9-3 追跡
「ちくしょう!」
ヨアンから事の経緯を説明されて、薄ぼんやりと記憶を取り戻したローランは、大きく叫んでいた。頬には薬を湿らせたガーゼが当てられている。
「おい、落ち着けって」ヨアンがローランを宥めるように言った。
「あのガキ、絶対に許さねえ」
「ローランはもう戻ったほうがいいよ」
《こちら、トゥレ。レイン氏を保護しました》
イヤホンからトゥレの報告が流れた。
「よし!あとは、シアだけだな」ヨアンは拳を握って、ローランのほうに目をやると、彼女は既に中庭に向かって走り出していた。
「おいおい!」と、ヨアンが慌てて後を追う。
ローランが扉に手をかけたそのときだった。無線を介して、セスの悲鳴が全員のイヤホンに鳴り響いた。扉を開けると、打倒されたアガズィアの無残な姿とともに、イヤホンに耳を澄ますジョーの姿が見えた。
「今の悲鳴……!」ローランに追いついたヨアンが、ジョーに向かって声をかける。
「おい、セス!どうした!」ジョーは叫んだ。
《非道い……絶対に許さない……》
「説明するんだ、セス」
セスの声が震えていることを感じ取り、ジョー諭すように尋ねた。
《シアを見つけたわ。生きてはいるけど、傷だらけで……特に手足がひどい有様よ》
「意識はあるのか?」
《いいえ、気を失っているわ。体温が低い。血が足らないのね……すぐにでも輸血が必要よ。ここは器具も揃っているみたいだから……うん、処置ができる。だけど、保存血がないわ。メンバーの中で彼女と適合する血液を持っているのは、ジョー、あなたしかいない。お願い、急いで来てくれないかしら》
セスの頼みを聞くまでもなく、ジョーはとっくに駆け出していた。
「おい、ディーダ!聞いてるか!」ジョーが息を切らしながら、上空にいるはずの操縦士に叫ぶ。
《ああ、怒鳴らなくても聞こえてるよ。今戻っているところだ。お前さんの保存血は、後ろのクーラーボックスに入ってるよ》
「ヨアン、お前は血を取ってきてくれ」
《わかった!》ジョーからの指示に、中庭に残っていたヨアンは力強く答えた。
《ジョー》と、ローランの声。《こんなときになんだけど、あのガキはどこに行ったんだ?》
「……何を考えてる」
《別に、ただの興味本位》
「もう追わなくていい」
《あっちじゃないだろ……こっちでもない、となると……》
少しの沈黙。そのときローランは、トゥレのいる方向に目を向けて、頭に叩き込んだフロアマップを思い浮かべていた。その奥に小型貨物用の昇降機があったことを思い出す。
《ふーん、そうかなるほどね》
「駄目だ。お前は船に戻れ」
《うん、わかってる。わかってるってば》
そう言ってローランは、無線を切った。
* * *
ローランの進んだ先には、当然のようにメイ・サイファが待ち構えていた。その右手の壁には、押し込み式の赤いスイッチと約一メートル四方の機械扉が見える。
「なんだ、お前は」ローランが尋ねる。
「さきほどお会いしましたよ。そのときあなたはきっと、胡蝶の夢でも見ていたのでしょうね。とても安らかな寝顔でした」
「そこをどけ」
ローランが自動小銃を構えると、メイはあっさりと道を譲った。
「やけに潔いな」
「無益な争いは好みませんので」メイの表情は変わらない。
ローランは怪訝な顔をしながらも機械扉に近づいてスイッチを押し込み、昇降台を呼び出した。
「気を付けてくださいね。あの子はまだ、子どもですから」
メイが囁くようにローランに語りかける。
「安心しろ、殺しはしないさ」ローランは、横目で応えた。
「今のは忠告ですよ」
