幕間 Who & Rara

- 幕間 -

 私が彼女を救おうと思ったことに、深い理由はない。


   *  *  *


 私の苗字の「セサビナ」は人様から拝借したものだが「オルガ」は本名だ。ただよくある名前を意味もなく、両親から付けられただけだと思っている。農家の六番目の子どもとして生まれた私は、歳の離れた兄姉の姿を見て、自分もそれなりに平凡な人生を過ごすのだろうと、漠然と感じていた。つまらない人生だな、なんて思いながら。

 しかしそんな私にも、幼いころには夢があった。それは、獣医になることだ。理由はなんてことはない。ただ人間よりも家畜らといるほうが、安心できたからだった。ただのんびりと、動物とだけ暮らしていけたらいいのに。家で過ごす間中、そう心から願い続けていた。そんな夢を知ってか知らずか、父親は反抗期を迎えた私を、知り合いの屠畜場へと出稼ぎに出した。

 無知な私は、家を出ることができ、さらにそこで獣医師の手伝いができると知って、内心喜んだ。けれど、そこで教え込まれたのは命の治し方ではなく、命の選び方、そして壊し方だった。できるだけ傷つけず、手際よく逝かせる方法。魂なんて概念が存在するのなら、私はそれをただの肉の塊に変えるための作業を、毎日手伝い続けた。電気を流され、叫び絶える命を横目にして。


 ある日、私は先生に尋ねた。

「動物たちを最も苦しめずに死なせる方法はなんでしょうか?」

 先生は答えた。

「眠っている間に終わらせることだろうね」

 そして先生は、睡眠導入剤で動物を眠らせてから、塩化カリウムを投与するという方法を私に教え、爪弾きされた命たちで練習をさせてくれるようになった。獣医師になりたいのなら知っておくべきだと言って。

 その頃からだろうか、私が肉を食べなくなったのは。

 雇い主はそんなひ弱で無気力な私を嫌っていた。もっと強くなれと。だからダメなんだと。そして他の従業員たちも、私を笑うようになっていった。私は今までだって、強くなりたいと思ったことはない。弱いままでも構わなかった。けれど人はなぜ、そんな私を嘲るのだろうか。彼らはなぜ、私と比べては安心したがるのか。私には理解できなかった。私は別にどうだっていいのに。それなのに彼らはなぜ、私との違いを、わざわざ見せつけたがるのだろう。ただ先生だけが、弱くてもいいんだよと、私を励ましてくれていた。


 ある日、先生は私に尋ねた。

「親元に帰りたいと、思うことはあるかい?」

 私は答えた。

「いいえ、ここにいたいです」

 それから二三日して、今度は先生が田舎に帰ると言い出した。なんだか軽い口ぶりで適当なことを言っていたが、私は屠畜場の経営が上手くいっていないことを知っていた。従業員が減っているのにも気づいていた。そして、私が周囲からどれだけ無能扱いされているかも。だから、本当は気づいていたのだ。爪弾きされるのは、私のはずだと。先生が切り捨てられるなんてあり得ない。先生が雇い主と私のことで言い争っているのを、私は聞いてしまっていた。だから、先生が私を守ろうとしていたことも、私は知っている。

 どちらかが、経営のために切り捨てられなければならないのだろう。きっと先生は私を残すために、自らが身を引こうとしているのだ。そんな気持ちに気づいていたから、だから私はその日のうちに、誰にも別れを告げず、その屠畜場を去ることにした。


 よくある比喩の一つに「君のおかげで僕の世界は色づいた」なんて小洒落た台詞があるけれど、そんなのは薄っぺらな口説き文句の一つだとしか思っていない。行く当てもなく彷徨っていた私が、屯していた傭兵どもに唆され、身体を売って生きるようになっていた頃、私は一人の刑事に捕まった。そいつはそんな、薄っぺらな言葉を並べるのが得意な奴だった。

「君はそんなことをするために、生まれてきたんじゃない」そう言っては「それならせめて、僕のために生きてはくれないか」と、私を口説き続けて。私はただただ、薄っぺらい奴だとしか感じなかった。一回りも歳が離れて何をガキみたいな台詞を吐いているんだと。「一人じゃない」なんて青臭い言葉は、繰り返されるたびに反吐が出る。私はその気持ち悪さに耐えられなくなり、宥めるようにして言ってやった。

「なら、あんたが私のために生きてみせなよ」

 そして私は、そいつの手筈でフォウ・オクロックへ斡旋されることになった。

「ここなら、君を守ることができる」


 そいつの言う通り、私はそこで手厚く迎えられた。奴が所属していたのは、世間知らずな私には計り知れないほど、とても大きな刑事組織だったらしい。その組織とフォウ・オクロックとの橋渡し役として、私は遣わされたのだ。そして、私はそこではもう娼婦としての仕事はしなくてもいいと告げられた。いいや、娼婦だけではない。そこでは、与えられるまでは何もしなくていいと。……私は待った。身体を鍛え、一人籠って学び、与えられることを待ち続けた。そして待ち続けるうちに、いつの間にか私は食欲を失い、その舌は何に触れても味を感じなくなっていたのだった。

 そいつはそのうち、だんだんと館に現れなくなった。やがて、連絡の頻度も減っていき、ただ金だけが館に振り込まれるようになる。『ルイ・オジェ』の候補生らとともに私が最上階に住まうようになった頃には、その顔もはっきりとは思い出せないようになっていた。


