三、北鎮の乱


 破六韓抜陵の一揆勢が壊滅したのは、侯景とその一党が爾朱栄陣営に駆け込んだ年の翌年である。もっとも、この壊滅は北魏朝廷側の全面勝利を意味しない。叛乱側の強力な一派が潰えただけで、かわって各地に新たな一揆を誘発し、諸派乱立の収拾しがたい状況をもたらしたにすぎない。

 破六韓軍壊滅の報が伝わったのち、洛陽への伝令の帰路、高歓は北秀容へ立ち寄っている。爾朱栄に会うためだ。爾朱栄の軍団にはすでに侯景一党のほか、司馬子如・賈顕度・竇泰とうたいらが加入していた。

「そろそろ時節が到来した模様に思われます」

「わしにもそう見える。ならばかねての手筈どおり、東から仕掛けるか」

 将軍と伝令、ふたりの身分差は天地ほどの隔たりがあったが、爾朱栄は意に介さなかった。懐朔鎮政府で伝令を務めた六年間、高歓は足繁く爾朱栄のもとへ通い、親しく交流を重ねていた。それは洛陽であったり、北秀容であったりしたが、本音で政事を語る高歓に爾朱栄が注目し、やがて肝胆相照らす間柄となっていた。洛陽での遊学を終えた爾朱栄は将軍位を授かり、朝廷の高官として最高機密に通じていた。高歓のもたらす現場の末端情報と照らしあわせると、時局の動きが正確に読みとれた。

 河北は大行山をはさみ、山西の東側にある。北鎮諸族の叛乱軍が南下し、各地を荒らしている。河北の乱立状態を整理し、より強力な数派にまとめようと目論んだのだ。


「侯景らはいかがつとめておりましょうか」

「それぞれの持ち味に応じ、随処で働いてもらっているが、ことに侯景の武勇は群を抜いている。天性のものか、戦のたびに腕を上げている。軍略も確かで、危うげがない。いずれ一軍をひきいる将の器と見た」

「これは過分なおほめにあずかり、恐縮にございます」

 荒削りな野生児に書を読ませ社会性をもたせると同時に、軍略を身につける智慧を授けた。これはろう夫人の手柄である。

「まだ若い。道さえ誤らなければ、天下に覇を称えることも夢ではない。遠慮のう、侯景を連絡つなぎに使え」

 そういうと爾朱栄は、高歓に笑みを送った。侯景を引き合いに出して、たがいの胸中を確認したものだ。高歓は黙したまま、深々と頭を下げた。


 その年、孝昌元年(五二五)八月、鮮卑人で柔玄鎮兵の杜洛周ひきいる北鎮の兵が流民を糾合して、燕州上谷(河北懐来県)で決起した。勢力はのちに十万人を超える。上谷は北京北方七十キロ、万里の長城観光のできるいまの居庸関きょようかんに近い。この一揆に呼応し、高歓は懐朔鎮を出奔、同志とともに杜洛周軍に身を投じる。北鎮の乱が勃発して三年目に入っていた。

 ついでその翌年にはトルコ系といわれる丁零族ていれいぞくの末裔でもと懐朔鎮兵の鮮于修礼が、北鎮流民をひきいて、定州左人城(河北唐県西)で蜂起した。これものちに十万人を超える一揆となる。唐県は北京南方約百四十キロ、保定の西方四十キロほどのところにある。

 一揆を鎮圧するため、朝廷は救援の大軍勢を差し向けたが一揆軍の勢いは止まらなかった。かえってふたつの一揆軍を刺激し、両者を連携させる結果になった。政府軍が南北に兵力を分散させられ右往左往するなか、連携した一揆軍はたがいに呼応しあい、みるまに河北の多くの州県を襲撃し、占拠した。


 このころ高歓は、杜洛周の軍中に身をおいている。

 同志の段栄・蔡俊・尉景らが行をともにしていた。尉景は年少時の高歓を引き取ってくれた恩人ともいうべき姉婿、義兄である。

 高歓らが杜洛周軍に身を投じたについては、思惑がある。山西を固め、華北の天下をうかがう爾朱栄との間に密約を交わしている。爾朱栄の陣営に参画するに際し、事前に河北の動静を探り、直近の情報をもたらすことだ。あわよくば、一揆勢のいずれか一派を乗っ取り、爾朱栄への手土産にするつもりでいる。