メイはそう言い残して、廊下の奥へと歩みを進めた。変な奴、とローランは小声で漏らす。やがて、ブザー音を鳴らしながら機械扉が開くと、昇降台が姿を現した。大人が乗るには無理があるが、ローランの身体は子どもほどに小柄であったため、狭いものの何とか身体を詰め入れることができそうだ。装備の一部が邪魔だったので、ショルダーバッグと腰のホルスターは外して乗る。重量制限が設けられていたが、台座に計測器が配置されているのか、両脇の壁に四肢をへばりつけて身体を浮かせれば、異常を知らせるブザー音は鳴り止んだ。それと同時に扉は閉まり、昇降台はローランの身体を下層へと運んでいった。
ローランの辿り着いた先は、無人の厨房だった。罠が張られていることや、見知らぬ人間が待ち構えていることも想定していたが、誰もいないことに胸を撫で下ろす。少女の姿を探すも、見当たらない。奴がこのフロアに辿り着いてから、それほど時間も経っていないはずだ。ローランはふっと息を吐くと、厨房の扉を開けて廊下に出た。人の気配はない。足音を立てないように注意しながらも、足早に廊下を進む。少女はエレベーターホールに向かったのではないかと当たりをつけた。もし、そこまで行っても見つからなければ、諦めて戻ろうとも考えながら。最上階と同じ配置でエレベーターが備わっているならば、廊下突き当りを右手に抜けるとそこに至るだろう。そう考えて身を屈めながら足を速めたその矢先、廊下の曲がり角から頭が一つ、こちらを覗き込むように現れた。明るく黄色い髪色。あの少女だ。
「おい!」
少女はローランの姿を視認するやいなや踵を返し、走り出した。逃すまいとローランも駆け出す。廊下の突き当たりを右手に曲がると、そこから十メートルほど先の左右の壁に、それぞれ大きな扉が見えた。位置からすると左手の扉がエレベーターホールだ。しかし、ローランが目にしたのは、右手の扉が閉まりかかるところだった。エレベーターホールに何かしらのセキュリティが敷かれていて、少女でも立ち入ることができなかったのだろうか。いずれにせよ、左手のエレベーターホールよりも、右手の扉の中に逃げ込んだ確率が高い。そう考えローランは扉の前まで駆けると、その扉を押し開けた。そして視界に入ったのは、食堂のような広い景色、そして、人、人、人。その中心には、大声で叫ぶ少女がいた。現地の言葉のようで、何と叫んでいるかはわからない。けれど、子どもの容姿で、子どもの声で、乱れた衣服を身に纏い、息を切らして、泣いた顔をして、武装したローランを指差して、少女が何を叫んでいるのか、言葉はわからなくともローランには理解ができた。人々の視線が一斉にローランへと注がれる。
「くそおおお!」
ローランは叫びながら、隠し持っていた閃光弾を地面に投げつけた。ローランの防弾マスクのゴーグルには、光量調整フィルムが貼られているため、その視界は良好だ。光の中で少女の姿を探す。駄目だ、周囲に人が多すぎる。閃光弾の効果が切れるまでに少女を捕まえ、この場から逃れることは難しい。できるとすれば、少女を捕らえて囲まれるか、諦めて逃げるかのどちらか一方。そうなると、必然的に答えは決まってしまう。ローランは即座に部屋から飛び出し、廊下を走り抜けた。躓きながらも厨房へ駆け入って、昇降機のスイッチを押し込む。後方からは叫び声がする。自分を追う声だ。しかし、昇降台はまだ到着しない。駆動音はしているので、降りてきているのは把握できる。しかし、悠長に待っている余裕などない。どうする。もし間に合わなければ厨房のどこかに隠れるか?いや、駄目だ。それもすぐに見つかるだろう。そこまで考えたところで、ローランは異変に気付く。
昇降台はなぜ、上層に戻っていたのだろうか?
