異聞南北朝 逢魔ヶ刻

ははそ しげき

一、朔北の狼


「おれは狼のように獰猛どうもうで、人に恐れられる悪漢おとこになりたい」

 少年のころ侯景こうけいは、狼への化身願望を隠さなかった。

 凶暴な狼は、ときに孤高の勇者を思わせる。世間を敵視し、這い上がろうともがいた少年時代、善悪を問うまえに、ひたすら強くありたいと願い、認められるために暴れた。

 のちに人々は、侯景を朔北さくほくの狼と渾名あだなする。

 狼の名に違わぬ、凄まじい行為をやってのけたからだ。

 わずか十三歳の少年が大のおとなと弓で決闘し、相手を射殺したのだ。まぐれではない。

 おとな同士なら異論のない堂々の果し合いとして、語られていたに違いない。

 相対し、故意にひと呼吸遅れて射った侯景の矢は、相手の矢を宙で落としたあと、おとこの首を真正面から貫いていた。確信をもって放たれた冷静な矢筋だった。

「よもや、こどもの所業とも思われぬ」

 検分した軍鎮の役人は、その手並みのみごとさに唸った。

 相手のおとこは、上司ともいうべき組頭だった。いや正確には、侯景は正式な配下ではなかったから、上司というにははばかられる。配下にするには、侯景はまだ年齢が不足していたのだ。

「こどもに挑まれて喧嘩のすえ射殺されたでは、申し開きができぬ。はて、どうしたものか」

 役人は一件の始末に、頭をかかえた。

 当の遺族にしてみれば、ことの発端は侯景の逆恨みにあるとしか思えない。とんだとばっちりで、家督を召し上げられてはかなわないから、不意打ちだったと抗弁した。

「身寄りのないこどもに勢子せこという山狩りの仕事を与え、普段からめんどうを見てやっている。感謝されこそすれ、恨まれるいわれはない。だから油断した隙に、射殺されたのだ。じぶんの勢子が追った山鳥を、わがものにしてどこが悪いか。逆恨みにもほどがある」

 せいぜい、これくらいの認識しかもっていない。

 一方の侯景には、獲物を不当に横取りされたという恨みが根底にある。戯れごとではない。生活のかかった貴重な収穫なのだ。

 じぶんで追って捕えた獲物ではないか。しかも無傷で生け捕っている。宙を飛翔する鳥の羽を縫って射落としたのだ。だれにでもできる芸当ではない。

 ただし矢を射る資格は与えられていなかったから、捕えることはできても、じぶんで射ったとはいえない弱みがある。そこをつけこまれたと思うと、なお悔しさがつのる。


 勢子の仕事は経験と勘がものをいう。おとなに交じって山狩りの仲間に加わり、山中深く野鳥を追うのだ。おとこたちはマタギとか山立やまだちとかの狩猟民ではない。朔北の地、北魏の懐朔鎮かいさくちん(内蒙古 包頭バオトウの西北)のれっきとした国境警備の兵士なのだ。さまざまな部署の兵士が軍鎮防備のあいまに、軍事訓練を兼ねて山狩りをおこなう。遊びではない。実用にもとづいた正規の訓練だ。乏しい食糧事情のなかで山鳥の肉は貴重な栄養補給源だったし、羽毛は矢羽に欠かせず、防寒着や装飾の素材としても有用だ。なにより希少価値のある山鳥だと金にかえられる。矢傷をつけず生け捕りにすれば都で高く売れることを、こどもながら侯景は知っていた。

 侯景は両親を早くに亡くし、親戚中をたらい回しにされたあげくに放り出された孤児だった。頼るさきもなく乞食どうぜんの姿で、野良犬と食い物を奪い合って生きてきた。

 六世紀初頭、北魏の最北端に位置する辺境の地だ。似たような境遇の子はいくらでもいたから、ことさら哀れむでも悲しむでもなかった。

 ぎゃくに、なついてすがってくる幼い孤児たちを、実の弟妹のように助けていた。

「じぶんで生きることを考えろ。おれの荷物になるな。荷物になるようなら、棄てるだけだぞ」

 悪態はついても、けっして見棄てたりはしなかった。わずかな食べ物を分け合い、肩を寄せ合ってしのいできた。とにかく、じぶんのことだけにかまけている暇はない。ことの良し悪しを考えるまえに、その日の食い物、冬を越す衣服、雨風氷雪に耐える住まいの確保が優先した。生き延びることだけを本能で探り、必死になって日々を過ごしてきた。

