10-1 ナトリウム
「それでさ」話を訊いていたゼノは、ローランに問いかけた。「その、メイ・サイファはどうやって館の最上階から抜け出したの?」
地下道に張り巡らされたマットの上を、一台の車両が走り抜けた。磁気浮上を利用して、タイヤも燃料も使うことなく進んでいくその車体から鳴るのは、微かな風切り音のみ。運転席の足下にペダルはなく、そこに座る男性はハンドルに手をかけているだけだった。手の力だけで加減速までコントロールできるシステムになっている。けれど、その車両を彼が操縦しているわけではない。GPSと連動して全車両の位置情報をリアルタイムに受信している車載コンピュータが、走行プランを自動的に組み上げると、それをベースに自動操縦を行うようになっていた。プランのチェックと停車時の微調整が、運転手の主な仕事だった。
ドーム状の形をした後部座席には、一組の男女が座っている。ゼノ・シルバーとローラン・ローレンス。当然、アバンチュールといった雰囲気ではない。ゼノの対面に座るローランは両頬を膨らませて、その口にはプラスチック製のフォークが突き刺さっていた。彼女はそのフォークを引き抜くと、顎を上下させながらペットボトルの水で口内のものを胃袋に流し込んだ。口の周りをケチャップ色にして。
「これ、旨いな!」ローランはピザボックスに盛られたパスタ料理にフォークを突き立てた。
「だろう?具材とトマトケチャップをスパゲッティーニに絡めただけみたいだけどね」
「ケチャップがソースだって聞いたときは心底馬鹿にしていたけど、なかなかイケるもんだな。驚いた」
「更に意外なのは、これを考案したのが東洋人だってことだ」
「ふーん、そうなんだ。でも、メニューには『ナポリタン』って書いてあったぜ?」
「本場ナポリどころか欧米のどこを探しても無いんじゃないかな。ケチャップソースのパスタ料理なんて」
「なんだそれ。名前だけかよ、おっかしーの」
彼らはファーストフード店から料理をテイクアウトし、車内のテーブルに広げて口にしていた。
「それで、さっきの質問なんだけどさ」ゼノは備え付けのコーヒーメーカーから紙のカップに注がれたエスプレッソを口にしながら、ローランに尋ね直す。
「質問って?」ローランは口をもぐもぐ言わせながら尋ね返した。
「メイ・サイファが、どうやって密室だった最上階から下層にいた少女を迎えに行けたのか」
「ああ、それね」ローランは再び水を口にすると「んーと、それを説明するためには、オレたちの元々の計画を説明しなきゃならないんだけど……」そして、うーん、と唸る。
「君たちの計画って?」
「オレたちっていうか、レインのっていうか……」
「どうしたのさ、歯切れが悪いね。仮にそれを僕が知っても、別に君たちが困ることはないだろう?」
ゼノが諭すように言うと、ローランは「ま、いっか!」と声を上げて、
「オレたちは、レインをあの館から連れ出そうとはしていたけど、あそこまで派手なことをする予定じゃなかった」
ゼノはフォウ・オクロックの最上階の天井にぽっかりと空いた穴を思い出す。ローランは熱がりながらも豚肉を噛んで飲み込むと話を続けた。
「レインはさ、ジョーにコンタクトするずっと前、そうだな、部屋に囚われることになった半年前には、既に脱出の計画を始めていたんだ。そして、本当ならオレたちはその締めのところだけを手助けするはずだった」
「締めって?」
「全部聞きたい?」ローランは勿体ぶるように尋ねた。
「ここまで聞いたからには、できれば。それにまだ時間もあるし」車内側壁には目的地までのおよその距離と時間が表示されている。ローランはそれを見て、そっか、と納得したように呟いた。
「えっと、レインの部屋の状況を整理すると、まず扉は鍵無しでは中から開けられないオートロック式に作り変えられていた。その鍵も簡単にはコピーできない特殊なものだ。そして、ガラス張りの窓も、防刃加工が施されている強化ガラスのはめ殺しで、外側からは耐衝撃フィルムが貼られていた。更に、天井には監視カメラがついていて、レインに不審な行動があれば、下層の監視係からアガズィアに連絡が入ることになっている。レインは囚われてすぐ、自分の未来を悟ったんじゃないかな。彼女は何とか部屋から脱出する方法を考えた。けど、部屋は最深部にある。仮に廊下まで出られたとしてもフロアには非常階段もなく、最上階で唯一の移動手段であるエレベーターも、生体認証が通らなければ使えない。正規のルートでは、まず出られないだろう。周囲を欺いて諸手を振って外に出る、なんて方法も思いつかなかった。そこで考え至ったのが、窓から外に出ることだった」
「窓だって?」ゼノは顔をしかめる。
「うん、窓」
「わからないな。さっき、君自身が言っていたじゃないか、窓は防刃加工の強化ガラスで、耐衝撃フィルムが貼られているって。まさか、何トンもある鉄球を高速で打ち込んだとでもいうの?それともレインは超人的な力の持ち主だったとか」ゼノは自らの発言を嘲笑するようにして尋ねた。
「だからさ、そんな派手なことはしなくていいんだよ。何も窓から出るのに、割る必要はないだろ?」
「でも、その窓ははめ殺しだったんだろう?だったらそれは『開かない窓』ってことじゃないの?」
「そう開かない。だから外せばいいんだ」
