動かさずにこちらを見ている。今、彼女はメアが着せた女性用の制服を着ている。随分と昔から此の船にあるものだったが、ずっとメアが管理していたおかげで、新品同然だった。だが何故わざわざこれを着せるのか。病人同然なのだからもっと楽な服のほうがいいのではないのかと思った。

 彼女は黒髪長髪で、前髪も伸びっぱなしで顔の半分以上が隠れている。ここにコールが運んだ時もあまりよく顔は見ていないが、多分顔立ちはいい方だろう。それに、スラリとした体型と、白い肌は素直に美しいと思った。だからこそ、ここに運び込むのに困ったわけだが。胸は無かったが。

 彼女は相変わらず何も言わない。口を紡いでただこちらを見ている。どうしたものかと思い、コールの方からとりあえず聞いてみる。

「えーと、……言葉はわかるか?」

 コクリ、と彼女は頷く。一応反応はするようだった。

「俺はコール。この船の艦長だ。船員は俺ひとりだがな。そっちの名前は?」

 ?という感じで彼女は小首をかしげる。記憶もなさそうなので予想はしていたが、名前すらわからないらしい。

「わからない、か……。まぁ、いい。とりあえず体は大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

 いきなりしゃべった。少しびっくりしたが、こちらの言葉がちゃんと伝わるなら話すことも出来るのだろう。

「大丈夫じゃないのか。何か、体に痛いところでもあるのか? あの衝撃だったし」

 メアはなんとも無いと言っていたが、流石にそれは何かの間違いだろうと思って聞き返す。だが、帰ってきたのは予想外の答えだった。

「お腹減った」

 思わずズッコケそうになる。

「食べ物が欲しい。飲み物も」

 今度は向こうからの要求が来た。なんだか図々しい奴だと思った。

「腹が減ったのか……まぁしょうがないか。食堂に行こう。とりあえず、インスタントなものでよければすぐに食べれるからな。物足りなかったらあとでメアに作ってもらう」

「わかった」

 短い返事だが、若干嬉しそうな響きに聞こえたのは気のせいだろうか。そして俺は食堂の方へと歩き出す。彼女もその後に続いて歩きだしたのだった。


 彼女を食堂に連れてきたのをコールが後悔したのは、彼女が10個目のインスタントラーメンのスープを飲み干した時だった。テーブルの上にはカップ麺や缶詰の残骸がうず高く積まれている。

「どれだけ食えるんだよ……」

「お腹すいた」

 スープを飲み干してなお、そんなことを言う。さっきからこの調子で、いくら出してもキリがない。この華奢な体のどこに収まっているのか。この船の倉庫にはまだストックはあるのだが、非常用の食料だ、これ以上ストックを減らすのはマズイ。

「うーん……、どうするかな。メア、こっち来れるか」

 どこにともなくコールが声をかけ、メアを呼ぶ。

「はい、なんでしょうか……、って何ですかこの有様は」

 メアも流石に驚いたようだった。

「いや、全部この子が食ったんだが……、まだ足りないようでな。これ以上保存食だけ食べさせるのもマズいし、なんか作ってやってくれないか」

「これで足りないなんて鯨ですか。でもいいのですか、貴重な食料を。修理費やらでこの先さらに金欠になりそうですのに」

「女の子に冷たい態度をとるなと言ったのはメアだろうが。いいさ、どうせ島につくまでだ。明日の朝には着くだろう?」

「珍しいですねキャプテンがそんなふうに素直に女の子に優しくするなんて。じゃあ、魚と、野菜も使って美味しいものを作りましょうかね。島についたらちゃんとその分稼いできてくださいよ?」

