2-1 大奪走
初めは、巨大なナイフから逃げているだけのはずだった。
それがいつの間にか、そのナイフは手元に収まっていて。
もう一方の手で私は、顔の霞んだ少女を地面に押さえつけていた。
少女には抗う仕草もない。
まるで無機物だ。
私はナイフを振り上げて、少女の薄っぺらな胸に突き立てた。
そう、これは夢の中なのだ。
そんなことはもうとっくに気づいていた。
少女は、華奢な身体を反らせて。
少女は、硝子玉で空を見据えて。
少女は変わらず、無機物なままで。
私はわけもわからずに嘆き嗚咽するも、一向に涙が出ない。
何も語らぬ少女の頬から、一粒の雫が垂れ落ちるのを見て、
少女は幼い頃の自分の姿なのだと、頭のどこかで理解した。
苦しくて、苦しくて。
私は自らの身体を地中へと沈ませていく。
埋もれるさなか、
誰かと手を繋いで歩き去る少女の姿が瞳に映り。
ひどく、胸が痛んだ。
呼び止めようにも、
既に口元まで埋まっていて声が出ない。
静かに沈んでいく身体。
鼻も耳も塞がれ、
やがて、視界も遮られた。
全てが沈みきると最後に残ったのは、
ぐわんぐわんと頭の中でこだまする、
ただの響きだけだった。
* * *
悪夢に駆られて目を覚ます。
私は、見慣れない部屋に一人でいた。
壁も地面も冷たいコンクリートで塗り固められた、薄暗がりの空間。空気は湿っていて、少し寒い。ぱちぱちと、窓に跳ねる雨音が聴こえる。電灯は点っておらず、外から射す幽かな蒼さだけが、辺りをささやかに照らしていた。
まだ思考もままならない。
身体を起こして周囲を見回すと、扉が一つ、窓は二つあることに気がついた。窓の一つは、扉の向かいの壁にある格子付きのもの。サイズは小ぶりで、たとえ硝子や格子が無くとも大人の身体では通れそうにない。ちょうど目の高さにあったので、窓外を眺めることができた。水滴の影、雨打つ音。そこを境に屋外に繋がっていることを窺い知れた。しかし夜更けなのか、それとも雨雲のせいか、外の景色は暗くてよく見えない。ただ下方にぼんやりと見える外灯から、かなり高い位置にこの部屋があることは感じとれる。
もう一方の窓は、扉に付いた覗き窓だった。おそらく廊下に繋がっているのだろう。ただ、真っ暗で何も見えない。こちらも触れてみると硝子がはまっていた。扉は外側から鍵がかかっているのか、取手に力を込めども、開けることは叶わなかった。まるで牢獄……いや、まさにそのもののようだ。ここは一体どこなのか。そんなことよりも、私はどうしてこんなところにいるのだろう。まずはそこから考えなければならないようだ。
「おい、シア」
不意に何者かが、私の名前を呼んだ。男の声だ。
「おい、立ったまま死んでるのか?」
続けて声の主は語りかけてくる。聞き覚えのある声だった。扉の覗き窓をよく見ると、男の口元が薄っすらと見えた。
「……あなたは?」訝りながらも、その男に尋ねる。
「なんだ、俺のことを忘れちまったのか?」
男の口元は笑っていた。ニヒルな笑み。見覚えがある。というよりも、こんな憎たらしい笑い方をする奴は一人しか知らない。
「ジョー……?」私は男の名を呼んだ。
「久しぶりだな。シア・モンテイロ」
ジョー・セブンは昔と変わらず、ニヒルな笑みを浮かべていた。
「なんであんたが……それと、ここはどこ?」
「なんだ、わかっていないのか?」
「ええ。残念だけど、思い出せないのよ」
「そうか、そいつは困ったな」
「困った?」
「ああ、そうさ。俺は今からお前を助けてやろうと思っていたんだがな。状況を理解できていないのなら、その意味がないのかもしれない」
「私を、助けに?」
「そうさ」
「なぜ?」
「なぜ、だ?」
ジョーは「ハッ」と心底くだらなさそうに笑った。
「俺たちはこれから、最高のパートナーになるからだ」
そう言うとジョーは、ゴンッと音をさせ、何か黒い塊を眼前の窓に押し当てた。撃鉄を起こす音から、それがリボルバー式の拳銃だと気づく。西暦時代の銃、
「なにを……」動揺した。彼の行動が理解できない。
「そこをどけ。当たるぞ」
