ボクの帽子は魔王さま
岡野めぐみ
第1話
一人息子の新年度の始業式だというのに、半月ぶりに母が帰って来たのは当日の朝だった。
「ああっ ルイくんゴメンね! なかなか片付かなくって!」
「遅い、って、おわっ!」
勢いつけて走り込んできた母は、学校へ行く準備をすっかりすませて玄関先で待っていたボクに容赦なくガバッと抱きつく。
さいわい抱きつきつつもしっかり支えてくれたおかげで、かろうじて引っ繰り返ることは回避したけれども。
もっとも、そうでなければ親子の縁をスッパリ切るところだ。
「ああんっ! どうしようっ! 今から着替えていたら学校に間に合わないよね?」
地面に膝ついてひとしきりボクの胸元に頬をすり寄せた母はそう言って涙に潤んだ鳶色の目をこちらに向けた。
いったい何を勘違いしてるんだか。
「母さん、始業式は保護者同伴じゃないよ。入学式じゃあるまいし」
入学式は去年の話。
今年度からボクは初等学校の二年生だ。
ボクの肩に手を置いたまま涙を拭いもせず目を瞬かせて、母は小首を傾げた。
「ええっと……、そうだったっけ?」
「そうだよ」
「ママが初等学校の頃は始業式もお母さまと一緒に行った記憶が……」
「それは母さんが始業式から遅刻してばあちゃんに送ってもらってただけの話じゃない?」
たっぷりの厭味も母には通用しない。
なぁんだ、と子どもみたいに頬を膨らませて立ち上がり、パッパと膝を払う。
「焦って帰って来て損しちゃった。ルイくん制服もちゃんと着てるし、もう学校の準備できてるんだよね? だったらママ、疲れちゃったから寝るね?」
「ちょっと待たんかい」
家に入りかけた母の腕をボクは両手でガッシリ掴む。
「ちゃんと見てよ、制服揃ってないよ」
「え?」
母はきょとんとした顔でこちらを見下ろす。
その本当に何もわかっていなさそうな表情にボクはちょっぴり泣きたくなった。
「忘れたの? 帽子だよ、ぼ・う・し」
「帽子……」
「学校の! 通学用の帽子! 通学帽!」
ボクはパンパンと両の手で何も被ってない頭を叩いて見せる。
「母さん、持ってっちゃったでしょ? 今回の仕事先に! 形見だとか何とか言って! そもそも形見ってのは故人を偲ぶモノなのに! 細かいことはつべこべ言わないとか何とか言って持ってったあの帽子はどうしたの!」
「……ああ!」
ようやく思い出したらしい。
母は、ポン、と手を打ち、けれどもなぜか次の瞬間、ああ……、と目をそらしながら頭を掻いた。
困った時の母のクセだ。
「アレって、ルイくんの帽子だったのね……」
──とっても嫌な予感。
アレ、って何だろう。だったのね、ってなぜ過ぎ去ったことのように。
「まさか捨てたとか?」
別に通学帽に深い思い入れがあるわけじゃない。むしろ全くない。
でも、あれがないと学校に行けない。
ボクの学校は厳しいのだ、公立なのに。国の何ちゃら優良学校とかいうのに指定されてるせいか、よく言えば規律の整えられた、悪く言えば頭の固くて融通が利かない学校。
天気関係なく、行事も関係なく、毎朝校門には児童会のメンバと先生が立っていて服装のチェックを行っている。
言い訳は通用しない。
引っ掛かれば一ヶ月間の居残り奉仕活動。
「あー、いやいや、捨ててはないわ、」
旧校舎のささくれ立った木の廊下を一人寂しく雑巾掛けしている哀れな自分の姿を想像していたボクは、その一言でホッと息をついた。が、
「捨てなきゃかなと思ってたんだけど、でも、ちゃんと処理できていないのに捨てちゃダメだろって言われて」
ちゃんと処理できてない? いったい全体ボクの帽子に何をしたんだ?
何だかめちゃくちゃなことを言ってゴソゴソと肩掛けバッグの中を探る母にボクは軽いめまいを覚え、こめかみを押さえた。
「で、渋々持って帰ってきたんだけど。そっか、持って帰ってきてよかった……のかな?」
全く整理されてない肩掛けバッグの中から発掘されたのはクシャクシャになった茶色い袋。
この中にボクの帽子が入っているというのだろうか?