「ちょっと待て、なんで俺の時よりメニューが豪華なんだ」

「だってこんなに綺麗な子なんですから、ちゃんとしたものを食べさせないと肌があれてしまいます」

「どうでもいいだろうがそんなこと。で、その野菜、ちゃんと俺も食えるんだろうな」

「キャプテンはいつも通りです。食べたかったら稼いできて下さい」

「な……! 俺よりその見ず知らずな女の子の方が大事か!」

「もてなさないと、と言ったのはキャプテンです。彼女はお客様ですしね」

「どう考えても招かれざる客だと思うがな……」

 彼女の方はと言えば、特に何の反応も示すことなくやはりこちらを見ているだけだ。

「あと、船体のチェック終りました。やはり航行には支障ありません。島までは問題なく辿りつけるでしょう」

「そうか。まぁそれだけでも不幸中の幸いだな。各部への連絡は終わったか?」

「滞りなく。島に着き次第団長が顔を見せろと言ってましたよ」

「うげ、めんどくせぇー……」

「状況が状況です。向こうも、予報が外れたのが気になるんでしょう。それにあの人ならこの子の事も何とかしてくれるはずです。では、私は調理作業に行ってきます」

 こちらの返事は待たずにメアは食堂のモニタから消え失せた。メアは調理用の機械の中に自分を潜り込ませて、調理を始める。調理室にある金属のはこのようなもので、その中に食材を運び込めばメアが操る調理機材でどんな料理でも作れる。

 そしてまた、この目の前の少女と二人きりになる。落ち着かない。

「お腹すいた」

「まだ言うか。メアが作るから待ってな」

「わかった」

 しかしこの子、言葉が短いな。だらだらと話の長い奴とかうるさい奴をコールは苦手としていたが、ここまで口数が少ないのも困りものだった。

「なぁ、何か自分のことで覚えてることはないのか。何でもいい。知ってる人間の名前とか、生まれたところとか、なんで空から降ってきたのか、とか」

「知らない」

 駄目か……。取っ掛かりすら無い。

「ずっとあそこに居た」

 そう言って、目の前の少女は腕を真上に上げた。

「地球は青かった」

「なんでそんな名言は知ってるんだよ」

 確か、初めて宇宙から地球を見下ろした人間の台詞だったか、とコールは自分の知識から引っ張り出す。かつて人類が到達した宇宙は、今の人間たちにはまた遠いものになっている。空から降ってくるブルーダストは、昔人間が宇宙に到達していた時代の残骸だといわれている。詳細はすべて海の底に消えてしまったが。

「それじゃ、あんたは宇宙から降ってきた宇宙人か。第一種接近遭遇だな」

「そう」

「当たってるのかよ」

確かに空から降ってきたが、だからって百年以上も前に人が諦めた宇宙からやってきた、なんていうことを信じられない程度に、コールは現実的だった。

「まぁ何でもいいか。どうせ島についたらお別れだ」

「おわかれ?」

 首をかしげて、彼女はオウム返しに訪ねる。前髪が揺れ、その間から彼女の目が見える。真っ黒の目に、吸い込まれそうになる。

「島についたら、あんたを適当な場所に預ける。船団長のところにでも行けば、どこかいい場所を見繕ってくれるだろうさ」

「そう」

 やはり、何の感慨もなさそうに。コールとしてもその方がありがたい。

「キャプテン、料理ができました」

 そこで、メアからそんな報告が入る。

「おう。そういうわけだから、とりあえず今はもてなしてやるよ。島につくまではな」

 そして料理を運ぶ俺の目の前で、彼女による第二回一人大食い大会が繰り広げられることになった。メアの作った料理は、大皿に山と盛られていたのだが、それを上から更地にしていく彼女に圧倒される。本当にいつまで喰う気だろうか。

「鯨、捕っておくべきだったでしょうかね?」

 野菜でも魚でも胃袋に何でも放り込む彼女の様子を見てメアが言った。

 コールはその声に心の底から同意した。

「食べ終わったら、また医務室にでも入れといてやってくれ。俺は甲板の様子を見てくるよ」

「了解、キャプテン」

 流石に彼女が食べるペースを落としてきた頃に、俺は席をたった。降ってきた物体の周辺には波除けのシートが貼ってあるが、こういう場合、一時間に一回は確認しなければならない。風や波は時に予想外の事故を引き起こす可能性があるからだ。

