2-3 レモン味のドロップ

 寒い。とにかく寒い。もう全身びしょ濡れだ。上空で網袋から抜け出せず、強い雨風に煽られて、身体は冷え切っていた。


「お疲れ様でした」

 引き上げられた私たちに声をかけながら、緑眼の青年はナイフで網を切り裂いた。駄目だ、身体が震えて動かない。

「シアさん、お久しぶりです」と、青年は手を差し出す。白い手袋で覆われたその手を取ると、彼は私の身体を網から引き出し、タオルで包んでくれた。けれど寒さに身体を丸め、再びうずくまってしまう。

「ありがとう……トゥレ」礼を告げて手を離すと、彼はお辞儀をして応えた。


 ジョー・セブンの仲間であるユピテル・トゥレは、とても美しい青年だ。久しぶりに会ったが、印象は全く変わっていない。短く揃えられたブロンドの髪に、睫毛のかかった緑色の瞳。鼻も真っ直ぐに通っていて、幼子のように白く透いた肌をしている。背丈は高めで、給仕人のような格好ではあるが、その身なりや仕草には揺るぐことの無い自信と清潔感があった。


「おい、俺にもタオルをくれ」ジョーが網から抜け出しながら言う。するとトゥレは持っていたもう一つのタオルを、彼に手渡した。まるで使用人だ。

「おお寒っ。こういうのって気候とかあんまり関係ねえんだな」私に比べて、ジョーはピンピンしている。

「そうかも知れませんね。スピン・ソイルは比較的温暖な地域ですが、こんな上空で雨風に曝されるのは、さぞかし身体が冷えたでしょう」

「あぁ、なめてたよ」ジョーは笑顔で答えた。


 ジョーはトゥレとは違い、雄雄しい雰囲気を持っている。背も高く、太い声の割に端整な顔立ちをしているが、無精ひげと癖がかった黒髪が少しもったいなく感じる。

「念のためにドライスーツを着込んでおいて良かったよ」と、ジョーが言う。……ドライスーツ?

「それにしても、驚きました。まさかこっちに向かって跳んでくるとは思いませんでしたから」トゥレが心底呆れたように呟いた。彼の言うそれは、あの決死のダイブのことを指しているだろうか。

「まあ、建物まで網が届かなかったときのために、ワンタッチグライダーを二機、渡しておきましたが」そう言いながら、トゥレは私を一目してから、視線をジョーの腰の辺りへと移した。


 妙な間が空く。

 私もトゥレと同じ場所を見てみると、ジョーの腰に巻かれた三つのホルスターが目に留まった。一つには拳銃が収められている。私に銃口を向けたやつだ。残りの二つは、どちらも同じもののように見えるが、あれはなんだろう。そして、ワンタッチグライダーとは一体なんなのだろうか。ワンタッチで空を悠々滑空できるグライダーへ変形するような、そんな便利で小型な機械だろうか。ジョーの腰にささっているあれがそれなのだろうか。


「その様子だと、シアさんへはお渡ししていないようですね。あなたって人は……」と、溜息をつくトゥレ。

「そんな暇が無くってな」笑うジョー。

「もしあそこであのまま二人とも落ちていたら、どうするんですか。咄嗟にグライダーを広げられたとしても、あの雨風ですよ。一機で大人二人の体重を支えて上昇することは、さすがに無理です。仮に上手く地面に着地できたとしても、収容所の外には出られず、結局は捕まってしまいます」

 トゥレの言葉に、思わず反応する。

「あそこで跳ばなくても良かったの?」私が尋ねると、トゥレは目を見開き答えた。

「跳ぶ必要なんてありませんよ。シアさんたちが立っていたあの距離でも、網は十分に届く計算でした」

 トゥレも私もお互いに「何をおっしゃる」の勢いだ。私も目を見開き、ジョーの顔へと視線を移す。

「興奮しただろう?」私と目が合い、彼はいやらしさが滲み出たような笑みを向けてきた。気持ち悪い。

「あんたねえ……」こいつは、どうしようもない。本当にどうしようもない奴だと、改めて認識した。

「悪かったな、シア」ジョーはケラケラと笑いながら言い放つ。悪びれた素振りは微塵もない。

「気安く私の名前を呼ぶな!」と叫びながら、ジョーに拳を振りかざした。だが、冷えているためか身体が思うように動かない。拳は空を切り、そしてそのままバランスを崩して、前のめりに倒れ込んでしまった。

「ブランクかい?元殺し屋」ジョーは飄然としている。

「なんだと、賞金稼ぎ」

 怒りでハラワタが煮えくり返ってドロドロだった。だが、忘れてはいけない。そうだった、こいつらは賞金稼ぎなんだ。私の首にも世界警察から懸賞金がかけられている。いくら顔見知りとはいえ、こいつらが世界警察に抗ってまで私を救うというのは、明らかに矛盾している。