一見普通の袋に見えるけど、あやしい魔術紋様を模したテープがグルグルベタベタと、まるで開けるなと言わんばかりに貼り付けてあるのが物凄く気に掛かる。
「何、これ。この中にボクの通学帽が入ってるの?」
怖々受け取り、恐る恐る手触りを確かめてみる。
カサカサとした袋のその下は柔らかいフェルトの感触。
確かにボクの通学帽のような気がしないでもないけど。
でも、それだったら、この扱いはいったい何。
「袋とテープは念のための予防線で、とりあえず封はしっかりしているから袋は開けても大丈夫よ。もちろん被っても大丈夫なはず」
そう早口で言う母の顔は明らかに作られた不自然な笑顔。
開けたくない、被りたくない、できることなら。
でも、もう時間がない。
帽子なければ奉仕活動だけど、遅刻しても奉仕活動だ。
ボクは覚悟を決めてテープをはがし、開封した。
出てきたのは茶色いベレー帽。裏側に「ルイ・ティムス」と刺繍されたボクの通学帽。
見た感じ変わったところは特にない。そろそろと被ってみる。
被っても──どうやら大丈夫なようだ。
ためていた息を吐き出して、言う。
「大丈夫みたいだよ、母さん」
「……みたいね」
あぁよかったぁ、とあからさまにホッとする母。
「で、結局いったい何をしたのさ」
帽子が無事ならば問題ない。でも、こんな大袈裟な袋に入れられていた理由くらいは訊いておこうか念のため──そんな軽い調子で訊いた。
答える母も軽い調子で、
「封印具忘れちゃってね、その帽子のなかに魔王封印しちゃったのよ」
と、言った。
ボクの母の職業は傭兵。専門は魔術。主な仕事は魔物狩り。
業界では有名人らしく『ナロウ・ウォーターの漆黒の魔女』なんて通り名まであるらしい。
ボクの住んでいるこの近辺は人に危害を加える魔物の少ない地域だから、ボクは母の勇姿を生で見たことない。
けれども、以前母に伴われて訪れた中央大陸のセント・セシリアという国では、何でも長年人々を苦しめてきた古代竜という魔物を倒したとかで母は英雄扱いだった。
豪奢な馬車に乗ってひらひらと手を振る母を裂けんばかりの歓声で迎えた大波のような群衆。
右を見ても左を見ても人、人、人。
そんな光景にボクは、ゴミの日を間違えたり自治会費を払い忘たりして自治会長さんにしょっちゅう説教食らっている母の姿を彼らに見せてやりたい、と思った。
ボクの知る母は残念ながら英雄なんかではない。
英雄というのが事実というのなら異国でそうして活躍するそのしわ寄せがこちらにきているに違いないと思うほどに。
それとも母の狩る魔物というのは母のようなアバウトな人間にでないと対処できないのだろうか? たとえば、アミュレット代わりに持っていった息子の帽子に封印具がないからと言って魔王を封印するような──
「ルイ、新学期早々遅刻して一ヶ月旧校舎の掃除だって?」
「優等生クンなのに時々変にダイタンだよな」
「母親も変人だしな。やっぱり遺伝?」
始業式が終わったら今日はもう下校するだけ。
だが、母のシャレになっていない告白のせいでしばし人事不省となり結局遅刻したボクの向かう先は校門ではなく旧校舎。
面と向かって茶化していくクラスメイト達に一瞥をくれてやり、無言で教室を後にする。
──そう、異国での評判がどうであれ母はここでは変人として有名だ。
息子であるボクだって母は変人だと思う。
ここは少なくとも平和だからそもそも傭兵なんていう職業を生業としている事自体変わっているというほかなく、さらにやっぱりほとんどいない魔術の使い手というのも間違いなく偏見の対象となっているだろう。
加えて伴侶を持たない未婚の母であるというのも偏見に拍車をかけているかもしれない。
そんな人間の息子が平々凡々と暮らせるはずなんてなく、結果としてボクは自分でも驚くくらい逞しく育ってると思う。
先ほどのように茶化されることは日常茶飯事。
靴がなくなる、机の上に落書きされる、教科書が汚される、配布物が回ってこない等古典的なイジメも一通り体験した。
時に教師達からもいわれのないことで呼び出され罵詈雑言を浴びせられたりもする。
しかし、それらがまったくつらくないと言ったら嘘になるけど、ボクにとってはあの母の突飛な言動の方がよほど悩みの種。
頭の痛いことに今朝のような発言は珍しいことでも何でもない。
件のセント・セリシアの竜退治の時は、もったいなくて、と鱗や切り身の塩漬けを大量に持って帰ってきた。
鱗の用途は家庭ではまな板くらいしかなくて大量に余り、残りは異国の武具商人にお金を払って引き取ってもらった。
切り身の方は色々試してみたけれど、これが何というか大味でまったく美味しくなく、大半は腐らせて生ゴミに消え、残った塩漬け肉は薬商人にこれもやっぱりお金を払って引き取ってもらった。
もしかしたらジャコウの代わりになるかも、と瓶詰めにしていても吐き気を催すくらい臭い魔物の体液を持って帰って来た時は危うくご近所さんと法廷でこんにちは状態になりかけたし、キレイだから、と持ち帰ってきた魔鳥に寄生していたという親指ほどもある金色のノミはその翌日シャレになっていない量の子どもを産んでこれもやっぱりご近所さんと法廷でこんにちは状態になりかけた。
言ってしまえば今回はそれが魔王になっただけだ。封印してある分、体液やノミよりかはマシかもしれない。
しかし、帽子に魔王を封印した、って魔王って多分おとぎ話に出てくるような魔物の王だと思うんだけど、ンなもんがフェルトのベレー帽に封印できるものなのか?
