5-3 本心

「【忌み札】で【十一番】と呼ばれている男が、もし今も生きているなら、既に二百歳を越えるそうだ。彼はアルツハイマー病の研究の中で、人工の神経細胞と記憶装置との複合体である脳チップの開発に成功し、自らの身体で実験していたと噂されている。国際公法でも禁止されているクローン体を作り、その新しい身体に脳チップを移植することで、命を永らえていたのだというが、果たしてそんなことは実現可能なのか。脳チップの開発を裏付けるような資料は見当たらず、その存在は都市伝説に等しい。また仮に脳チップが存在したとしても、クローン技術には、『元の細胞の寿命はリセットできない』という大きな欠点がある。例えば、三十歳の男の細胞から作り出されたクローン体が、代理母の身体から新生児と同じように生まれたとしても、細胞年齢は三十歳からスタートする。その分、生命としての寿命も短く、欠陥を含むリスクも高い。【十一番】と呼ばれた男が脳チップの開発に成功していたと仮定しても、その後の延命は実質『不可能』と言って構わないだろう」


 西暦図書博物館のデータベースで見つけた小さな記事だ。まるで【十一番】の存在そのものが御伽噺のように扱われている。その存在を信じるか信じないかで言えば、私は信じない。けれど、画面に映し出された赤ん坊の姿は本物だった。あれが本当にレインの身体のエコー映像なのかはわからないけれど、もし本当だとしたらその子は実験体にされるのだという。頭を開かれ、脳チップとやらを埋め込まれるのだろうか。なぜ?【十一番】の子どもだから?馬鹿馬鹿しい。何が実験体だ。くだらない。私は元殺し屋だ。命を粗末にするな、なんて綺麗事を言うつもりは毛頭ない。けど。だけど。


   *  *  *


「シア、聞いたわよ!あなた、今回の依頼を受けるんですって?」

 打ち合わせの翌朝、セスは再会するとすぐにそう言った。

「私がいれば、止めていたのに!あんなの危険すぎる。受けるべきじゃないわ!」セスは私の肩を掴んで叫ぶ。「本当にごめんなさい。ジョーから話を聞いたときから、私はずっと反対していたの。それでも、あなたの救出とこれとは別の話じゃない?だから私、あなたを救いたい一心でローランと一緒に……私がいないときに決めさせるなんて、ジョーに嵌められたわ。許せない」

 セスの上腕二頭筋が隆起し、血管が浮き上がっている。

「いいのよ、セス。ありがとう。でも自分で決めたことだから」

「シア、考え直すべきよ」

 セスは私の二の腕を掴む。

「こんな細い腕じゃあ、私心配だわ!」

「ありがとう」

 そう言って、セスに抱きつく。こうするのも久しぶりだ。

「やっぱりセスがいると安心だわ」

「もしあなたの気持ちが変わらなくて、依頼を引き受けることになったとしても、何かあったら、すぐにメッセージを送るのよ。必ず助けに行くから」セスは太い腕でシアを抱きしめた。


 ローランとも再会し、その日は久しぶりにジョー・セブンのメンバー勢揃いの中で昼食をとった。今日帰ってきた二人以外は、既に図書博物館での仕事を再開していたため、昼食後は各々の持ち場へと戻っていった。ローランも「時差ぼけで頭が重い」と言いながら自室に戻ってしまっため、セスが一人で私の相手をしてくれた。ただ気がかりだったのは、エリーが今朝から体調を崩していることだ。こういうときは、医学の知識のあるセスが診察し、時には投薬も行うのだが、セス曰く「薬を飲ませるほどじゃないけど、今日は寝かせておいたほうが良さそうね」とのことだった。そのため、今日はまだ彼女の姿を見ていない。

「エリー、大丈夫かしら」セスに尋ねると、

「そんなに気になるなら、後で様子を見に行ってみなさいよ。さっきからずっとそわそわしっぱなしじゃない」と言われてしまった。

 でもどうしよう。無理に会いに行くのも彼女の負担になるかもしれない。そう思うと、そっとしておくほうがいいのだろうか。などと考えては、なかなか思い切ることができずにいた。すると「一緒に行ってあげようか?」とセスが声をかけてくれたので、同行をお願いすることにした。トゥレは私のことを過信していたけれど、私はつくづく自分のことを意気地なしで弱っちい人間だと感じている。八歳の女の子とも正面から向き合うことができないのだから。


   *  *  *


 エリーは朝から、微熱を出していた。オバアはそんなことも気にとめない様子で、昼食用のインスタントスープと水だけ置いて仕事に出かけてしまった。コルクがベッドの下で大人しくしている。何か異常があれば、彼が吠えて周りに知らせるだろう。今朝帰ってきたセスからは「今日はベッドでゆっくり寝ていなさい。おトイレ以外で起きちゃ駄目よ」と言われたので、部屋の外には出られないが、どちらにしろ身体が重くて、起き上がる気力もない。しかし、眠くもないから暇でしようがなかった。エリーは、ただただ天井をじっと眺め続けていた。そうしてずっと呆けていると、様々な考えが浮かんでは消えていく。きっと数時間後には何を考えていたかも覚えていないようなことだ。そうやって時間を潰して、天井から扉のほうへ視線を落としたとき、エリーはふと思った。マームは今何をしているのだろう、と。マームは自分のことを気にかけてくれているだろうか。もしかしたら、あのドアが開いて様子を見に来てくれるかもしれない。そんな淡い期待が心をよぎるも、その一方で、会いに来て欲しくないという考えもわいてきた。エリーは自分でも、なぜ上手にマームと話せないのかが、わからなかった。なので、今会いに来られてもまだちゃんと話せないと、そう確信していた。だからといって避け続けていると、嫌われてしまうかもしれない。ならばいっそのこと、自分には興味を持たないでいてくれたほうが、まだ楽だとも思う。エリーは毛布を頭まで被る。毛布の中。眼を開けていても薄暗いその空間は、どこか居心地が良くて、だけどやっぱり寂しくて。このままマームと話もできずに、また会えなくなったらどうしよう。そんな弱気な考えが浮かんできた。パイロットのディーダおじさんは昨晩に帰っていったし、今日はジョーたちもお仕事みたいだ。昨日の夕食のとき「準備はこれからだ」ってヨアンが言っていたから、またすぐにいなくなることはないと思う。だけど誰も「これからのこと」をちゃんと教えてくれない。それは、大人の話、なのだそうだ。大人の話、って何だろう。自分はただ、マームといつまで安心して一緒にいられるかが、知りたいだけなのに。けど、そんなことを聞いても意味がないのかもしれない。結局一緒にいても、上手く話すこともできないのだから。


