3-3 クローバー

 ジルダが館を訪れたその翌朝。まだ日も明けて間もない頃、一人のフロアメイトがその最上階に帰ってきた。


 オルガ・セサビナ。

 短いブロンドに白い肌、そして深紅の唇。紫外線に弱いため、瞳はサングラスで隠すことが多く、スカートを穿くことも滅多にない。背丈は高めで細身ながらも筋肉質であり、胸も小ぶりで決して娼婦らしい身体つきとは言えなかった。だが、そんな彼女を好む男は多い。

 彼女が高級娼婦となるに至ったのには、いくつか理由がある。たまたま贔屓にしていた客が彼女に巨額の投資をしていたこともその一つだった。だがそれ以上に、前職が傭兵であり、世界警察の内情に通じていたことも、大きなきっかけとなった。

 世界警察が設立される以前、幼い彼女はその前身の組織に雇われ、幹部の一人と密接な関係になっていた。しかしやがて、世の中の情勢が急変し、彼女はその立場を追われてしまうこととなる。その際に逃げ込んだのが『フォウ・オクロック』の下層娼館であった。それから十余年もの歳月をかけて、彼女は今の立場まで登りつめたのだ。


 オルガは黒いトレンチコートを脱ぎながらエレベーターから降り、センサーに手のひらをかざして開錠音を聞くと、眼前に聳える両開きの扉を押し開いた。すると、その先に天井の高い大きな空間が広がる。そこはフロアの住人から『中庭』と呼ばれている場所だった。

 大理石の床の所々に花壇が設けられており、館と同じ名の花が植えられている。足元に敷かれた赤い絨毯は中央まで伸び、そこから前方左右の三方向へと分かれている。天井は網目状に硝子が張られ、屋内から空を見上げることができた。まるで鳥かごのようだと、彼女は見上げるたびに感じていた。


 いつもならオルガは寝室へ向かうため、絨毯の並びなど無視して、そのまま自室のある区画に続く左の扉へと進む。だがその日は、部屋の中央に見知らぬ女がいることに気がつき、歩みを止めた。背後からは扉が自然と閉まる音に続いて、オートロックの施錠音が響く。


「おはようございます」女はそう言って、オルガの方へと身体を向けた。なるほど、こいつが例の『新しいメイド』か、とオルガは見当をつける。

「メイドの朝は早いんだねえ。今まで同じフロアにメイドが棲みつかなかったから、わからなかったよ」オルガは厭味のつもりで言ったが、メイドにはその思惑が伝わっていないようだった。

「はじめまして、ジルダと申します」

「そうかい、よろしく」サングラスを外すことなく、オルガは答えた。

「オルガ・セサビナさんですね」

「そうだよ。よく知ってるね」

「特徴を教えていただいたので」

「誰に、何て?」オルガは正面に歩みを進めながら尋ねる。

「スクーニー様に、短髪の方だと」

「単純だな。まあ合ってるけど」自分の髪を指先でつまむ。「それで、ここで何してんの?」

「待ち合わせです。スクーニー様がレイン様のお部屋までご案内してくださるとのことで」

「ああ、じゃあもうすぐあいつが来るのね」あいつ、が誰のことを指すのかジルダにはわからないようだった。「アガズィア・ノイン・スクーニー」そう告げるとジルダは、ええ、と頷いた。

「じゃあ、早めに退散するかな。オレ、あいつのこと苦手なんだ」そう言いながら、オルガは足早に左の扉へと向かう。去り際に右手を軽く挙げて、おやすみ、とだけ告げて。ジルダが、おやすみなさいと答える頃には、その扉はもう閉められていた。


 それから数分後、中央奥の扉からアガズィアがやってきた。

「おはようございます。スクーニー様」

「おはよう、ジルダ。それじゃあ、彼女の部屋まで案内するからついて来て」


   *  *  *


 アガズィアは疑念を拭いきれずにいた。

 ジルダとレインを本当に会わせてしまって良いのだろうか。

 なぜ、この娘がメイドとして選ばれたのか。ルイに問い詰められた台詞そのままに、彼自身も同じ気持ちであった。ジルダの存在を耳にしたのは、レインが最後のメイドをクビにした翌日のことだった。


「レイン、聞いたよ」

 そのときアガズィアは外泊から戻ってきたばかりだったが、息をつく間もなくレインの部屋までやってきた。その部屋は、油絵で使う溶油ときゆの匂いで満たされており、その匂いが苦手な彼は口元を覆いながら、彼女に尋ねた。

