百花展

@bibelion

第1話 水無月 (紫陽花)

 降る雨が悲しくて、店内に目を向けた。うつむいた途端に涙が落ちてきた。

 もうずっと、涙など乾ききってしまったと思っていた。それなのに何故…。

 目の前にコーヒーカップが差し出される。見なくてもわかる、トラジャ・コーヒー。紅茶党で、コーヒーならアメリカンしか飲めないことを知っていても、マスターはいつもこれを出す。

 祭日のない六月の日曜日。いつもは混んでいる、本通りからははずれたこの店も、連日の雨のせいか、私とマスター以外には人影もない。

 コポコポと音を立ててサイフォンの湯が上がる。一気に上昇し、ゆっくりと下りる。私はこれを見るためにこの店に来るようなものだ。

 古き良き50年代のアメリカを再現したようなコーヒーショップ。紅茶やジュースの類は意地でも出さないこの店に入ったのは偶然だったが、いつしか常連の一人となっていた。

 あめに降られて雨宿りに入ったのが最初。コーヒーは飲めないと私が言うと、マスターは、

「もし嫌いでなかったら、香りだけでも味わっていってください。」

 と言って私の前にカップを置いた。それがトラジャ・コーヒーだった。

 それから何度か足を運び、その度にマスターは同じ物を出した。

 マスターは、私がそれに手もつけずにいるのを見ても、何も言わなかった。一度、無理して飲もうとしたときには、体に良くないから止めたほうがいいと言われたほどである。

 コーヒー通の友人には、とても贅沢だと言われた。トラジャ・コーヒーというのは、一時期幻とまで言われたとても珍しいものだと言う。そんなものをなぜ、飲みもしない客に出すのか不思議に思い、たずねた私にマスターはあっさりと答えたのだ。

「味わいもせずに一気に飲まれてしまうのと、香りだけでもじっくりと楽しんでいただけるのとでは、どちらが嬉しいと思います?」  と。

 思えば、毎回ここに来るときは雨が降っていた。季節が移っても、それは変わっていない。

 まばたきすると、一気に堰を切って涙が溢れてきそうだった。映るのは、涙でかすんだ、握り緊めた手と目前のコーヒー。一瞬の隙をついて、涙がまた落ちた。



 雨の日の水族館。人がいないのか、それとも人が少なすぎるのか、水槽が人にさえぎられることはない。

 悠然とマンボウが水の中を泳いでいる。隣ではエイやサメが右へ、左へと動く。

 少しの晴れ間に出かけてきたら、案の定降られてしまった。いつもは持ち歩いている傘も、こんな日に限って忘れてしまった。

 梅雨時は外も中もあまり変わりばえがしない。それは、雨の日の街と水族館も同じだ。周囲から切り離された寂しさがひしひしと伝わってくる。

 雨宿りするところは他にも探せばあるのに、水族館を選んだのは結構馬鹿だったかもしれない。別に僕は海洋生物に興味があったわけではない。ただ、静かかな、と思っただけで。