 俺が席を立つと彼女も席を立った。まだ皿に少し残っていたが、彼女は皿を持ち上げて一気に片付けてしまった。 

「もういいのか?」

 やはり彼女は頷くだけだったが、とにかく、これ以上彼女がこの船の食料を減らしてくれることはないだろうと安心した。

「俺は上に行く。あんたが落ちてきた所を調べなきゃならんからな。あんたは医務室に戻ってな」

「分かった」

 納得してくれたようだったので、コールは甲板に向う。だが、

「……何故付いて来る?」

「なんとなく」

「いや、医務室に戻るって言っただろが」

「やめた」

 そう言って、話しながら歩いているコールの後をやはり付いて来る。

「懐かれたんじゃないですか?」

 メアが会話に割って入る。この辺りの通路にはモニタはないので、艦内マイクでメアは話していた。 

「懐かれるようなことはした覚えがない。メア、案内してやれといっただろ」

「そんなこと言われましても、私には人間のような自由な体はありませんからね。言っただけでは聞かなそうですし、諦めて彼女を連れ回したらいいんじゃないですか?」

「俺にそんな趣味はない。おい、大人しく医務室に行ってくれないか?」

「やだ」

 コールは諭すが、こっちの言う事を聞く気はないらしい。

「……まぁ、いいか。あんたも自分の入っていたカプセルを見ておけばいい。なにか覚えてることがあるかもしれん」

 甲板に上がるためのラッタルは、あまり急ではない。コールは何の問題もなく登っていくが、後ろを見ると彼女は少しずつ少しずつ、そのラッタルを登っている。

「危ないからコケるなよ。ゆっくり上がって来い」

 コクリ、と彼女はこちらを見上げながら頷いた。コールは既に甲板に出ている。彼女が入っていた物体は青いシートで簡単に覆っているが、それをコールはもう一度はがして突き刺さった甲板に破損が広がってないか、回線がショートしていないか、等を確かめる。少し遅れて、彼女がやっと甲板に這い出てきた。すぐにコールを発見し、そちらにトコトコと歩み寄る。

「あんた、この中に入ってた時のことは覚えてるのか?」

「覚えてる」

「どんなことを?」

「狭かった」

 そりゃそうだろう……、とコールは思った。コールには、この中に入って寝ろと言われても、相当無理をしなければ入らないような気がする。だが、彼女が次に行った言葉は理解できなかった。

「私はもっと大きかった」

「なんだそれ」

「私はもっともっと、大きな生き物だった気がする」

「言い直されても意味がわからん」

 このとき、コールはあまり深くこの言葉の意味を考えようとはしなかった。それから、より精密な探知を終え、コール達は艦橋に戻っていった。

 二人が去ったあと、彼女の入っていた物体が唸り声を上げるように 小さく微震していたことにコールは気がつかない。



「錨地まで、5マイル。まもなく入港予定時刻マルハチマルマルです、キャプテン」

「了解」

 艦橋で、徐々に距離を詰める島を眺めながら、コールはやっと安心していた。帰る島が見えてくるこの時間は、いつ味わっても心が安らぐ。入港してからのゴタゴタはあえて無視した。

「あれが島?」

「そうだ」

 コールの左斜め後ろ辺りから声がかかる。何故か彼女も艦橋にいる。食事を終えて以降四六時中俺の後をついてくるようになったのだ。どこにでもついてくるので、正直困った。最初の食事以降、彼女は普通の人間と同じ程度の食事量に戻ってくれたのはコールとメアにとって喜ばしいことだった。

「変な島」

 彼女が変な島、と言ったこの船の母港を眺める。島は中心にある塔を起点に、大きく広がる扇型の甲板を持つメガフロートだ。無骨で、それ全体が黒い金属でできている。塔は遙か上方1km程で、折れた鉄パイプのように、唐突に天に届くのを諦めたように破壊されている。

 扇形の甲板の周囲には無数の船が停泊している。大小数百隻の船がより集まっている様子はいつ見ても壮観だ。中には潜水艦もある。だが、それらの船の殆どは出航することはない。その船一隻一隻が一つの街であったり、家であったりするからだ。そんな船がより集まって出来ているのが船団島である。