「そろそろ、あんたたちが私を使って何がしたいのか、聞かせてもらっても良いんじゃないの?」

 私はジョーを真っ直ぐ見据えて、本題を切り出した。

「そうだな、あっちに席がある。そこで話そう」ジョーはそう言って、鼻を啜りながらその場を離れようとする。

「ちょっと待って」と声をかけるも、ジョーに待つ様子はない。

「おい、トゥレ。何か温かい飲みものと、着替えを用意してくれ」

 そう言いながら去り行くジョーの横顔に、光が指すのが見えた。窓からの明かりだ。私は窓の傍まで歩いていき、外の景色を眺める。雨上がりの山際に映えていく太陽を目にして、私は時間の感覚を取り戻すのだった。


   *  *  *


 少女は、空を見上げて思う。

 晴天だ!風も緩やかで心地よい。

「エリー!肌が焼けちまうよ、もう中にお入り!」

 オバアは口うるさい。それは肌が白く、身体の弱い彼女を心配してのことだったが、ここ最近、少女はそれを煩わしく感じていた。

「焼けたって、いいもん」

 だって、今日は久しぶりにマームに会えるから。マームを乗せた船は空からやってくるって、ジョーは言っていた。きっと、わたしが眠ってるうちに、プロペラを翼につけたあの変てこな形の飛行機でマームを迎えに行ったんだ。昨日、みんなでこの屋上に集まって、黒いペンキをぬりたくったあの飛行機。セスが「くもり空だから、外に出しましょうよ」と言って、飛行機を外に出した。ローランが言うには、空からの写真に注意しているそうだ。ジョーは「悪いことに使うから、手伝っちゃダメだ」なんてかっこつけてたけど、でも最後は、みんな体中をまっ黒にして、一緒になってオバアに怒られた。みんな子どもみたいに、はしゃいじゃって。大人なのにさ。セスとローランは「別行動」らしいからまだ帰ってこないけど、今日はマームが来る。そして、こんなときだけいるディーダおじさんも、たぶん来るんだろうな。

 ディーダおじさんは、ライセンスコレクターだそうだ。いろんな乗り物のライセンスを持っていて、自称、ピート・ミッチェルの生まれ変わりで、一匹オオカミだって言っていた。トゥレが「いろいろと間違っているから、信じちゃダメだよ」って言っていたけど、わたしには何が間違っているのかも、よくわからない。まあ、ディーダおじさんはオマケみたいなものだから、どうでもいいけど。でもきっとまた、ご飯をたくさん食べて、食べ終わったらすぐ帰るんだ。ヨアンは、ディーダおじさんには、お金をたくさん払ってるって言ってた。それなのに、足もとを見て、「値上げ」してくるらしい。よくばりな人だ。明日には、たぶんセスとローランが帰ってくるから、またみんな一緒だ。マームは、いつまでいるんだろう?ずっといてくれたらいいのに。

「そうだ!」少女は、何かを思いついたように叫んだ。「今日は、屋上でランチにしよう?ね、いいでしょ?」そう言ってオバアにおべっかを使う。

「ダメ!あんたは肌が弱いんだから、早く入りなさい」

 大人はなんでも「ダメ」だ。ジョーたちは、いつも屋上で遊んでいるのに。太陽だって、パラソルをさせばいいじゃない。本当は運ぶのが、めんどうくさいだけなんだ。「ダメ」って言いたいだけなんだ。わんこのコルクが、わたしにくっついてくる。コルクは頭が良い子だから、きっとわたしの気持ちがわかっているんだ。コルクの背中をなでる。ごわごわでがさがさだけど、日に当たってあたたかい。

 このままだと、オバアに無理やり連れ戻されて、屋上のドアのカギを閉められてしまう。マームたちが帰ってくるのは夕方だって、オバアは言っていた。そうだ。オバアが「最終手段」にでる前に、カギ穴にこっそり、ねんどをつめておこう。わたしはあきらめない。だって、今日はマームに会えるんだから。


   *  *  *


「ミルクか砂糖は要りますか?」

 案内された席に着くと、トゥレから温かいコーヒーを渡された。朝日に映える窓外の景色は壮観で、私の気分は少しだけ落ち着いた。ただ、裸にタオルと毛布を羽織るのは、なかなか慣れない。濡れた衣服が肌に張り付く感じも、確かに不快ではあったけど。