頭の上に乗っかっている帽子に手をやってみるけど特に変わったところは、ない。
やっぱりフツーの、以前と何ら変わりのないフェルトのベレー帽。
そんな帽子に魔王を封印することができるほど母の腕はイイということか? もしくは魔王を名乗っていた魔物が大したことなかったか? それとも封印したというのは母の錯覚か?
帽子を撫でながらそんなことを考えて歩くうちに旧校舎に到着し、まぁどのみち実害がなければいいか、とあっさり結論付けて頭を切り替えて掃除道具が仕舞われた階段下収納を覗き込む。
「……うっはー、相変わらずカビ臭いなぁ~っ! もーっ!」
いつもなら毎月二、三人と一緒に奉仕活動しているのだけど、さすがに新学期早々から奉仕活動しているのはボク一人だけ、なのに思わず声に出してぼやいてしまうほど最悪な空気。
旧校舎自体滅多に使われることがないからか、何というかこうツーンと鼻を突くような臭いが漂っているんだけど、こういう奥まった場所は特にヒドい。
こんなにカビの臭いが立ち込めちゃうくらい使わないんだったらさっさと取り壊してしまえはいいのに、と今度は声にせずに喉の奥で呟き、帽子と外套を取って鞄と一緒に作り付けの棚に置く。
もちろん物凄くホコリが積もっているので教室から持ってきた乾いた雑巾で棚を拭いてから。そして、ロッカーから自在ホウキとチリトリを取り出し、まずは一階廊下の窓を全部開けて掃き掃除を。
奉仕活動期間は一ヶ月間。
毎月誰かしらが活動させられているわけで掃除する箇所は少ないと思いきや、実のところ旧校舎は新校舎よりも棟数が多く四棟もあり、尚且つ地上四階地下一階で階平均の教室数は十とこれまた多い。一ヶ月の間に一棟掃除できれば上出来だ。
先月は第三棟だったらしいから今月は第四棟。旧校舎の中でも普段最も人の立ち入らない場所。
それを知っていたから今月奉仕活動は何としてでも回避したかったんだけど、決まったものは仕方ない。
板目に沿ってホウキを動かすと舞い上がるのはホコリ。
一見灰褐色の廊下の灰色の要素が実は全てホコリだと知っている。
知っているけど改めて気付かされるこの瞬間がボクは嫌いだ。
さらにホコリまみれの乾燥した虫の死骸がところどころ落ちていたりして気分悪い。
ちなみに奉仕活動はこれが三度目だけど、慣れないものは慣れない。
とにかくさっさと掃いてしまおう。で、雑巾掛けが済んだら今日はもう帰ろう。どうせ一月あるんだし、廊下の窓拭きは明日でいいや。
マスクを持ってこなかったことを後悔しながらもさっさと廊下を掃いていく。掃くたびに溜まっていくホコリがおぞましい。
真ん中まで掃き進めたら今度は逆から掃いていく。
真ん中に集めたホコリは割と広範囲に渡り上履きのソールの高さくらいにはこんもりと盛り上がっていた。それにげんなりしつつ屈んで腰に引っ掛けていたチリトリにサッサッサッと掃き入れる。
次は雑巾掛け。ワックスのすっかり剥げた木の廊下は水拭き不要なのがちょっと嬉しいかな。と、雑巾を取り出そうとしてボクは気付く。
「……あ」
雑巾。棚の上に置きっ放しだ。荷物を置いた、あの作り付けの棚。
ボクは振り返ってため息をつく。
全然大した距離ではないけれど、すぐに取り掛かってさっさと帰ろう、と意気込んでいた分だけその距離は遠い。
ホウキとチリトリを置きに戻るついでだと思えば近いもんじゃないか、と言い聞かせてトボトボと取りに戻る。
イジメや濡れ衣はある程度予想できるから平気なんだけど、こういった悪い方向への予想外の展開ってへこんじゃう。
サッサと歩けば数秒も掛からない距離にもたっぷり時間を掛けて、そして、階段下収納の作り付け棚の上を見──ボクは、噴き出した。
ビックリしなかったと言ったら嘘になる。
でも、それ以上にその違和感炸裂な光景が純粋におかしくて。
作り付けの棚の上、見知らぬお兄さんが湯呑を手にちょこんと正座していた。
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