「俺にとってはあれが唯一無二の故郷なんだ。変な島とか言ってくれるな」

「わかった」

 ホントにわかったのか怪しいものだが、とにかく彼女は返事をしてくれる。最初に出会った時の印象よりは大分コミュニケーションが取りやすいとコールは思った。

「キャプテン、曳船との連絡が取れました。まもなく入港作業にはいります」

「了解」

 入港までまもなく。ようやく、地に足をつけることが出来る、と安心して伸びをした。まずは何かうまいものを食べたい。入港までの数十分間、俺はたっぷりと計画した食べ歩き計画を反芻した。


「くぅっー、やーっと着いたか」

 船の横付けが終り、メガフロートの甲板に立って、コール背伸びをした。今回船がついた所はメガフロートの外側に当たる場所で、造船所にも近い場所だ。普段は船の密集地帯のさらに外、という不便な場所に割り当てられるのだが、大破している甲板の修理を頼むこともあり、団長に調整してもらった1等地に停泊した。中心街にも近いため移動がいつもより大分楽だ。

 久々に船団島の甲板を踏みしめると、やっぱり解放感がある。今回はブルーダストの回収のために予測海域に留まっていた期間が1週間、行き帰りに2日、延べ八日間は海の上だった。特別長かったわけでもないが、最後のアクシデントのおかげでイヤに長かったような気がしていた。

 船は既に船体の補修業者を呼んで壊れたアームの撤去を始めている。業者への指示はメアに任せているし、馴染みの業者だから問題はないだろう。ここまで大規模な修理を頼むのは初めてだったが。

 コールはとりあえず船団長の所に彼女を連れていかなくてはいけなかった。彼女は初めて訪れる船団島にもさして興味はないのか、やはり表情は動かない。

「行くぞ」

「どこに?」

「団長のところだ。あんたの処遇はそいつに任せる。あの塔の、最上階だな」

 塔の最上階を指差す。本来はエレベーターホールのある場所だが、そこを改造してこの船団島を見渡せる部屋にしている。窓がぐるりと塔を囲んであるのはそういう理由だ。そこに船団長が居座っている。コールの両親とはそれなりに付き合いがあったらしく、コール自身も目をかけてもらっているが、コールとしては、はっきり言ってあまり会いたい相手ではない。

「あんたとはそこでお別れだ。この島でどう生きるかはそいつと相談してくれ」

 コールは歩き始め、彼女も後ろを付いてくる。なんだか犬みたいな女だな、とコールは思った。

 塔の巨大さのおかげで錯覚するが、メガフロートの甲板は意外と広く、塔までは結構な距離がある。だいたい歩いて三十分程度だ。その間には甲板上に設置された店や家が並び、その間に人の流れる道ができている。今は九時を回ったところで、人通りはそこそこ多い。コールはそれなりに顔が知られているが、すれ違う人々の中に彼に声をかけようとする者はいない。中にはコールが連れている女の子に興味のありそうな者はいるのだが、そういう人間も彼女が着ている制服を見て、気まずそうに遠ざかっていく。 メアはこれを予想してこの服を着せたのだろうか。

 お互い、もう特に何も話すことはない。無言で雑踏を歩いていく。 

「おーい! コールー!」

 市街地と塔の中間あたりにある商店街で、コールは初めて声をかけられた。声のした方、商店街の一角の建物、生鮮食品店の二階の窓から手を振る数少ない友人を見上げた。茶髪でそれをショートカットにしている気の短そうな女だ。