 当初、六鎮で兵を集め河北で蜂起したのは、杜洛周と鮮于修礼の一揆軍だった。先行したのは杜洛周の方で、半年遅れた鮮于修礼は、翌年に蜂起している。この蜂起を待たず、高歓は杜洛周の側についた。杜洛周軍を与しやすしとみたからだ。

 高歓の判断はなかば正しく、なかば誤っていた。

 杜洛周は一揆を煽動し成功させはしたが、そこまでの男だった。基本的に指導力を欠いていたから、数万の現有勢力を維持するだけで精一杯で、組織をまとめ、拡大発展するほどの展望をもっていなかった。それがさらに十万という大軍にまで膨れ上がったのは、自己の力量によるものではない。敵失、北魏の失策に乗じたまでといっていい。例の、河北に強制移住させられた破六韓抜陵軍の投降兵を引き入れたのだ。これがなければ、膨張するまえの弱小な地方一揆軍の首領で満足する狭量な杜洛周とその指導者集団にすぎない。

 ただしそういうタイプにかぎって、自己の身を保全する嗅覚は鋭い。

「あやつらどうも、うさんくさい」

 新たに加入した高歓一派の動きが、目立って活発なのだ。

 もともと一揆の発端は食糧の枯渇にある。飢饉の年、備蓄した穀物の大半を北から侵入した柔然に掠奪され、飢えた北鎮の民は一揆のむしろ旗を立てて河北に移動し、農民や豪族から食い物をとり漁った経緯がある。

 年貢を納めたあとの疲弊した農村に、他人を食わせる余裕などない。隠していた翌年の種もみまで万余の群集に食い散らかされたあとの田畑は、さながら蝗の大軍に襲われた廃墟にひとしい。一揆勢に通過された村落は文字どおり、無人の郷となる。食い物を奪われた村落の人々もまた村を棄て、一揆勢に紛れ込むからだ。

 これでは、人の営みは再生できない。

 高歓には貧しい民の気持ちが汲める。かつて貧しかったころのじぶんを思い出せばよい。

「貧しいもの同士が食い物を取り合ってどうする」

 そういって嘆息する侯景少年の姿が、瞼のうらに蘇える。

「襲うなら政府の穀倉だ」

政府の穀物備蓄倉庫は戦時に備え、要所ごとに設置され、地下に埋められている。地下は自然の乾燥倉庫なのだ。とうぜんそのありかは機密扱いで、簡単に知ることはできない。

 しかし、日の出の勢いで北魏政府の要職を駆け登る山西の実力者爾朱栄であれば、東隣河北の地方官に渡りはつく。秘匿する場所を聞き出し、高歓に情報を流すだけでよい。

 もとはといえば、じぶんたちのものではないか。じぶんのものを取り戻すのに、遠慮はいらない。高歓は一揆軍中の一派をひきい、急襲する。飢えた群集が穀物を求めて殺到するのだ。まるで勢いが違う。防御の兵は槍を放り出して逃げるしかない。

 これが二、三度つづくと、食い物欲しさに人々は高歓の周りによってくる。やがて、杜洛周に耳打ちするものが出てきて不思議はない。

「やつら、おれたちを乗っ取るつもりだ。いまのうちに消してしまえ」

 じぶんならそうすると容易に察しがつくから、決断も早い。高歓の側に、杜洛周軍乗っ取りのシナリオが完成するまえに、粛清されかねない状況に陥った。刺客が放たれ、追撃の軍勢が出動したのだ。よしみを通じた幹部の忠告を受け、高歓は計画を放棄した。

「逃げる」

 直感が働く。事態は急を告げているから、一刻の猶予も許されない。いわば着の身着のまま、危うしと見るやきびすを返し、もう馬に飛び乗っていた。かわり身も芸のうちだ。

 家族を連れている。男児を抱いた婁夫人が、牛車に乗ってあとに続いた。さきを行く高歓はいくども騎馬の足を止め、夫人とこどもを待たねばならなかった。ことに腹立たしいのは幼い高澄こうちょうだ。しっかりつかまっていないから、揺れる牛車から落ちてしまう。それを夫人が車を止め、降りては拾い上げる。よけい時間がかかる。

 高歓は気が急いている。まともな神経ではない。いきなり弓を引き絞り、牛車から落ちた高澄に本気で矢を向けた。

「お待ちください。あなた、撃たないで」

 驚いた婁夫人が叫び声をあげ、両手を広げて矢面に立ちふさがった。うしろから段栄が駆けつけ、覆いかぶさるようにして高澄を抱き上げた。段栄もまた死さえ恐れぬ、高歓の得がたい同志だ。婁夫人の姉の夫にあたる。高歓は気を取り直し、弓を収めた。