「じゃあ、ちゃんとお話をするためのシミュレーションをしてみてはどう?」と、自分の中の陽気なエリーが提案する。

「いらないよ。頭の中でうまくいっても、現実ではうまくいかないもの」と、陰気なエリーが呟く。

「そんなこと言ってたら、ずっと変わらないままよ!」

「別に変わらなくてもいいもの」

「嘘ね。そうやって逃げていれば楽なんだと思って。後悔することもわかっているくせに」

 そうやって自分の中での会話のやり取りが続き、陽気なエリーが少しだけ優勢になると、

「いい?エリー。話の切り出し方が重要よ」と、彼女は頭の中で人差し指を突き立てて自分自身に言い聞かせていた。


 さて、どうしようかな。と、シチュエーションを考え始めたところで、こんこん、と誰かがドアをノックした。毛布から顔を出す。心臓が跳ね上がる。いや、まさか。そうか、セスだ。セスが、後でまた来るって言っていたから。うん、そうに違いない。そう思いながらも、自分が心のどこかでマームの訪問を期待していることに気づく。期待するな。期待するな。そう念じて扉のほうを向きつつも、エリーは瞳を泳がせていた。ノックの返事はしなかった。いや、できなかった。ゆっくりと、扉が開く。あの開き方は、どちらかと言えば、セスっぽい。おそらく返事をしなかったので、寝ていると思ったのだろう。静かに、静かに扉は開かれた。

「残念。寝ているわ」

 それは、セスの声だった。エリーは瞼を落とし、寝たふりをしていた。

「中に入ったらいいじゃない。寝顔だけでも見ていきなさいよ」

 セスが小声で誰かと話をしている。

「さあ、どうぞ」と、扉を大きく開く音。

「お邪魔します……」

 マームの声だ。呼吸が、心臓が、わめきだす。どうしよう。自分の胸がものすごい音をたてているような気がする。その音で、寝たふりをしていることに、気づかれないだろうか。そんな心配をしているうちに、二人がすり足で近づいてくるのが聞こえてきた。そして、誰かが傍に腰かける気配。額に手のひらが置かれる。それはひんやり冷たくて、でもやわらかかった。

「かわいそうに」耳元にマームの声。少しくすぐったい。「私のせい、かな」

「何言っているの。そんなはずないじゃない」と、セスが言う。エリーは自分の気持ちを代弁されたような気分になる。

「ごめんね」そう言うマームに頭を撫でられて、心地良く感じた。でも、だけど、なぜか切ない気持ちになった。

 衣服のすれる音。マームが立ち上がったのだろう。

「あら、もういいの?」セスがマームに声をかける。

「うん」今度は高い位置から声が聞こえた。

「そう。じゃあ行きましょうか」

 セスの返事。そして、二人がゆっくりと離れていく足音がした。ああ、行ってしまう。 待って。 待って。 待って。 だけど、だめだ、声が出ない。寝たふりをしていたことを知られるのが怖い。がっかりされるのが怖い。また離れてしまうのが怖い。ごめんなさい。でも、お願いだから。待ってほしい。エリーの布団の裾を掴む手に力が入る。だけど、声が出ない。無情にも、扉の閉じる音が響く。エリーは思い出した。昔にも、頭を撫でられたことを。それは三年前の寝つくとき。そうだ、あのときもそれがとても心地よくて。ずっと撫でられていたいと願った。だけど翌朝、マームはいなくなってしまって。マームはいなくなってしまって。


「待って!」


 部屋の外の廊下で、セスとマームの背中がエリーの瞳に写った。扉の勢いよく開いた音に驚いて、二人は揃って振り返る。

「お願い、待って」

 エリーはいつの間にか、息を切らして泣いていた。

「どうしたの?」

 マームは急いで駆け寄って腰を落とすと、エリーの頬に流れる涙を親指の腹で拭った。

「お願いだから、もう、いなくならないで」エリーは言った。

「怖い夢でも見たのかしら」セスがそう言いながら、傍に寄る。

「お願いだからっ、もうっ、黙っていなくならないでっ!」エリーはしゃっくり泣きをしながら、マームにそう言った。言ってやった。マームは、ゆっくりとエリーを抱きしめて「うん」と頷いた。自分はマームを困らせているかもしれないと、エリーは思った。そしてきっと自分は、ものすごく泣いているだろう、と。だけど、そうせずにはいられなかった。オバア以外の女性の身体に触れる機会がほとんどないエリーにとって、マームの身体はとても柔らかくて、温かく感じられた。

「ごめんね」謝るマームの声が、少しだけ上ずっていているように感じる。「約束するわ」

 マームの抱きしめる力は少しだけ強くなって、エリーにはちょっと苦しくて、恥ずかしくて、だけどやっぱりそれは、心地良かった。

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