3-1 黒髪の娼婦

 藍味がかった黒髪の娼婦は、男の腕に抱かれながら自身の過去に想いを馳せていた。純真無垢な少女だった頃のことを。


「おめでとう」

 扉を開くと、少女は若い男に拍手で迎えられた。

「今日から君も、この国を支える一員だ」

 歓楽街から一区画離れた位置にそびえるその館は、上空から眺めるとクローバー型にも見える独特な造りや、煉瓦レンガの塀で覆われた閉鎖的な空間のせいか、陰気な噂で覆われていた。曰く高級娼館、曰く秘密組織、曰く実験施設。ともあれ、その館は特別な場所なのだと、かつて少女も耳にしたことがあった。選ばれた一握りの人間しか、立ち入ることも許されないのだと。少女は不思議でならなかった。なぜ自分のような何の取り柄も、ましてや身寄りさえない子どもが、そのような場所に招かれたのか。不可思議な出来事に、恐怖さえ感じていた。しかし、彼女を迎え入れた男の話を耳にして、その心境は大きく変化していくこととなる。それは、少女が初めて耳にする「家族」についての話だった。

「君の母親は、非常に優秀な人だったよ。国の発展のため、多大な功績を残した」

 男は応接室のような部屋へ少女を招き入れると、遠い記憶を辿るようにしながら語りだした。

「君は、この館で産み落とされたんだ。だけど、生まれながらにして、君たち親子は引き離される運命にあった。君の母親が担っていたのは、機密性が高く、重要な任務だったからね。子どもを抱えながらそれを遂行することはできなかったんだ。そのときの彼女の落胆した姿は、今でも覚えているよ。結局彼女は君に会うことなく亡くなってしまったが、最期までこの国のために活躍してくれた。君は彼女によく似ている。だからその娘である君にも、私たちはとても期待しているんだ」

 少女はその館へ「国に貢献する仕事ができる」と、半ば強引に連れられたが、正直気乗りはしていなかった。肌や瞳の色が他の子と違うと知ってから、国家への帰属意識にも疑念を感じずにはいられなかったからだ。しかし、そこで初めて聞かされた自らの出生について。自分が属するのは、形骸さえも儘ならない曖昧な集団ではなく、確かに存在した温もりある人間なのだと感じたその日から、彼女の人生の全てが変わった。

 微笑んでいるその男から、少女は書類の束を渡される。

「その書類をよく読んで、中の用紙にサインをしてほしい。用紙は明日の朝に回収するからね。君の部屋ももう用意してあるから、そこを好きに使うといい」

 そう告げると男は続けて、鞘付きのナイフを少女に手渡した。

「血印も忘れずにね。それで親指の腹を薄く切って、サインの横に押し付けるんだ。部屋には消毒薬も包帯も置いてある。大丈夫、この館には医者もいるから、怖くなったら呼びなさい」

 彼女は渡されたナイフを静かに眺めた。血印であれば、針を刺すだけでも事足りる。そのナイフの示す意味。ここまでくると覚悟を決めるしかなかった。もしその覚悟がなければ、自決する他に道はない。最後の選択。ナイフはそういった意味を持ち合わせていると、幼いながらに少女は悟った。やがて彼女はゆっくり息を吐き出すと、おもむろにナイフの刃を握り、力強くそれを引き抜いた。

「っ!」痛みが走る。右手が熱い。見ると男は間の抜けた顔をしている。少女は血にまみれた手のひらを用紙に押し付け、それを男の眼前に掲げて見せた。

「私には、名前がありません。できることなら、母の名を継ぎたい。だから、その名前を教えてください」

 血が滴になって机上に垂れ落ちる。男が慌てた素振りで声を上げると、扉の前に立っていたメイドが小走りで部屋を出ていった。おそらく医者を呼びに行ったのだろう。

 幼少期、人差し指を向けられて「フー」と尋ねられた彼女は、それが自らの名前だと思い込み、そう名乗っていた時期があった。しかし、それが仮初めの名であることなど、彼女自身も気づいていた。

「施設での呼び名は、君が望んだ名前じゃなかったのかい?」

 男の問いかけに、手当を受けながら少女は真っ直ぐな眼で頷いた。

「そうか……そうとは知らずにすまなかった」

 少女が視線を逸らすことなく「母の名は?」と早口で尋ね返すと、男は息を吐いて「君の母の名は、『ルイ』というよ」と、聴き取りやすいように、名前を強調するようにして答えた。

「ルイ……」

「そう、『ルイ・オジェ』。それが君の母親の名であり、いずれはきっと君の名前になるだろう」

「いずれ?」少女は声を荒げる。「今からじゃ駄目なの?」

「彼女は特別な人間だったから、その名前も特別なものなんだ」

 男の含みを持たせる言い方に、彼女は得心がいかないといった表情を浮かべた。すぐにわかるよ、と語る男の言葉もはぐらかされているように感じ、しばらくは気持ちを切り替えられずにいた。

「大丈夫。頑張って周りに認めてもらえれば、その名はきっと君のものになるから」

 俯いたままのの少女に、男は理解を求めようと言葉を投げかける。しかし、それももう彼女の耳には届いていない。

「『ルイ・オジェ』……『ルイ・オジェ』……」

 少女はその響きを咀嚼するように、幾度となく呟いていた。


 それから十余年の月日を経て、彼女はようやく母の名を継ぐ権利を手にしていた。長年待ち侘びた瞬間がもうすぐやってくる。彼女はその瞬間を迎えるためだけに、それまで生きてきたと言っても過言ではない。少女は既に大人の女性へと成長を遂げていたが、その顔は幼子のようにほころんでいた。

「どうしたんだい?何だか嬉しそうだね」

 男が女の頬に手を添えて、問いかける。交わっている最中も、女は口元を緩ませ、何処か遠くを見つめていたからだ。

「私ね、もうすぐお母さんになるの」

 女が微笑みながらそう告げると、男は意味を取り違えて苦笑いを浮かべた。

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