 侯景の義理の妹娃娃が一行に加わっていた。侯景が爾朱栄陣営に身を投じたのちも婁夫人に気に入られ、行儀見習いで夫人にしたがっていた。幼かった子がいまでは高歓の女児の手を引いて、世話を焼けるまでに成長していた。

 追手の刺客が騎馬で迫っていた。二頭いる。

「殿さま、早くお逃げください」

 娃娃は声を振り絞り、背にした弾弓だんきゅうを手に取り、追手に向けた。弾弓は、はじき弓ともいう。矢のかわりに小石や丸めた粘土を弾くY 字型の小弓―ぱちんこのことだ。小型軽量で女児にでも引けたから、侯景は幼かった娃娃にこれを手ほどきし、護身用としてもたせていた。

 娃娃は追手の眼を狙って、続けさまに弾弓をはじいた。おとこたちは覆面で顔を覆っていたが、眼だけは覆えない。娃娃の正確な狙撃は、おとこたちの眼を射った。追手の刺客は絶叫を上げて、奔馬から転げ落ちた。

 そこへ前方から味方の一派が駆けつけ、ようやく一息つくことができた。ほどなく敵方の軍勢も追いついたが、遠巻きに見守るだけで、攻撃しようとはしなかった。きのうまでの味方同士だ。ましてや高歓を信望する人は多い。すでに誼を通じた幹部同様、高歓の共鳴者シンパとして、暗黙のうちに将来の合流を約して、兵を引いたのだ。


 一揆は各地で頻発している。離合集散の繰りかえしのなかで流動的ではあるが、地域ごとに支配権――一種の縄張りが確立している。一揆同士でも人の縄張りを通過するときには、それなりの仁義を切らなければならない。それを怠ると、進路を妨げられたり、襲撃されたりする。それならいっそのこと全員投降して、丸ごと吸収されるのが一番手っ取り早い。高歓は兵糧を手土産に、ゆく先々で投降し、敵意のないことを見せたうえで、諸派合流の説得工作をおこなった。


 この一揆に鮮卑人でもと懐朔鎮将の葛栄かつえいが参加していた。やがて葛栄は、内紛で殺された鮮于修礼にかわって一揆勢の一方の首領となり、叛乱軍全体の主導権を握ることになる。葛栄軍に吸収されなかった残党は自然消滅するか、爾朱栄軍に討伐された。

 かつて鎮将をつとめたほどの葛栄は、同じ懐朔鎮でも一兵卒にすぎなかった鮮于修礼とは比べものにならない戦のプロである。素人集団の一揆軍をまともな軍隊に叩きなおすには、またとない逸材といえる。事実、葛栄ひきいる叛乱軍は戦うごとに破壊力を増し、質的にもめざましく向上する。


 高歓の次の標的は、鮮于修礼のあとを受けた葛栄の一揆軍だ。

 すでに葛栄は天子を自称し、大斉国を建国、治所を冀州信都においている。信都は北京の南方約二百七十キロの位置にある。

 杜洛周軍を離脱した高歓一行は、信都目指してひたすら南下した。その途次、遭遇する一揆勢にたいし、葛栄軍と合流あるいは盟約することを説得して、一揆の一本化を工作した。ほとんどが小規模な地域勢力だったから、大方は庇護者を求めて説得に応じた。いずれ葛栄軍に参加できるよう調整することを請合い、再会を約して別れ、懐朔鎮以来の同士だけでさきを急いだ。まれに独立を主張する勢力もあったが無理強いはせず、行く手をさえぎられた場合のみ、爾朱栄軍団の侯景に通報し、内と外からの攻撃で、強行突破した。

 高歓の一行は、できるだけ少ない人数で各地を駆け抜けたが、葛栄の軍営にたどり着いたときには千名をかぞえていた。さらに葛栄軍に合流することを望んだ地方勢力は万余を超えていた。これに河北政府の備蓄穀倉から分捕った糧食をつけたから、加入を拒まれるはずはない。葛栄は新来の高歓を上機嫌で迎え入れた。

 河北は当時、複数の州に分かれていた。いまの北京の周辺一帯が幽州、その北西部に燕州、幽州の南に瀛州と冀州が縦に並び、その西に定州が位置していた。そして六鎮の東端にあたる懐荒鎮は、燕州の北、長城の外側になる。

 河北は六鎮の東端に連なり、黄河の下流で山東と国土を分けていた。

 いまや葛栄の威風は河北に鳴り響いていた。

 いくどもいうようだが、葛栄はかつて懐朔鎮の鎮将をつとめたほどの武将だ。せいぜい小隊主どまりの高歓とは、やはり格が違う。儀礼上、高歓は辞を低くして葛栄に面謁した。

「ご高名はかねてよりお聞きしております。六鎮はもとより、河北一帯のすべての民は、新たな天下の到来を渇仰し、優れた天子のご降臨をいまや遅しと待ち焦がれておりました。不肖高歓、微力ながら閣下のお膝元にて一臂いっぴのご助力いたしたく、馳せ参じたしだいにございます」

 見え透いたお世辞だが、葛栄の自尊心をくすぐるにはじゅうぶんだ。

「そうか、懐朔鎮で守備小隊主をつとめておったか。一軍をひきいての投降、殊勝である。わしがもとで働けば、一国一城も夢ではない。悪いようにはせぬで、懸命に励め」

 幾多の経書を読み、諸国の事情に明るい高歓を、その場で参謀に抜てきした。周りに阿諛追従の徒輩はいても、ときに諫言を弄する忠臣も、天下取りに智謀を図る策士もいないと見える。巧言令色で飾られた虚妄の玉座に天子気取りで君臨し、天下を取ったつもりで舞い上がっているあたり、葛栄も杜洛周と五十歩百歩だ。

 高歓は、わがことなれりの感を強くし、葛栄を手の内で転がす算段をめぐらした。


 戦はなおも続いている。北魏政府も手をこまねいて黙って見物していたわけではない。西のオルドスで破六韓抜陵の一揆軍を壊滅した広陽王元淵を東へ移動、大都督に任命して葛栄軍にあたらせた。しかし葛栄軍は政府軍を撃破し、生け捕った元淵を殺害した。

 勢い付いた葛栄は、河北の世家大族と地方豪族を王や将に任じて仲間に引き入れ、民衆にたいしては虐殺を加えた。驕りが頂点に達し、敵味方の見境がつかなくなっていた。

 滄州(河北塩山西南)を攻めたときは、殺されたものの十中八、九は居民だった。冬のさなか信都を襲ったさいは、住いを追われた居民の十に六、七が凍死した。一揆勢同士の決戦で、武泰元年(五二八)二月、葛栄は杜洛周めがけて進攻し、杜洛周とその部族民を殺した。

 ――守るべきは無辜の居民ではないか。同じ一揆の仲間同士で殺しあってどうなる。

一揆軍戦士のなかに素朴な疑問とやりきれなさが残った。

 杜洛周の残党を吸収し、葛栄は一揆軍百万と豪語していたが、しだいに葛栄の人望は地に落ち、求心力は衰えてくる。


 葛栄を河北のにわか天子に祭り上げ、はだかの独裁者に仕立て上げたのは、葛栄本人の資質にもよるが、高歓が仕向けた部分も多い。

 まず高歓は、故意に葛栄の周囲から、わりとましな人材を遠ざけた。きわだって有能な人材はいなくても、そこそこ能力のある人物はないでもない。かれらは、見かねてときに諌言する。葛栄にとっては、耳の痛いはなしが多い。葛栄が疎んじたころあいを見計らって、遠まわしにその人物の短所を誇張して吹聴しておくだけでいい。しぜんに遠ざけられ声がかからなくなるから、やがてその人物は諫言もできなくなる。残った凡庸な取り巻き連中がこれ幸いと、ことあるごとに耳当たりのいい思いつきや場当たり的な方策でその場を凌いでいれば、やがて各所で矛盾が生まれ、破綻が露出する。

 問題が発生しても、はじめは葛栄の耳には入らない。いずれ知ることになっても、善後策を講じるころは、とうに時機を逸している。これを高歓は傍観した。まさに不作為犯だ。

 食糧の配給に不正のあることが露見し、一揆内一揆が勃発した。風紀が乱れ、陣営内部で個人間の争いなど不祥事が日常化した。人事が停滞し、幹部の僭称が横行した。軍律が厳格さを欠き、勝手に軍を動かして近在を掠奪する部隊があとを絶たなかった。戦費の横領が公然と行われ、有力幹部が関わっていれば、摘発しても処罰できなかった。

