3-1 黒髪の娼婦
藍味がかった黒髪の娼婦は、男の腕に抱かれながら自身の過去に想いを馳せていた。純真無垢な少女だった頃のことを。
「おめでとう」
扉を開くと、少女は若い男に拍手で迎えられた。
「今日から君も、この国を支える一員だ」
歓楽街から一区画離れた位置に
「君の母親は、非常に優秀な人だったよ。国の発展のため、多大な功績を残した」
男は応接室のような部屋へ少女を招き入れると、遠い記憶を辿るようにしながら語りだした。
「君は、この館で産み落とされたんだ。だけど、生まれながらにして、君たち親子は引き離される運命にあった。君の母親が担っていたのは、機密性が高く、重要な任務だったからね。子どもを抱えながらそれを遂行することはできなかったんだ。そのときの彼女の落胆した姿は、今でも覚えているよ。結局彼女は君に会うことなく亡くなってしまったが、最期までこの国のために活躍してくれた。君は彼女によく似ている。だからその娘である君にも、私たちはとても期待しているんだ」
少女はその館へ「国に貢献する仕事ができる」と、半ば強引に連れられたが、正直気乗りはしていなかった。肌や瞳の色が他の子と違うと知ってから、国家への帰属意識にも疑念を感じずにはいられなかったからだ。しかし、そこで初めて聞かされた自らの出生について。自分が属するのは、形骸さえも儘ならない曖昧な集団ではなく、確かに存在した温もりある人間なのだと感じたその日から、彼女の人生の全てが変わった。
微笑んでいるその男から、少女は書類の束を渡される。
「その書類をよく読んで、中の用紙にサインをしてほしい。用紙は明日の朝に回収するからね。君の部屋ももう用意してあるから、そこを好きに使うといい」
そう告げると男は続けて、鞘付きのナイフを少女に手渡した。
「血印も忘れずにね。それで親指の腹を薄く切って、サインの横に押し付けるんだ。部屋には消毒薬も包帯も置いてある。大丈夫、この館には医者もいるから、怖くなったら呼びなさい」
彼女は渡されたナイフを静かに眺めた。血印であれば、針を刺すだけでも事足りる。そのナイフの示す意味。ここまでくると覚悟を決めるしかなかった。もしその覚悟がなければ、自決する他に道はない。最後の選択。ナイフはそういった意味を持ち合わせていると、幼いながらに少女は悟った。やがて彼女はゆっくり息を吐き出すと、おもむろにナイフの刃を握り、力強くそれを引き抜いた。
「っ!」痛みが走る。右手が熱い。見ると男は間の抜けた顔をしている。少女は血にまみれた手のひらを用紙に押し付け、それを男の眼前に掲げて見せた。
「私には、名前がありません。できることなら、母の名を継ぎたい。だから、その名前を教えてください」
血が滴になって机上に垂れ落ちる。男が慌てた素振りで声を上げると、扉の前に立っていたメイドが小走りで部屋を出ていった。おそらく医者を呼びに行ったのだろう。
幼少期、人差し指を向けられて「フー」と尋ねられた彼女は、それが自らの名前だと思い込み、そう名乗っていた時期があった。しかし、それが仮初めの名であることなど、彼女自身も気づいていた。
「施設での呼び名は、君が望んだ名前じゃなかったのかい?」
男の問いかけに、手当を受けながら少女は真っ直ぐな眼で頷いた。
「そうか……そうとは知らずにすまなかった」
少女が視線を逸らすことなく「母の名は?」と早口で尋ね返すと、男は息を吐いて「君の母の名は、『ルイ』というよ」と、聴き取りやすいように、名前を強調するようにして答えた。
「ルイ……」
「そう、『ルイ・オジェ』。それが君の母親の名であり、いずれはきっと君の名前になるだろう」
「いずれ?」少女は声を荒げる。「今からじゃ駄目なの?」
「彼女は特別な人間だったから、その名前も特別なものなんだ」
男の含みを持たせる言い方に、彼女は得心がいかないといった表情を浮かべた。すぐにわかるよ、と語る男の言葉もはぐらかされているように感じ、しばらくは気持ちを切り替えられずにいた。
「大丈夫。頑張って周りに認めてもらえれば、その名はきっと君のものになるから」
俯いたままのの少女に、男は理解を求めようと言葉を投げかける。しかし、それももう彼女の耳には届いていない。
「『ルイ・オジェ』……『ルイ・オジェ』……」
少女はその響きを咀嚼するように、幾度となく呟いていた。
それから十余年の月日を経て、彼女はようやく母の名を継ぐ権利を手にしていた。長年待ち侘びた瞬間がもうすぐやってくる。彼女はその瞬間を迎えるためだけに、それまで生きてきたと言っても過言ではない。少女は既に大人の女性へと成長を遂げていたが、その顔は幼子のようにほころんでいた。
「どうしたんだい?何だか嬉しそうだね」
男が女の頬に手を添えて、問いかける。交わっている最中も、女は口元を緩ませ、何処か遠くを見つめていたからだ。
「私ね、もうすぐお母さんになるの」
女が微笑みながらそう告げると、男は意味を取り違えて苦笑いを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます