7-3 犯人
女は逃げた。自らの命を危ぶみ、駆けたのだ。声を上げることはない。息を切らし、ただただ駆ける。追跡者から逃れ、行きついた先は袋小路になっていた。前方には扉があるものの、錆びて壁と同化していて、開くようには見えない。叩いて人が出てくる可能性も絶望的だ。左右の建物に窓を見つけるも、その全てに柵がかけられている。
女は舌打ち、空を見上げた。──まずい。
「ああ、疲れた」という声に振り返る。
女の瞳に、白髪の男が映った。黒のスーツに黒手袋、オールバックで灰色の瞳。そして、その手にはオシロイバナが握られていた。
どくり。どくり。と、鼓動が急く。
先に声をかけてきたのは、男のほうからだった。自分は刑事で、とある事件の調査をしていると。聞き込みをしていて話を訊かせてもらえないか、そう言って近づいてきた。初めは困惑したが、断って怪しまれることを嫌い、渋りながらもそれに応じることにした。「待ち合わせの場所までお持ちしますよ」という声かけに荷物を預け、導かれるまま男についていったことがどうやら全ての間違いだったようだ。不穏な空気を感じたのは、周りに人気が無くなってからだった。
「捕まえたぞ」見ると男はそう呟きながら、女に拳銃を向けている。心拍数が上がっていくのが、自分でわかった。
「お前、あの館の人間なんだろう?」
男が一歩一歩近づく。それと同じ歩幅で女は後ずさりした。
「知っているんだ、お前のことは」
ここを逃れて大通りに出れば助かる。女はそう考えていた。
「もう、あきらめろ」
男に隅へと追いやられ、背中に壁がつく。と同時に、女は真横へと跳んだ。そして地面を蹴って直角に曲がり、男の左脇を駆け抜けた。幸いなことに相手は左手で拳銃を構えていたため、彼女が走り抜けるまでにその手が伸びることはなかった。
これで逃げられる、と気が緩んだその矢先、目の前にもう一人、別の男が行く先を阻んだ。
どくん、どくん、と動悸が急くのを感じる。
中肉中背で特徴の少ない容姿。肩で息をして、両手を広げている。
やがてその男は息を整えながら、拳銃を持った白髪の男に向かって声を上げた。「早いよ!」
「あなたが遅いんですよ、ゼノさん」と、白髪の男が答える。
女の呼吸が急く。
「その花、もしかして……」白髪の男の持つオシロイバナを見て、ゼノと呼ばれた男が彼に尋ねた。
「この女が持っていました」
「じ、じゃあ、やっぱりそいつが──」
「ええ。こいつが、ジャック・ザ・リッパーです」白髪の男は再び女に拳銃を向けて「女だから、ジル・ザ・リッパー、か」と溢す。
「マスク君、彼女の名前は『ジル』じゃないよ」ゼノと呼ばれた男がにこやかな顔で白髪の男にそう語ると、彼は続けて女に声をかけた。「騙してごめんね。君を呼び出したメイ・サイファは、ここには現れないよ。そこにいる彼は、彼女とお友達なんだ」
振り返ると、マスクと呼ばれた男の構えた拳銃の照準は、彼女の短髪ブロンドの頭に定められていた。
「やっと捕まえた」
ゼノ・シルバーは安堵したように、その女の名前を呼んだ。
「オルガ・セサビナさん」
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