彼女が下層に降りてきて部屋を出るまで、昇降台はこのフロアに留まっていたはずだ。このフロアの何者か操作したのか。だが、厨房に人の気配はない。もう一つの可能性がある。上層にいる何者かが、昇降台を呼び寄せたという可能性だ。だが、なぜそんなことを?昇降台を呼んで、何者かが降りてくる?いや、自分の他に小柄な人物など思い浮かばない。例えば、昇降台に何かを置く。もしローランが上層に戻ろうとスイッチを押したとき、それが降りてきて……。自分の装備の一部は上層に置いてきてしまった。その近くには、メイ・サイファがいたはずだ。嫌な予感がする。ローランは咄嗟に冷蔵庫の中身を放り出すと、空いたその空間に身体を潜り込ませて、扉を閉めた。そこへ警備員らしき姿の男が二人、入ってきた。冷蔵庫の前に散乱する食材を目にして、二人はアイコンタクトを交わす。
「待て待て、トラップかもしれないぞ」
片方の男が、冷蔵庫に近づこうとした相方を制止した。
「これを見ろよ。降りてくるところだぜ?」制止された男が親指で昇降機を指差す。「間に合わなくて、慌てて隠れたんだろうよ」
そう言うと、二人は声を出して笑った。
「どうする。しばらく放っておくか?」
「煮物は一晩寝かせたほうが旨いってママも言っていたよ」
二人の笑い声に被さるように、昇降機のブザーが鳴り響いた。
「パイでも焼けたか?」
冗談を言いながら振り向いた男の視線の先にあったのは、昇降台に置かれた六角形の黒い物体だった。上部のセンサーが何か感知して、光を放つ。
それは一瞬の出来事だった。
* * *
《トゥレ》
「はい」
《ローランを頼む》
ジョー・セブンの要望に、蒼い瞳の青年は淀みなく返す。
「承知しました」
レインの部屋に辿り着いたトゥレが彼女へ事情を説明して部屋から連れ出すまで、然程の時間はかからなかった。自分はジルダの仲間だと伝えただけで、レインは全てを理解したようだ。ローランの通信が途切れたのは、その部屋を出た直後のことだった。普段のトゥレならば、その時点でローランを引き留めに昇降機まで駆け戻るところだ。しかし、身重なレインを急かせるわけにも置いていくわけにもいかないと判断し、ジョーからの指示があるまで、彼はレインにペースを合わせると決めていた。そのジョーとの通話を終えて、トゥレは振り返る。レインは壁に手をつきながら、トゥレの後ろを懸命に随いついてきていた。何カ月も同じ部屋に閉じ込められていたせいだろうか。ほんの数メートルの距離を移動しただけで、彼女の顔には疲労の色が見え始めていた。トゥレは再認する。やはり、レインを巻き込むわけにはいかない。彼女を少しの間どこかで休ませようか。そう彼が思案していたところで、レインの瞳がその前方を凝視していることに気づいた。彼女の視線のほうを向くと、そこにはメイ・サイファと思わしき、黒髪の女が立っていた。
「お久しぶりですね」
メイの悠然とした挨拶に対して、レインは何も答えられない。
「ちなみにあなたのお友達は、先ほど下の階に──」
メイがそこまで告げたところで、トゥレはレインに尋ねた。
「レインさん、下のフロアと連絡を取ることはできますか?」
その問いかけにレインは「アガズィアの事務室に館内回線があるわ」と答え、向かう先を指差した。
メイはそんな二人のやり取りを余所に彼らを横切ると、レインの囚われていた部屋の方向へと進んでいった。行き止まりになるはずのその場所へ。
「それではまたいつか、お元気で」
すれ違いざまにメイが呟くも、そんな彼女を気に留める素振りもなく、トゥレはレインの肩を抱くと足早に廊下を突き進んでいった。やがて彼らがアガズィアの事務室へ辿り着くと、レインは息を切らしながらデスク上に備わる古い型の受話器を手に取り、本体のボタンを押し込んだ。「私よ」そう告げるだけで、電話の相手が発信者を把握したのは、彼女がそれだけ館の中で権限を持っていることを示唆しているのだと、トゥレは感じ取った。
「ええ、そう……ありがとう。こちらのことは気にしなくていいわ。もう何も問題はないから」
レインは落ち着き払った口ぶりで告げる。途端、爆発音とともに館が揺れた。受話器からも混乱の声が上がっているようだった。トゥレの通信回線もざわついている。イヤホンから聞こえてくる内容やレインの問答から察するに、ローランの降り立った階層で爆発が起きたようだった。
「困ったことになったわ」レインは受話器を置くと、トゥレに向かってそう告げた。「あなたのお友達、さっきの爆発で下層の警備員を二人も殺めたそうよ」