「これで君の世話役は誰もいなくなった。君は今、誰かが傍で看ていないといけない身体なんだ。主治医のバンデウムを傍にいさせたいけれど、君は彼のことが嫌いなんだろう?」

「ええ、視界に入るのも吐き気がするわ」閉められたレースカーテンの前で、レインは椅子に座ってパレットを手に、図画を嗜んでいた。その目線の先には、青い林檎が置かれている。

「なぜ、独りになろうとしている」

「別に独りでいるつもりなんて無いわよ」レインはアガズィアの方向を流し見るも、視線はすぐにキャンバスへと戻っていった。「ただ、気に食わないことがあっただけ」

「それにしたって、今からメイドを手配するのは難しい。何よりも君の世話役には慎重な人選を要する。今、自分が置かれている状況を、君自身もよく理解しているだろう」

「そうね」アガズィアにはレインがひどく冷めた顔をしているように見えた。「だから私、新しいメイドを雇ったの」それは彼女からの唐突な告白だった。

「なっ……」予期せぬ返答に、言葉に詰まる。

「安心して。身寄りも無い、パーソナルコードも持たない女よ」

「つまり、コードレスか……」個体識別コードを持たない者。国籍も与えられず、世界を拒絶した、もしくは世界から拒絶された者たちの総称。

「来週、ここに来るわ。私の専属メイドとして雇うつもりよ。いいでしょう?」

「コードレスを雇うなんて、労働管理局に知られたら──」

「労働管理局に知られて困ることなんて、既にたくさんしているでしょう?」レインは、アガズィアの台詞にかぶさるように言い返す。事務処理の全てを担っていた彼女のその台詞に対して、アガズィアには返す言葉が無い。「それにコードレスなんて、既にこの館にはたくさん居るじゃない。何を今更」レインは含み笑いを見せて言った。館の中で生まれ、未申請がために、ここでしか生きられない子どもたちのことを思い浮かべて。

「君は今の状況を良くわかっているものだと、思っていたよ」独り言のようにアガズィアは呟いた。

「わかっているつもりよ」

「じゃあなぜ見ず知らずの女を、このフロアに立ち入らせるなんて真似を?」

「これでも、あなたのやりやすいようにしたつもりよ」

「どういうことだ?」

「どうせ最後には殺してしまうのでしょう?今までみたいに」レインは手を止め、アガズィアを見据えた。彼は何も答えない。匂いにも慣れたのか、口元を覆う手も下していた。「だったら、余計な手間は少ないほうがいいと思ったのよ。コードレスに死亡届は必要ない。この世界で彼女は、もともと存在しないに等しい人間なのだから」

「しかし──」

「『彼ら』は」と、レインはアガズィアの言葉を遮るように「構わないと、そう答えたわ」と告げた。

 彼ら。それがこの国の王族を指すことを、アガズィアは即座に理解した。

「ちゃんと報告済みよ。安心して」レインはそう言って、再び図画に取り掛かった。呆気にとられ、しばらくの沈黙が続いた後、アガズィアは観念したように口を開いた。

「……わかった。そういうことであれば、今回は君の言うとおりにしよう。だけどこれ以上、僕に黙って勝手なことはしないでくれ。でないと……」とそこまで言って、アガズィアは再び黙り込む。

「でないと、私も殺す?」レインは変わらず平坦な口調で尋ねた。

「……そうならないように、変な気は起こさないでくれよ」

「変な気、って何かしら?」

「君の頭の中には、この館に関する全ての情報が詰まっている。館主である、この僕よりも」

 アガズィアの言葉にレインは突然噴き出し、大笑いした。やがて息を切らしながら「安心して。変な気なんて、絶対に起こさないから」とアガズィアに告げた。しかしその言葉を、彼は最後まで信じられないでいた。


   *  *  *


「さあ、ここがレインの部屋だ」

 アガズィアがジルダを案内し扉を開くと、窓際の椅子に女性が一人腰掛けているのが、ジルダの目に映った。女性は窓の光に照らされながら、キャンバスを見つめている。彼女がレインその人であると、その姿を見てジルダは即座に理解した。

「失礼します」二人の入室に対して、レインの反応はない。「はじめまして、ジルダと申します。この度は」と、そこまで言いかけたところで、間もなくレインが言葉を発した。

「レイン」

 ジルダは伏せていた顔を上げる。

「私の名前よ。宜しくね」そう言う彼女は、優しく微笑んでいた。

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