 無為無策で来た結果、その付けが一気に噴き出した。似非えせ政権の末期症状だ。

 さらにここへきて高歓の説得工作が功を奏し、各地の一揆勢が続々と葛栄軍に合流した。ひっきりなしに続く投降者の数は多く、いまや葛栄軍は豪語した百万を超える勢いで膨張していた。新旧の将兵間で序列争いが起こり内部抗争にまで発展し、調整役は頭を抱えた。

 不穏な動向は葛栄にも伝わっている。暴発してからでは遅い。

 むしろ外へ向けて爆発を誘導すればよい。葛栄は誇らしげに宣うた。

「北魏にかわって、天下を取る!」

 矛さきを洛陽に向け、北魏朝廷との全面戦争を宣告したのだ。


 お膳立てを済ませた高歓は、この時期には葛栄の陣営を抜け、爾朱栄の軍団に加わっている。葛栄の側近くにいながら、あえて不作為を貫き、葛栄の権威を失墜させたのは高歓の深謀遠慮だった。さらには高歓無能の批判を葛栄の耳に吹き込んでおいて、円満裡に葛栄陣営を離脱したのだ。

「臣下としてなすべき建白もせず、いたずらに俸禄をむさぼるだけという無為無策のやつがれが、これいじょう陛下のお側近くにおりましては、尊い御名を汚すばかりにて、あわせる顔もありません。かくなるうえは北鎮に帰って、万民に陛下のご威光をあまねく教え諭し、皇恩にお報いしたく存じます」

 抜け抜けといったものだ。

 葛栄は高歓の真意も実力も知らない。惜しげもなく、離脱を許した。


「杜洛周の一揆勢を打破し、河北は葛栄軍に一本化されました。あとは一気呵成に葛栄を葬り、百万の一揆勢をわが陣営の堡塁に用うれば、天下の趨勢はわが方になびきましょう」

 久しぶりの対面だ。爾朱栄をまえに高歓の舌は滑らかだった。

「思えばおぬしも恐るべきやつよのう。三年にして、当初の目論見を実現しおったわ」

「なに、閣下の後ろ盾があればこその陰働きでございます」

 洛陽を北の東西から攻める。三年まえの共同謀議だった。地元山西はほぼ手中に収めた。ここで河北を押さえ、天下の趨勢を一挙にかえる。そのためのお膳立てに他ならない。

「葛栄が、杜洛周の勢力をあわせ総勢百万とうそぶいているらしいが、実態はどうじゃ」

「つかず離れずの流民を加えれば、百万はあながち虚言とも申せません。しかし、数は力なりと頼むただの寄せ集めであり、それぞれ手前勝手な思惑だけが先行する烏合の衆の混成部隊なれば、恐れるにたりません。葛栄ひとり討ち取れば、やがては内側から瓦解し、雲散霧消いたしましょう」

 爾朱栄の懸念を、高歓は一刀両断した。戦は数ではない。そういい切るだけの根拠が、高歓にはある。

「せっかくの大軍である。雲散霧消ではいかにも惜しい。形あるままわが陣営に引き込み、天下に爾朱氏軍団の雄偉を示さねばならん」

「その策はすでに侯景に授けてあります」

 高歓は常にさきを読んでいる。


 その侯景である。

 四年まえ、爾朱栄軍団に裸で飛び込んだ侯景は、山西を振り出しに、華北の大地を駆け巡り、各地の一揆を叩き潰していた。ひとつ道が違えば一揆群に加担していたろうが、いまは官軍である。働くべきところを得た朔北の狼は、喜々として躍動した。

 また、その一方で迷いも生じた。

 北魏の国境を侵すものが敵であることは、まったく疑いの余地がなかった。むかしと同じように突撃し、追いまくればよい。ところが一揆勢については事情が異なる。ついつい北鎮時代を思い出し、同情がさきにたつ。ろくな武器も持たず、へっぴり腰で木や竹の棒を振り回す一揆勢にたいしては、蹴散らしはしても、殺傷することは躊躇された。

 そこでひそかに人を遣り、一揆側にいる高歓に対応策を糾してみた。高歓は明快な答えをかえした。

「一揆は朝廷にたいする謀反だから、捕まればはりつけ獄門は覚悟しなければならない。好きで一揆をやる百姓ひゃくせい(人民)はいない。喰うに困り、行き場がないから、死ぬつもりで参加している。だから本気で当たれば、必死に抵抗する。戦えば双方に甚大な損害がでる。無益なことだ。では、戦う以外に打つ手はないか。試みに一椀の粥、一個の饅頭マントウを用意し、差し出してみよ。棒を放り投げ、諸手をひらいて駆け寄ってくるに決まっている。かれらにしてみれば、食い物さえあればなにも戦う必要はない。黙っていても一揆から抜ける。飯が喰える仕事をあたえれば、一揆は止む。おまえがむかし喧嘩を売って飯の種にしていたことを思い出せ。あの喧嘩が一揆だ」