「ローランは無事なのですか?」トゥレは神妙な面持ちで尋ねる。
「ええ。後ろ手を縛って、空き部屋に押し込まれているわ。危害を加えないようにと、何とか下を説得したけれど……」そこまで話すとレインは俯いた。
「大丈夫ですか?」
トゥレの気遣うような問いかけに、彼女は意を決したように顔を上げる。
「下の者たちから頻繁に問われたのは、国王は本当に亡くなったのか、ということだったわ。その事実は、もう公表されているの?」
射るように見つめるレインに、トゥレは頷いて答える。
「今朝のニュースで大々的に取り上げられました。遺体の映像も確認されています」
彼の言葉に、レインは何かを悟ったように目を伏した。
「この館は今、非常に不安定な状態にあるわ。それは、あなたたちの登場やさっきの爆発が原因じゃない。この館にとって絶対的存在であり精神的支柱でもあった国王が、ただの人間と同じように死んでしまったのだと、知らされてしまったからよ」
その時、ローランの声が通信機を介して聴こえてきた。トゥレはレインに断りを入れ、耳を澄ます。
《あー……わりぃ》
ばつの悪そうな声色。ローランに間違いない。自ら切った回線を再接続したのだろう。後ろ手を縛られていたはずなのに、器用なものだとトゥレは感心した。
《無事なのか?》続いてジョーの声。
《まあ、なんとかな……なんだか随分と質素な部屋にいるよ》
《さっきの爆発音は何だ?》
《言っとくけど、あれはオレじゃねーからな!》ローランは不機嫌そうに言う。《つーかそんなことより、おいトゥレ!》
「あ、はいはい」不意な呼びかけに、反応が遅れてしまう。
《そこにレインがいるんだろう?》
「ええ、いらっしゃいますよ」レインに目をやると、彼女は不思議そうな顔をした。レインにはローランの音声は聞こえていない。
《レインに頼んで、オレを解放してくれよ》
トゥレが少しの沈黙を与えると、ジョーから《任せる》とフォローが入った。
「わかりました」
トゥレはレインに向き直ると、改めてローランの解放を依頼する。
「頼んでみるわ。私も下のフロアに伝えたいことがあるの」そう言うとレインは、館の従業員へ解散宣言を発したいと告げた。
《俺は一向に構わない》ジョーの答えは早かった。その内容をそのままレインに伝えると、彼女は再び受話器を手にして、解散宣言と捕縛者の解放を指示した。「捕縛者」とは、ローラン、そしてバーバラの両名を意味している。そのまま、ローランにバーバラを連れて来させる目的もあったが、そこで一つ問題が起こった。
「あなたのお友達が追っていたのは、きっとバーバラだと思うけど」と、レインは前置いて「さっきの爆発の後、メイが迎えに来てバーバラを連れ去ったそうよ」
トゥレの思考が一瞬止まる。そして再び考えを巡らせると同時に、通信機へ問いかけた。
「ヨアン、あなた今どこにいますか?」
《えっと、今は中庭に戻ってきてて……》
「エレベーターホールに続く扉は閉まっていますか?」
《え?ああ、しっかりと針金が巻かれてるよ。なんだよ一体》
トゥレはアガズィアの事務室へと辿り着いた後も、メイ・サイファが戻ってくることも想定し、廊下の扉を開け放しにしていた。廊下にも常に気をかけていたが、何者の気配も感じることは無かった。ヨアンに尋ねる限りでは、エレベーターを使った形跡も見当たらない。もし、針金を外してエレベーターを使ったところで、閉めた扉の外側に再び針金を巻き直すことは難しいだろう。そもそも巻き直す意味もない。仮にメイ・サイファが昇降機まで戻っていたとしても、彼女の体格では昇降台に身体が収まらないはずだ。ティルトローター機の操縦席からはディーダが中庭の天井の穴を見ていたため、そこを登ったとも考えにくい。つまりこの最上階全体は、ある種の密室ができ上がっていたのだ。メイ・サイファは二人とすれ違ってから、さらにその奥へと進んでいった。歩む先はどこも行き止まりになっていて、更に最深部にあるレインの部屋は、入って扉を閉めてしまうと、鍵が無ければ内部からは開けられない仕組みになっている。その中でメイ・サイファは最上階から抜け出し、突如として下層フロアに出現したという。
「すみません、レインさん。少しだけこちらでお待ちいただいて宜しいですか」
トゥレはそう断ってからレインの部屋まで駆け戻ると、勢いよくその扉を開けた。そして彼は室内に立ち入るまでもなく、その部屋にメイ・サイファが訪れたことを確信したのだった。
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