「外す、だって?窓を?」ゼノは飽きれたようにして「窓ガラスを強固にしていたのに、窓自体は簡単に外せたちゃったってこと?」
「窓枠だって硬い鋼鉄製だったさ。簡単には壊れないようなやつだ。ちなみに、がっちりとはめられていてネジ穴も無い」
「それをどうやって外したの?」
「まあ、慌てるな慌てるな。食後のコーヒーが冷めちゃうぞ」
得意顔のローランはゼノからカップを奪い取ってエスプレッソを口に含むと、眉間に皺を寄せては、苦い!と文句を垂れた。
「その部屋に立ち入ることができたのは、アガズィアとバンデウム、そして、世話係のメイドたちだけ。その中でレインの協力者となったのは、そのメイドたちだった。周りの噂とは違ってレインはとても慕われていたみたいだな。メイドらは掃除に見せかけて、研磨布でその窓枠に毎日、塩水を擦り込んでいったんだ」
「錆、か」ゼノは答えを得たように呟いた。塩水の塩化物イオンが金属の酸化を促すと、学生時代に習ったことを思い出す。
「塩なんて簡単に持ち込めて気づかれにくく、天井の映像からも見えない。水に溶かしてしまっていれば尚更さ。錆の匂いが気になり始めた頃には、図画を楽しみたいとレインが懇願し、アガズィアは油絵のセットを買い与えた。匂いの強い溶油を添えて。まあ、彼女はそれ以外にもいろいろと試していたみたいだけどね。違う種類の金属同士を接触させると腐食することがあるんだけど、例えばヘアピンなんかを窓枠に置いてみたりしてさ。そんなことをしばらく続けていくうちに、窓枠には段々と錆が広がっていった。そしてメイドたちは研磨布と塩水を使って、錆らせては削ることを繰り返した。窓枠の、せめて内側だけでも消失させるために」
「それを半年間も続けたのか……良く気づかれなかったな」
「窓枠なんて、気にしなきゃ普通は見ないさ。昼間は窓外の明かりで陰になるし、もし暗くなってきてもカーテンを閉めればいい。幸いアガズィアも監視係も、最後まで窓枠に気を取られることはなかった。レインも万が一を考えて昼は窓の明かりを使い、夜はカーテンを締めて仄かな明かりだけで生活していたそうだ」
「んー」ゼノは腕を組む。「百歩譲って、それで窓枠をなくして窓ごと外せたとしよう。だけど、レインはそこからどうやって下に降りるつもりだったのさ。ロープでも持ち込むつもりだったのか?」
「ラプンツェルって知ってる?」
「童話の?」髪長姫の物語を思い出す。
「そうそう」
「知ってるよ。塔のてっぺんに囚われたものすごい長髪のお姫様を、王子様がその長い髪をつたい登って助けに来るんだろ?」
「んー……ちょっと違うけど、まいっか。王子様はラプンツェルの長い髪を使って塔を上り下りできたけどさ、それだとラプンツェル自身がそこからは下りられない。だから、毎夜塔を登って逢瀬を重ねていた王子様は、訪れる度に彼女へ絹紐を手渡したんだ。それをラプンツェルが編んで梯子にするためにね」
「へー、そんな話だったんだ」
「メイドたちは窓枠を錆らせて削る以外にもう一つ行動を起こしていた」
「絹紐を運んだ?」
「そう」ローランは口角を釣り上げて「化学繊維でできた結束用の透明だか白だかの細い紐があるだろ。メイドたちはそれを、身体に巻き付けて部屋に運んだんだ。監視カメラのないトイレに入って身体から紐を解くと、それをトイレのタンクの中に隠した。一本の長さはおよそ二十メートル。例えば、ベッドの足にでも結んで四階の窓から降りるにしても、十分に足りる長さだ。結束用の細い紐も、幾重にも束ねれば強靭なロープになる。あとはマッチででも両端を炙って溶かして繋げれば完成だ」
「なるほど、それを使ってレインが外に出たところを、待機していた君たちが助けに来ると、そういう算段だったわけだ」
「ご名答」
「なぜかは知らないが、メイ・サイファもその計画を知っていて、窓枠を外して外に出たと」
「そゆこと。トゥレがレインの部屋まで戻ったとき、窓のところだけ穴が開いていたんだってよ。窓ガラスは足下に置かれてね。その窓を外したのは、メイ・サイファ以外に考えられない。奴は手間のかかるロープは使わずに、オレが昇降機前に残したワンタッチグライダーを使って外に出ると、再び館に入ってバーバラ・シドニーを迎えに行ったんだ」
「なるほどね……だけど、その元々の計画だと、君たちはただ外で待っていればいいだけだよね。なんでレインは、君らの仲間を一人送り込むように仕向けたんだろう?」
「聞くばっかりじゃなくて、ちったあ自分で考えろよな」
「いやね、そのメイドたちを逃がす期間が欲しかったんだろう、とは思うんだよ。だけど、それにしては見ず知らずの人間を最上階に引き込むのは、かなりのリスクが伴うように感じるんだよね。逃げ出すときのサポート役だとしても」
「レインはオレたちを試したんだ。オレたちがどれだけの気構えで協力するのか、それを遣わされた人間の質でレインは判断しようとした。それがオレたちと近しい人物であればあるだけ信用に足る。そしてオレたちもそれだけの人物を館の最上階に送り込んだ分、作戦を安易に諦めることもできない。つまり、自ら人質になりに行ったようなもんなんだよ、シアは」
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