「あんまり大声で俺の名前を呼ぶなよ。うるさい」

「いいじゃん別にー! 今回は収穫あったー?」

「だから声がデカイっての。話すなら下に来い」

「わかったー! 今行くから待っててくれ」 

 そう言って窓から引っ込む。ドタドタとやはりやかましい音を立てて、その女は1階に降りてくる。

「またせたなっ!」

「別に待ってないが」

 近くに来て話しているのに、やっぱりウルサイ。

「おうっ、よく見たらコールが女の子を連れている!? 流星群でも降りそうだな!」

「だから、お前はいちいち拡声器を使ってるのと大差ない声で話すのはやめろ」

「いいじゃねぇか、入港した人間は元気よく迎えてやらなきゃな!」

 ハハハッ、と女らしからぬ豪快さで笑う。一応コールより一歳下のはずなのだが、欠片も遠慮というものが感じられない。

「んで、そっちの子は誰? どっかの船から攫ってきたのか?」

「攫うか! 難破船で漂流してたのを拾ったんだよ。それ以外は知らん」

 ここは適当な事をでっちあげておいた方がいいだろうと判断し、そう説明した。ある意味、難破してたのは本当だ。

「ふーん。まぁ信じてやるよ。しかし珍しいな、あの船の制服だろ、それ」

 やっと少し声のトーンを落ち着けて、彼女が聞いた。その件についてはやはりこいつでも大声で話すのは憚られるのだろう。この服は、ある意味で禁忌なのだった。メアや、コールにとってはそうではないのだが、周りの人間は勝手にそういうものだと思っている。

「メアが着せたんだよ。丁度いいのがこれしか無かったんだろ」

 制服姿の彼女は特に自分の格好を意識していない。コール自身も、その格好について気にしない。

「ま、いいか。それよりさ、俺のことその子に紹介してくれよ。コールの知り合いなら俺のことも知っておいて欲しいし」

「別に知り合いって程のもんじゃねぇんだけどな。こいつはジーンだ。五月蝿い女だが多分悪いヤツじゃないはずだ。あんたがこの島で暮らすなら何かと頼りになるだろうさ」

 そう彼女に説明する。彼女はやはり何も感じていないようだったが、紹介されたジーンは彼女に手を伸ばして言った。

「なんかろくな紹介されてねぇ気がするけど、とにかく、俺はコールの数少ない友人だ。こいつ友達少ないからさー、この島で暮らすんなら仲良くしてやってくれ!」

「なんでお前にそんなこと言われなきゃならんのだ」

 彼女はジーンの差し出した手をとろうとはしなかった。ジーンは笑顔のままで、表情が固まっている。

「えーと……、まぁとにかくよろしく! そっちの名前は?」

 手をとるのは諦めて、それでも笑顔を崩さずにジーンは言う。だが、その返答も返ってくることはないだろう。名前などこいつは憶えてないのだから。

「あー、ジーン、こいつはちょっと事故で記憶がないらしくてな。反応が薄いのもそのせいなんだ。悪いな」

「別にコールが謝ることじゃないっしょ。そういうことならしょうがないかって思うし。これからどうするの?」

「団長のところに連れていくよ。お前が引き止めてなかったら今頃塔についてるところだ」

「ありゃ、そうだったのか。引き止めて悪かったな。お詫びに……、えーとちょっと待ってな」

 そう言ってジーンは店の奥に引っ込んで、またすぐに戻ってきた。

「待たせるのが悪いと思うならさっさと行かせてくれ」

「大丈夫、これだけ渡したかっただけだから」

 ジーンの両手に、トマトが一つづつ。

「こっちの食い物が恋しかっただろ。今朝とれたトマト、持ってけ」

「珍しいな、商売人。後で金を要求したりすんなよ?」

「俺はそこまでがめつくねぇんだよ! とにかく受け取れ。ほら、そっちも」

 二人の手に、トマトを一つづつ握らせるジーン。

「引き止めて悪かったよ。まぁ団長に会った後でいいから、今回のこともっと聞かせてくれよな!」

「気が向いたらな。じゃぁま、トマトありがとうな」

「ありがとう」

 コールに続いて、彼女も礼を言った。こういう風に感謝をちゃんと伝えたりできるのに、コールは少し驚いた。

「ん、あんたも悪いヤツじゃなさそうだしよろしくな」

 そしてまた、二人は塔へと歩き出した。



 塔に着き、エレベーターで船団長のいる最上階へ着いたコール達は、周りの無機質な金属製の壁に比べ明らかに場違いな印象のある木製の扉を軽くノックした。

「コールだ、入るぞ」

 中からくぐもった声で入れ、と短い返事があった。コールは扉を開け、一歩中に踏み出す。

「コール、来い」

 部屋に入るなり、初老の男にコールはそう命令される。無精髭を右手で撫でながら、薄ら笑いで椅子に腰掛けている男が発した言葉には有無を言わさぬ迫力があった。コールは、嫌な予感を全身に感じながらも、近づくしかない。

