北崎川高等学校管弦楽部「春合宿」

岡野めぐみ

3月27日

しおり制作者の特権

 卒業式、そして、終業式も終わり、年度始めまであと少し。

 北崎川高等学校管弦楽部の在校部員たちは、明日から年度末恒例の春合宿。

 在校部員――つまり、次期二年生と次期三年生の部員の合宿だが、その年に卒業した部員たちも可能な限り全員参加というのは暗黙の了解になっている。

 今年の卒業生、四十八期の1stヴァイオリン・吾川憲太郎も合宿に参加するべく、合宿のしおりを受け取りに母校を訪れていた。


「あ! 吾川先輩いらっしゃい!」

 卒業して一月未満。

 当たり前だが特に懐かしくもない部室は、明日から合宿ということで物が散乱し、人の入り込むスペースがほとんどない。

 そのなかでこまごまと働いていたのは、やはり特に懐かしくもない後輩二人。

「よお、三角、純平、頑張ってるな」

「おかげさまで」

 少し疲れた顔で、しかし、にっこりと営業スマイルを浮かべるのはチェロの五十期生で五十一期庶務副課長の三角明菜。

 そして、

「憲ちゃん先輩、差し入れくださいよー」

 と、不遜なことをのたまうのはクラリネットの五十期生で五十一期庶務課長の室井純平。

「オレは野郎に貢ぐ趣味はねえんだよ。あ、三角にはチョコをやろう」

 純平には一瞥を、三角には微笑んでポケットから、ほい、とチロルチョコを取り出し渡す。

「あ、ありがとうございます」

「えー、せんぱーい! せーこーいー! 男女差別ー!」

「うるさい、純平、しおり寄越せコラ」

 喚く純平の頭を小突き、凄む。

 ひでえですよ憲ちゃん先輩などとブツブツぼやいていたが、力一杯睨むと、ようやくしおりを一部寄越してきた。

 B5用紙の三枚つづりで右上にパツンとホッチキス。

 白い紙の上に、ただ事務的に綴られたと思しき黒文字群。

 いかにも素気ないそのしおりのつくりに、吾川は眉を寄せた。

「おい、三角、純平、オレ、嫌な予感を覚えたんだが……」

「嫌な予感って……、どうかしましたか?」

 かわいらしく首を傾げる三角、そして、目をパチパチさせるだけの純平。

 吾川はますます眉を寄せる。

「オレと同期でこれ見て何か言ったやついなかったのか?」

「え……?」

「いや、いなかったですよ?」

 本当に誰からも何も聞いてないらしい二人は顔を見合わせ、そして、揃ってこちらを見る。

「何かあるんですか? 先輩」

「……このしおり作ったのって、うちのまりあだろ?」

 案の定、二人は頷いた。

「憲ちゃん先輩、正解!」

「よくわかりましたね」

「このシンプル加減見たら誰でもわかると思うんだが」

 吾川の脳裏に浮かぶのは、年がら年中仏頂面というイメージしかない1stヴァイオリン五十期生の旭まりあ。

「まりあちゃん、とっても手際いいんですよー」

 三角は笑顔でそう言った。

「本当は私と室井君の二人でしおりつくる予定だったんですけど、色々忙しくて困ってたら、まりあちゃんが独りで全部引き受けてくれたんです。部屋割りから配車表まで作ってくれて」

「今回ばかりはホント旭に感謝だよなぁ」

 室井の言葉に笑顔で頷き、首を傾げる。

「――ところで先輩、何かあるのですか?」

「いや……」

 純粋に旭に感謝する二人に、吾川は何も言えなくなった。


 ――北崎川高等学校管弦楽部の春合宿は、部内では通称『初見合宿』と呼ばれる。

 その名の通り合宿二日目の朝に先生より楽譜を渡され、練習なし、つまり初見で合奏することになる。

 そして、最終日の合奏までに曲を完成させることができなかった場合、その先にあるのはにこやかな津田教諭の鋭く心に刺さる説教。

 その初見の曲を選ぶ権利を持っているのが、実はしおりの製作者なのだ。

 どんな経緯でそんな妙な伝統が誕生したのかは、少なくとも吾川は知らない。

 しかし、実際、二年前の春合宿の時、先生に言われて初見の曲を選んだのは、その時しおりをつくった吾川だった。伝統だから遠慮なく、と言われて。

 もちろん、吾川はその時、比較的難易度の低い曲――ベートーヴェンの序曲エグモントを選んだ。

 去年は誰がしおりをつくったのか知らないが、やっぱりそんなに難易度の高くないチャイコフスキーのバレエ組曲の抜粋だった。

 たぶん、そうやって代々しおりの制作者は、そう難しくない曲を選んでこの初見合宿を救ってきたのではないかと吾川は思う。

 しかし――

「まりあ、か……」

 旭まりあ――部内一のクラシックマニアにして練習の鬼。

 その上、音楽に対する怠惰な姿勢を悪だと思っているふしがある。

 そんな彼女が、初見合宿の選曲で簡単な曲を選ぶというような手抜きをするとはとても考えられない。いや、絶対しないだろう。

 嵐のような合宿風景を思い浮かべ、打ち消すように軽く首を振った。

「……ま、いいか」

 どうせオレは卒業生だし……、と二人に聞こえないように小さくそう呟いて苦笑する。

 卒業生は一応OBということで津田教諭の説教を面と向かって受けることはない。

「それじゃ、三角、純平、また明日」

 問題のしおりを小さく畳んでシャツのポケットに突っ込み、苦笑いの苦味の部分を引っ込めて、哀れな子羊二人に手を振る。

「お疲れ様です」

「憲ちゃん先輩、明日はオレにも何かくださいよー」

「ああ、考えとく」

 このままではあまりにも哀れかもしれない後輩たち。

 できる限り豪勢な差し入れをしてあげようと考えながら吾川は母校を後にした。


 (3月27日合宿前日)

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