 侯景は納得した。それ以後、戦の形態かたちをかえたのだ。

 一揆軍をまえにして弓矢刀槍を引っ込め、粥の炊き出しをした。戦の最前線でめしのにおいが漂っている。腹をすかせた一揆側の小者雑兵は武器を放り出して、粥のまえに殺到した。喰い終わったものはもとの陣に戻らず、侯景の陣に救いを求めて駆け込んだ。

 たまらず、軍馬に乗った将士がまえに出て姿を見せれば、遠慮はいらない。雨あられとばかりに、弓矢の洗礼を浴びていただくことになる。もっとも、たいていはそのまえに総崩れで、退却するか、降参している。

 引き取った一揆の投降者は、爾朱栄の農牧場に送る。爾朱栄は文句ひとついわず、すべてを受け入れた。爾朱氏の勢力は山西全域におよんでいる。自家農牧場だけでなく、田畑の開墾にも取り組んでいた。どの地域でも人手が払底していたから、拒むはずがなかった。

 若くて元気のいいのは兵士として戦場に戻すばあいもある。飯が喰え、立身の機会があたえられるから、若者は喜んで戦場に戻り、「神弦手」侯景の軍に加わることを望んだ。

 その一方で、田を耕し、家畜を世話することに喜びを見出すものも多い。ひとりではできない仕事も、集団でかかれば弾みがつく。飢饉に備え、灌漑施設を設け、備蓄を怠らなければ、明日への展望が開ける。

「侯景よ、人手はいくらあってもかまわん。田を耕すにも、道を作るにも、家を建てるにも人手は必要だ。集めてこい。百万が二百万であっても、これで足りるということはない」

 爾朱栄は豪快に笑い飛ばした。

「いずれ天下分け目の大きな合戦が起こる。おぬしの出番だ。真っ先駆けて敵を蹴散らし、わが軍を勝利に導くのだ」


 爾朱氏の祖先は山西西北部の爾朱川付近に居住し、爾朱を氏とした。契胡族の部落を領有する酋帥、つまり酋長だった。

 ちなみに契胡族というのは、実はよく分からない。匈奴の分派とも、羯族の支流ともいわれるが、皮膚白皙・容貌俊美という爾朱栄と、深目・高鼻・多鬚などとむさ苦しいイメージの羯族侯景とを近似の種族とみるには難がある。ともに西方系の混血ではあろうが、その濃淡の差が子孫におよんだものか、あるいは単に個別の変異にすぎないのであろうか。

 ともあれ爾朱栄に見出された侯景は、爾朱栄を神のごとくに敬った。


 曽祖父の爾朱羽健のとき、拓跋たくばつけい(のちの道武帝)にしたがって北魏の建国に貢献し、領民酋長に任ぜられた。帝室の外戚になった時代もあり、領地は広大で、牛羊駝馬は種別に群れを作り、谷の数で数えるほどの多さだったという。孝明帝のとき、父爾朱新興から領地と爵位を引き継いだ青年爾朱栄は、生まれながらの貴公子といっていい。財力と身分に恵まれ、おおらかな性格で文武両道に秀でていた。吝嗇でなく、財を散じて人を募るすべを知っていた。人材を抜擢し、適材適所に登用することに長けていたから、おのずと人望が集まった。やがて高歓・宇文泰・侯景という、次代を担う英傑が配下に連なる。

 晋陽(太原)を根拠地にして爾朱氏四千の騎兵をしたがえ、長城の南北で叛乱軍を駆逐し、山西随一の勢力となった。連戦連勝、戦って負けることを知らなかったから、朝廷はかえって恐れ、へいふん・唐・恒・雲、山西全六州の諸軍事都督に任じた。山西に封じ込める意図だったが、平北・安北・鎮北と将軍位を歴任し、五二六年、鮮于修礼の一揆軍を討って、征東将軍・右衛将軍に進み、大都督となった。

 しかし祖先を敬い、遊牧民の習俗に愛着をもつ領民酋長爾朱栄は、軟弱な漢化鮮卑貴族の風を嫌い、武張った北人気質にこだわった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る