 まぁ、それは外れていなかった。子供の甲高い声さえ聞こえてこないところならば、どこでも良かった。

 水槽に、通路は青いライト。ゆらゆらとして、深海にいるようだ……ここが深海魚のコーナーということを除いても。

 仕方なく、ゆっくりと見て回る。静か、を求めるなら、プラネタリウムのほうが、眠っていられる分、良かったかもしれないと後悔した。

 人気(ひとけ)のほとんどない水族館を歩いていると妙な気分になる。まるで竜宮城の浦島太郎、マリンロードの商人。海洋博物館でもないのに、遥か昔の異国の海へ心は飛ぶ。

 砂漠の絹の道、ステップの草原の道、大洋を渡る海の道、交通機関の発達していなかった当時の苦難がしのばれる。

 アンコウの提灯がゆれて、ひらめが顔を出す。イカは擬態し、イソギンチャクとヒトデが食事する。

 生きた化石と呼ばれるシーラカンスの絵。深海の静寂は破れない。

 水のアーチをくぐり抜けて外に出る。晴れ上がった青空に、目が痛んだ。



 雨が上がったので、店を出た。街路樹からは雫が落ちてくる。道の紫陽花も、露が光を受けてきらめく。

 自然は偉大なのかもしれないと、こんな時思う。人が失恋に泣いていても変わらない。時には慰めてくれるような表情もする。

 店で雨を隣に、涸れそうなほど泣いてしまったので、少し気も晴れた。一時間前なら恨めしく思ったはずの、青空もそよ風も気持ちがいい。

 あんなに悲しかったのに、コーヒーを前に思い切り泣いたらすっきりした。今となっては、何故あんなに悲しかったのかさえ思い出せない。でも、それでいいのかもしれない。

 六月の雨。わずかな晴れ間がこんなに嬉しいものだとは知らなかった。




 また雨が降り出す前に帰らなければ、またどこかで雨宿りをしなければいけなくなる。もう、相当時間を費やしてしまった。

 僕はわき目も振らず、一目散に家へ帰ろうと、駅へと走った。

 本当は約束があったのだけれど、雨で流れてしまったことだろう。対して親しいとも言えない人からの誘いだったし、行くとも行かないともはっきりした答えは返していないから、もし流れていなかったとしても、問題にはならないだろう。

 思いがけなく、水族館に入り浸ってしまったので、予想よりはるかに遅くなってしまった。どうせ約束の時間には間に合わないのだから、早く帰って、見逃した番組の再放送でも見よう。

 僕は近道をしようと、本通りから裏道へと入った。この時間帯なら人もほとんどいないはず…、そう思った矢先、僕は何かにぶつかって転んでしまった。

「あ、あの、すみませんっ」

 女の子の声。僕は前を見ていなかった自分のことを棚に上げて非難した。

「気をつけてくれなきゃ困るじゃないか……」

 言いかけた言葉は、目の前の彼女の顔に残る涙の後を見たときに消えうせた。泣きはらした後のように、目もまだ赤い。

「本当に、ごめんなさい。」

「あ、いや、僕がよそ見をしていたのがもとはといえば悪いんだし……。どうもすみません」

 自分に非があるとわかっていることで謝られるのは、とても居心地が悪く、僕は意味もなく視線を動かした。そして、道に落ちている本を見つけた。

「これはあなたの、落としたものですか?」

 僕はかがんで、青い革表紙の本を拾った。少しぬれてしまってはいるが、中に被害はない。

「どうも住みません。ありがとうございます。」

 彼女はそれを大事そうに抱え込んだ。

 それからの行動は、自分でも説明がつかない。気がつくと、

「本を、ぬらしたお詫びに、お茶でもおごらせて頂けませんか?」

 と、言っていた───。




 私が驚いたのは言うまでもなく、多分呆然としてしまったのだと思う。それを拒否と受け取ったのか、彼はこう言いなおした。

「いや、無理にじゃなくて、その本の金額さえ言ってくれれば今払うけど…」

 私は思わず吹き出していた。どう考えても、道の真中でぼんやりしていた私のほうが悪いと思うのに。珍しい人だと思った。

「平気なんですか?」

 私の言葉は、彼にとっては思っても見ない言葉だったらしく、彼は驚いていた。

「急いでいたのではありませんか」

 私はもう一度言った。今度こそ彼は納得したようだった。

「たいした用じゃないですから。それよりあなたこそ平気ですか?」

「ええ、約束が潰れて暇だったんです。」

 彼は、何故か嬉しそうだった。

 たまにはこんなことがあってもいいかもしれない。今朝は本当に悲しい気分で家を出てきたのだから。


 そして私たちは大通りの喫茶店へ行った。

 道のがくあじさいが、葉にかたつむりを乗せて咲いていた。



 

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