ただ呆然としていると、ジョーは舌打ちをして容赦なく弾丸を撃ち放った。左耳に痛みが走る。近距離から放たれた弾は窓硝子を割り、私の左耳のすぐそばを通過したのだ。当たってはいない。けれど、その衝撃が鼓膜を響かせ、しばらく疼くような刺激が続くのだった。
「この窓が防弾じゃなくて良かった。跳ねた弾が背中に当たらなかったか?」
「あっ、あ、あ……」心臓が高鳴り言葉がうまく発せられない。
「あ?」
「あんたねえ!」どこからともなく怒りが込み上がる。
「良かった。元気そうだ」ジョーはなんとも軽い口調。しかも笑っていた。
「何?何なの?いったい何が目的?ここはどこ?なんで私は閉じ込められているの?ちゃんと説明してよ!」
錯乱しながらも問い詰めるように私が叫ぶと、ジョーは自らが空けた穴から、噛んだ後のガムのような、細長くしなった蛍光色の塊を私に差し出した。手袋に覆われた彼の手が、ぼんやりと見える。
「この状況で物怖じせず、それだけの威勢が張れるとはさすがだな。まあ、とりあえずこいつを受け取ってくれよ」
一旦落ち着こうと、大きく息を吐いて呼吸を整える。
「まず説明して。一体何がどうなっているの」
「時間が無い。お前もここから出たいだろう?」
「それもまだわからない」
「お前にはその理由があるはずだ。なあ、マーム?」
そう言って男はニヒルな笑みを浮かべた。「マーム」は私の良く使う偽名の一つだ。ジョーの挑発的な笑み。気に食わない。
「私をここから連れ出して何がしたいの?」
「安心しろ。お前に危害を加えるつもりはない」
「そういうことを聞いているんじゃないって、何でわからないのかしら。それに、まだ左耳が痛むんだけど。それでよく信頼される自信があるものだわ」
ジョーは少し黙った後、溜息を吐いてから口を開いた。
「俺たちは、お前を捜していたんだ」
俺たち、と名乗るからには、他にも仲間がいるということだろう。
「なぜ」
「お前を必要としている奴がいる」
「誰」
「それは後で教える」
「何のために私が必要なの?」
「お前に仕事を依頼したいそうだ」
「どんな?」舌打ちが聞こえる。度重なる質問に、嫌気がさしたようだ。
「ここを無事に出ることができれば、黙っていても知ることができるんだ。そう焦るな」
投げやりな答え。いや、答えにもなっていない。だけど。
「もっと知りたいことがある。たとえばここはどこか、とか」
そう尋ねると、ジョーはやれやれといった様子で答えた。
「公海に浮かぶ絶壁の孤島、スピン・ソイル。そこにある唯一の建築物。その中だ」
スピン・ソイル。世界警察の造った人工島。
「じゃあ、ここはまさか……」
「そうさ。奴らの罪人収容所ってことになる。未完成だがな。じきにお前の取調べが行われるはずだ。このままだと、お前はこの中で一生を過ごすことになるだろうよ。より強固なセキュリティを敷かれてな。だから、そうなる前にお前を救い出す必要があった」
「私は、奴らに捕まったの?」
「ああ、そうだ。だが俺たちも、どうやってお前が捕まったのかまではわからない。言っていることが理解できないかもしれないが、詳しいことはここを出てから話すってことで納得してくれないか。もう後戻りはできないんだ。わかるだろう?さっきの銃声で、細工も切れた。ここまで来たからには、無条件でお前をここから連れ出してやる。だから、ここは一つ俺を信じて、こいつを受け取ってくれ」
ジョーは急かすように、差し出した塊を上下に振って見せる。さっきから人に頼みごとをするような態度ではないのは確かだ。けれど、このままここにいる理由も無い。こいつは一体何を知っていて、何を考えているのだろう。そう不審に思いながらも、私は彼の差し出す塊を受け取ることにした。
「信じちゃいないわ。ただ、ここから出たいと思っただけよ」
「それでもいいさ」
「それと」語調を強める。「たとえ助け出されたからといって、その『誰かさん』の依頼を受けると決まったわけじゃないからね」
「もちろん。例え、話し合いがうまくいかなかったとしても、お前をどうこうするつもりはない。何にしたって、ここから出なければ何も始まらないんだ。とにかく今はそれだけでいい」