 扉同様に古めかしい木製の家具や真鍮で構成された部屋に入り、コールは男に近づいた。男の机まであと数歩というところで机の男が立ち上がる。

「歯ぁ食いしばれ!」

 コールの左頬に男の強烈な右ストレートが叩き込まれ、目の前が明滅する中、嫌な予感はよく当たるなぁ、とコールは冷静に考えていた。仰け反って倒れそうになる体を踏ん張らせる。ここで倒れたら、多分もう一発貰うことになるだろうからコールは必死だ。

「いってぇなぁ! それが帰ってきた人間に対する挨拶かよ!」

「やかましい。船に傷をつけておいてこれだけで許してやるんだから寛大だろう」

 男は拳を引き戻し、また椅子に腰掛けた。

 だから来たくなかったんだ……、とコールは内心でぼやく。

「入港の様子も見ていたぞ。メアに頼りすぎだ。ちっとは自分の操艦技術も磨いたらどうだ」

「一人しか人間が居ないんだ。しょうがねぇだろ。つーか、メアに頼ってるって何で分かる」

「操艦が正確すぎるんだよ。俺じゃなくたって分かる」

 お見通しか。流石にごまかせないと悟るコール。

「とりあえず今回は一発で勘弁してやる。本題に入るぞ。そっちの君も入ってきてくれ」

 殴られてからのやり取りを部屋の入口で傍観していた少女にも男は促した。

「君か、メアの報告にあった少女というのは。こいつに何かされなかったか?」

 男はコールを指差しながら。コールはジト目で。

「あんたは俺を何だと思ってやがる。星に誓ってなんにもやってないぞ」 

「なにもされてない」

 少女も追従して答える。男の方は少し呆れ顔になりながら、続ける。

「それはそれでお前の将来が不安になるがな、コール。まぁいい。俺はここの船団長をやってるランドだ。君は名前も憶えてないんだったな。不安だろうが、こちらとしても協力しよう」

 コールに対してとは違う、実に紳士的な態度だった。コールは不満げな顔だが、ランドは気にしない。

「当面は住む場所も提供する。自分のことを思い出すまで、安心して過ごすといい。

ここでの世話はコール、お前がやってやれ」

「な、なんで俺が! 他の人間に頼めよ! 男の俺に女の世話を頼むなんてどうかしてるだろうが!」

「お前が助けてやったんだろう。責任持って面倒みろ」

「俺は海に出るのが仕事だ! お守りなんかするつもりはねぇ!」

「その仕事道具があの有様だろうがよ」

 ランドは窓から見える造船所を指差す。今、コールの船、マーメイドは大破したアームをクレーンで釣り上げようとしている最中だ。

「お前にはしばらく島で落ち着いてもらう。その間はしっかり世話してやれ」

「…………この島で俺と一緒にいたって、こいつもいいこと無いだろうが」

「お前もな、もうちょっとこの島に溶け込め。そんなことを言ってるからいつまでもわだかまりが溶けんのだろうが。いい機会だ、2人でなんとか上手くやれ」

 余計なお世話だ、とコールは内心で毒づくが不満は飲み込み、とりあえずは自分を納得させた。ジーン辺りに世話を頼めばいいだけだと考えて、この場は素直にしておこうとするコール。