 ある日、館主は私を呼び、こう告げた。

「人を殺すのは得意かい?」

 どうやらどこかで情報が食い違い、私はかつて傭兵部隊に所属していたことになっているようだ。

 私は答えた。

「やらせてください」

 そして私は『ルイ・オジェ』の脱落者たちの抹殺を命じられたのだった。

「館を出た彼女たちを、誰にも見つからずに始末してほしい。遺体は捨てておいても、元からこの世に存在していなかったはずの者たちだ。誰も気にも留めず、そのうち忘れ去られることだろう」

 眉を顰めた私に、館主は続けてこう言った。

「大丈夫。脱落者たちは例外なく皆が『死にたがり』になるから、君にとって驚くほど簡単な仕事になるだろうさ」

 そのときは、まさかと疑わずにいられなかった。だけど今なら、その言葉は本当だったと、そう思える。


 候補生の中で印象に残っているのは、『フー』と『ララ』という名の二人のことだ。どちらにもファミリーネームはない。


『フー』は、普段は物静かだったが、ひとたび『ルイ・オジェ』のこととなると、誰よりも集中して耳を傾けていた。「自分はまだ何者でもない」そういう意味で自らを『フー』と呼んでいるのだと、人づてに聞いたことがある。『ルイ・オジェ』に近づく努力は惜しまず、誰よりも熱心に、その館での役割も果たそうとしていた。部外者の私にも、彼女こそが『ルイ・オジェ』の地位に最も相応しいように思えた。「彼女こそが選ばれるべきだ」とまで感じてしまうほどに、彼女の熱意は周囲を魅了していた。


『ララ』は、愛嬌があり誰からも好かれるような人柄で、どちらかと言えば『ルイ・オジェ』の選定よりも、周囲との調和のほうが大事といったような様子だった。面倒見が良く、出会った頃は他のフロアの子どもたちの面倒まで見ていたようだ。彼女は、自らの名前をただなんとなく決めたと言っていていたわりに、スペルはLじゃなくてRだとか、最後にHは付かないだとか、妙なこだわりを持っていた。そういえば、そんな彼女が私にこっそりと、恋人の話をしてくれたことがある。もちろん、候補生が恋人を持つことは許されていない。けれど相手は、かつて館にいた医者の男で、すでに亡くなっているという。光るように黄色い髪が特徴的だそうで、名前は確か、ダインと言っただろうか。彼の話を一人で語っては燥いでいたのを、今でも覚えている。


 結果は、火を見るよりも明らかだった。だから、私はそこまで親密になりながらも『ララ』を殺める覚悟も決めていた、はずだった。『ルイ・オジェ』の選定前夜、『ララ』がいつものように私の部屋を訪れるまでは。


「オルガがあまりにもご飯を食べないからね、ここの食事が口に合わないのかな、なんて思ってて。あなたの国の料理を作ってみたんだけど……一緒に食べない?」

 そんな彼女の持つ小さな鍋に入っていたのは、トナカイの肉を煮込んだスープだった。こうして館で共に過ごせるのも、今夜が最後になるかもしれない。彼女もそう感じていたのだろうか。服のあちこちに汁が飛んでシミになっていて、その眼は赤く充血していた。初めは泣いていたのかとも思ったが、どうやら違って、尋ねると指先もヒリヒリ痛むと言う。おそらく唐辛子にやられたのだろう。私は彼女を部屋にあげると、温めたオリーブオイルを布に染み込ませて、彼女の瞼と指先を拭ってやった。幼い頃、母が私にしてくれたことを思い出しながら。

「オルガってすごいのね!」と、彼女は驚いたように言った。「ダイン先生みたい」

 しばらくすると、彼女の痛みも治まってきたようだった。

「肉は無理だけど、スープなら食べられると思う」私はそう言うと、鍋の中のスープをスプーンで掬って口に運んだ。

「どう?」「ね、どう?」「不味くない?」オリーブオイルでテカテカになった目で覗き込むようにして何度も尋ねる彼女に、私は「辛くて、臭みもあって、すごく苦い」と正直に告げた。

「え、嘘!」と叫びながら、彼女もそれを口にすると「できたてはそんなことなかったのに……」と肩を落とす。

「冷めたからじゃないかな?」と私が慰めるようにして語りかけるも、彼女は「ごめんね」と悲しそうに俯いたままだった。

「せっかくだからいただくよ」そんな様子を見かねて、私が残りを飲み干そうとすると「いいよ、食べないで!」と彼女は泣きそうな顔で、私の手から鍋を奪おうと飛びかかってきた。けれど、運動神経で私に敵うはずもない。私は彼女を避け続け、そのスープを飲み干すことに成功する。「苦い苦い」と私が笑い、彼女が怒り泣いていた姿は、今でも私の中の数少ない、楽しい思い出の一つだ。


 私は相変わらず「君のおかげで僕の世界は色づいた」なんてのは、安直な常套句の一つだとしか思っていない。けれど、彼女の作ってくれたスープは本当に苦くて、苦すぎて、私の舌に深く染み込んでいった。だからだろうか、彼女だけは何としてでも救いたいと、そう思うようになっていたのは。その翌日、『ルイ・オジェ』の選定結果が出て、私はその存在の抹消と『ララ』の救済を、心に決めたのだった。

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