「ブラックでいいわ」そう告げると、トゥレはお辞儀をして奥のほうへと戻っていく。向かい合って座るジョーのカップには、角砂糖が一つ置かれていた。

「相変わらずだろ」と、ジョーがトゥレの方向を指差す。

「ええ、変わった人よね。あなたを含めて」

「ハッ」ジョーは吐き捨てるように笑いながら、角砂糖をコーヒーに入れて、カップを口に運んだ。

「この飛行機はあなたたちのもの?」

「気に入ったか?中古のティルトローター機なんだが、液体燃料しか使えないほどに古いぞ」

「買ったの?」

「いいや」ジョーは笑いながら首を振る。「ヨアン曰く、借りてきたそうだ。古参の操縦士と一緒にな」

 ヨアン・マックロイ、こいつもジョーの仲間だ。そして、操縦士もたぶん知っている奴だろう。「ヨアンは操縦室にいるぞ。挨拶するか?」

「遠慮しておくわ」ヨアンの底抜けな明るさが、あまり得意ではなかった。「裕福なのね、あなたたち」

「少し前にまとまった金が入ったからな。それを使ったんだろうさ。金勘定もヨアンに任せているから俺にはわからない」

「誰か大物でも捕まえたの?」

「まあな」そう答えただけで、ジョーは深く語ろうとはしなかった。自慢話が好きな奴だと思っていたから、少し意外だ。しばらく掴みどころのない沈黙が続く。しまったな。気分が落ち着いたせいか、いろいろと聞き出すタイミングを見失ってしまった。ジョーの顔を見てみるが、何も語るそぶりはない。手元のスレート端末を弄っている。だが私には、聞きたいことがたくさんある。依頼のこと。依頼主のこと。捕まっていたこと。助けたこと。これからのこと。そうやって考えを巡らせるうちに、一人の少女との記憶が思い起こされた。


『あのね、かなしいときは、レモンあじのドロップがいいんだよ』

『レモン味……?』

『うん。だからね、はい!レモンあじ。マームにあげるね』


「……エリーは、元気?」

 結局、話を切り出したのは、私からだった。

「ああ、八歳とは思えないほどに、よくできた子だよ」

 ジョーは手を止めて答えた。

「そう、もう八歳になったのね……」

 最後に会ったときのエリーの顔が思い浮かんだ。ちょうど歯の生え変わる頃で前歯だけが無く、その隙間から舌をペロっと出しながらはにかむ仕草が、とても可愛らしかった。


「強がりで泣き虫なところは、変わってないけどな」と、ジョーが笑う。

「私のこと、覚えているかしら」

「覚えているさ。お前がいなくなった朝、泣いて大変だったんだ。今日のことも楽しみにしていたぞ」

「エリーに会えるの?」

「ああ。これから一旦、戻るからな」

「そうなんだ……三年ぶりね。楽しみだわ」

 本当はエリーに会うのが、少しだけ怖い。成長したエリーは、私の知っているエリーとは違うかもしれない。そんな不安が胸を覆っていた。

「あ、でも、私はまだその『誰かさん』の依頼を受けると決めたわけじゃないからね」私は念を押すように伝える。

「承知の上さ」

「そもそも、何で私なの?」

「俺が紹介したからだ」

「勝手なことを……まあいいわ。それで、その依頼主はどこにいるの?」

 周囲を見回すも、機内にいるようには見えなかった。

「今は会えない。ただ、俺たちがその代理人を任されている。そういう約束なんだ」

「なにそれ、だったら依頼について早く話してよ」

「すまないな」そう言うジョーに悪びれた様子はない。

「代理人なんてそんなことする人たちだったかしら、あなたたち」

「それにもわけがある」

「ふーん……」どうせその『わけ』とやらについて尋ねても、答えてはくれないのだろう。「それじゃあ、あなたが依頼主の代わりだと思えばいいわけね?」

「そういうことになるな」

「あっそう」完全には納得できないが、この際仕方がない。「それじゃあ聞くけど、依頼の内容は?」

「お前、シャランへ行ったことはあるか?」

 シャラン王国。国家再建の際に王政復古を遂げるも、いまだ国王派と革命派との内乱が続く、南ユーラシアに位置する君主国の一つだ。

「いいえ、一度も。それで?」

「まずはそこに行ってほしい」

「デモ隊にでも参加すればいいのかしら?」

「まさか」ジョーは鼻にかけるように笑う。

「じゃあ何さ」

「あそこには、数多くの色街が存在することを知っているか?」

「ツアーガイド程度にはね……相変わらず話が回りくどいわよ」

「じゃあ、『フォウ・オクロック』という名の娼館については?」

「さあ?ツアーガイドには、娼館のことなんて載ってないから」変な名前の館だ。「まさか、そこで働けとでも?」茶化すように笑う。

「ああ、そうだ」まさかの答えだった。

「冗談でしょう?」

「ターゲットもそこにいる」ジョーは変わらず、ニヒルな笑みを浮かべて言った。「そして、そのターゲットは依頼主でもあるんだ」

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