「……わかったわ」そう言って私は頷いて見せた。「それで、これ何?」手にした塊を眺める。薄く黄色く光るそれは、粘土のような肌触りがした。「これ、どうすれば良いの?」
「そいつをドアと壁の隙間に埋め込んでくれ。そうだな、位置はドアノブのあたりが良い」
私は言われるまま、その塊をドアノブと壁の隙間に埋め込んだ。そのとき小さな管のようなものが、塊の中にあることに気づく。何となく先が見えてきた。
「埋め込んだわよ」と私は扉を叩き、合図を送る。
「よし、じゃあ部屋の隅のほうまで離れな。怪我するぞ」
指示通りに部屋の片隅まで下がると、いくぞ!とジョーが叫んだ。その叫び声の直後、扉は大きな音を立てて破裂した。熱い。耳が痛い。渡された塊は可塑性の爆薬だったと確信する。土煙の舞う中で眼を凝らすと、壁は削れ、扉もひしゃげて開いているのが見えた。
「よし、ついて来い!」
ジョーが呼び声を聞いて、私は部屋から飛び出した。と同時に廊下の電灯が点りだした。既に駆け出し始めていたジョーの後を、私は慌てて追いかける。やがて、けたたましい警報が建物中に鳴り響いた。看守だろうか、遠くから叫び声も聞こえてくる。すると突然、前方突き当たりの壁がはたまた大きな爆発音とともに、破壊された。辺りを粉塵が舞い、視界が遮られたため自然と足が止まる。薄く目を開くと、赤く射す光線が白い煙に映って見えた。
「赤い光に向かって進め!」ジョーの叫び声が聞こえ、私は無我夢中で光を目指して足を進めると、やがて強い風とともに視界がひらき、顔に雨飛沫が当たった。眼下に野外の景色が広がる。
「止まれ」そう言うジョーの腕に、私の身体は支えられる形になった。壁には大きな穴が空いていて、その先に続く道は無い。もしあのまま歩みを進めていたら、気づかずに落ちていたかもしれない。よく見ると、そこは屋外であり、内郭でもあった。建物はドーナツ型をしていて、その内側は巨大な吹き抜けになっていたのだ。中央に見える監視塔のようなものは未完成のようで、天井もまだ無い。確かスピン・ソイルの収容所は、下層内側の壁は全て硝子張りでできていて、建物全体がパノプティコンという監視システムで統制される予定なのだと、ニュースで見たような記憶がある。恐る恐る見下ろすと、真下の木々が小さく見えた。かなりの高さだ。そして、耳を塞ぎたくなるほどの轟音と風。眼前では航空機が、背にある搬入口をこちらに向けたまま、空中でホバリングしていた。真赤なレーザー光は、そこから放たれたものだった。
「こちらです!早く!」拡声器の声。目を凝らすと、航空機の中に大きく手を振る青年の姿が見えた。ジョーの仲間の一人だ。彼のすぐ隣には、射出機のようなものが固定されているのが見える。
「よし!」と、ジョーは私の手首を掴んで叫んだ。「掛け声に合わせてなるべく高く、そして前に飛べ!」
思わず足下を見る。正気か?無理に決まっている。ここから、搬入口までゆうに十メートルはありそうだ。かつて偉人たちが残した走り幅跳びの世界記録でも届かない距離だ。
「うおおおおおお!」
唖然としている私をさしおいてジョーは一人で咆哮を始めた。
「ちょっ」と待ってよ。と握られた手を振り解こうにも、その握る力は強く、さらに飛び出す勢いは激しかった。
「とべええええええ!」
彼の掛け声とともに、私の身体が宙に浮いた。もう抗うことはできない。二人の身体は一瞬だけ上昇し、すぐさま落下を始めた。背筋を寒気が襲い、瞳孔は開き、鳥肌が立つ。死を予感した。
その時、ドン、と爆発音。搬入口の射出機から、砲弾が飛び出している。それは近づくにつれ大きく開いて、網状のものがみるみるうちに私たちの身体を包み込んだ。網の端には火薬が仕込まれているようで、火花を散らし旋回しながら網の口を絡め閉じていく。私たちの身体を受け止めた網袋は、その重量と反動により大きく揺れた。ジョーは片手で網目を掴み、もう一方の手で私の身体を引き寄せると、しっかり掴まれ、と私に耳打ちをする。航空機は勢いをつけるように上昇し、網袋を大きく揺らしながら、逃走を始めたのだった。
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