「……わかった。船が直るまでだからな」

「それでいい。それとコール、メアの報告にあったカプセルはこっちで引き取らせてもらうぞ」

「何でだよ。あれを売らんと修理代が出てこないぜ」

「修理費はこっちで持ってやる。予報局の連中が調べたがってるんでな。中のブルーダストを取り出すために解体だってしなきゃならんからな。その辺の業者に任せてはおけんシロモノだ」

 昨晩コールが島に送った報告書には、メアによる詳細なデータが書いてあった。ランドの判断はそれを見てのことだろう。コールもメアの解析データは見たが、中身の半分以上はブラックボックスが如く、メアにすら解析不可能な部分があった。内蔵されてるブルーダストも含め、何があるか分からないためそんな処置になったのだろう。

「今日の話は以上だ。帰っていいぞ」

「これだけのために呼び出したのかよ」

「正確には一発殴った時点でほとんど要件は終わってたがな」

「このオヤジは……」

 死ぬまでに絶対一発ぶん殴ってやるとコールは誓った。既に握り拳は作っている。

「帰るぞ」

「帰るの」

「あー、あと一つ。その子に呼び名を付けてやれ。世話するのに名前もないんじゃ不便だろう」

「だからなんで俺が」

「世話役を納得した以上ちゃんとしろ。さあ、今ここで」

「恥ずかしいだろうが」

 名前を付けた経験など、コールには当然無い。しかも彼女は見た目同年代の女の子なのだ。気恥ずかしいにも程があった。コールは若干顔が赤い。

「名前つってもなぁ……、あ」

「なにか思いついたか?」

「いや、こいつが言ってた言葉を思い出してさ。地球は青かったって」

「それがどうかしたか」

「ガガーリンだったっけな。宇宙から最初に地球を見た人間の言葉。ぴったりなんじゃないかと思ってな」

 少女の方を見ながら言う。だがやはり、少女には感情の色が無い。

「流石にガガーリンは変だろ。どう聞いても男の名前だ」

「じゃあ、略してガガとか」

「お前にネーミングセンスを求めた俺が悪かった」

 ランドははあと深い溜息を付いた。

「いや、いいだろ、ガガで」

「猫に名付けるんじゃねぇんだぞ」

「あんたが俺につけろって言ったんだ。だったら俺が決めた名前に納得しろ」

「流石に酷い名前だと思うから止めるんだが。君の方は何か意見は無いのか?」

 少女に意見を聞いても無駄だろうとコールは既に悟っているが、ランドは問う。

「別に」

 コールの予想通りの答えが少女から返ってくる。

「まぁ確かに気にしそうには見えんがな……。その名言を言った人物からとるなら、ユーリイの方にしとけよ。確かユーリィ・ガガーリンって名前だったはずだぞ」

「ユーリイって名前だったのかあの人。でもなんかパッとしないから嫌だ。ガガでいいだろ。なぁ、あんたはどっちがいい」

 コールは二択を迫った。この少女は自分の意見は持たないが、どちらかと聞かれれば片方を答えるはずだというコールの考えだ。少女はさして考えてもなさそうに言った。

「コールが考えた方でいい」

「ってことはガガだな」

 コールは内心で勝った、と思った。

「君がそれでいいなら……。つーか、コール、なんだかんだ言って懐かれてるじゃないか」

「そうか?」

 少し一緒に居ただけで懐かれるも何もないだろうに。だが、ランドにはそう見えたらしい。確かメアもそんなことを言っていたなぁとコールは思い出した。

「どうでもいいさ。これでほんとに終わりだな? 俺はもう行くぞ」

「おう、くれぐれも襲ったりするなよ」

「するか! 行くぞ、ガガ」

 ガガとともに、船団長室を後にするコール。二人が部屋を出た後、ランドは一人呟いた。

「地球は青かった、か」

 ランドはコールを産んだ二人を思い出していた。空から降ってきた少女、宇宙からのメッセージとでも言うのか。少女があの船に降ってきたことが、ランドには酷く理不尽な皮肉のように思えた。

「ふん、天も海も気まぐれなもんだな」

 無性に酒を呑みたい気分になったランドは、クーラーの中を探る。昼間だろうが気にせず、ランドは瓶を開ける。

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