 それができなければ、野垂れ死にするよりしかたなかった。霜の降りた朝など、鎮のあちこちで凍死した孤児や老いた乞食の死体が転がっているのが見受けられた。明日はわが身と思うまえに、生き抜くことだけを考えた。

 北鎮の住民に、こどもだからといって容赦するだけの余裕はない。誰もが一様に貧しく、わが身と家族を守るのに汲々としていた。人の家を覗いただけで、こそ泥か疫病神でも見るように追い払われた。そうなるようにしたのは、自分ではないにせよ、同類の仲間たちだ。事実、人がいないと分かれば忍び込み、食い物でも見つけようものなら、しぜんに手が出た。見つかれば死ぬほど打擲ちょうちゃくされるのは分かっている。しかし空腹を満たす欲望は、観念的な常識を抑えきれない。ひと目がなければ、もう口に入れている。条件反射に近い。思慮できる余裕があれば、懐にしまう。幼い孤児たちに分けるのだ。

 街なかを追い払われたら、鎮の外に出るしかない。山野を駆け回り、野生のきのこや果実を採り、鳥獣を捕える分には遠慮はいらない。弓を射ることを自得し、植物の毒の有無をからだで覚えた。獣の習性を知り、季節ごとに変化する植生の特徴を頭に入れておけば、生物の生態が少しずつ理解でき、やがてそれらの生長や動きが手に取るように分かってくる。野馬を馴らして乗ることを覚えてからは、行動範囲がより広くなり、軍鎮内外の広範な地勢に通暁するようになっていた。

 口を聞いてくれる人がいて、侯景は山狩りに加えられた。勢子の助手(すけて)である。使えると見て、組頭が自分の組にひき抜いた。

 勢子は巣を見つけたり、鳥や獣を狩り出したりする役回りだが、はじめは勢子ともいえぬ身分だから、たいそうな待遇が与えられるはずはない。それでも一日走り回れば、穀粉や干肉など数日分の食い物にありつける。こどもの駄賃とすれば、妥当な相場といえる。

「寄る辺のないこどもで憐れと思えばこそ、山狩りのつど声をかけてやっている。それだけでもありがたいといって感謝するのが筋だろう」

 そう思う組頭に悪気はない。ふつうのこどもなら、通る理屈だ。

 しかし侯景は、じぶんをこどもとは思っていない。ましてや憐れみなどは最初から拒否している。いまの実力を正当に評価してもらえればそれでよい。力がなければ、あきらめもつく。それなのに、おとなに負けない働きをしても一人前の狩猟者として認めてもらえず、獲物だけは横取りされる。理不尽なあつかいを受けているという不満だけが鬱積する。

 明らかに捕獲する獲物の数が違うのだ。ひとの倍は捕まえる。少年ながら、侯景の勘と経験は並みの勢子の能力を越えている。隠れて射る弓の腕は、軍鎮でも一、二を争う水準に達していた。


「隠れてではなく表立って、おれも射ってみたい」

 弓にかけては自負がある。自己顕示欲も芽生えている。

 あるとき一緒になった若い小頭に頼み込んだ。

「鳥を射ったことがあるのか」

 小頭は、侯景にいちべつを投げかけ、おもむろに口をひらいた。

「ある。鳥だけじゃない。狼だって殺したことがある」

「狼だと。いいかげんなことをいうな」

「嘘じゃない」

 小頭は、あらためて侯景に向きなおった。

「弓を見せろ。矢もだ」

 侯景は、肩にさげた弓と矢を外し、小頭に差し出した。持つだけは黙認されているが、射ってはならぬと堅く釘を刺されている。山狩りで下手な小者が射ると、かならず外し、せっかくの獲物が遠くに逃げてしまうからだ。

「この弓が引けるのか。かなりの力がいる。どこで偸んだ」

 強弓といっていい。侯景の背丈は並みの子よりは大きいとはいえ、こどもはこどもだ。こどもが持つには、やや無理な大きさに思える。

 矢は精粗長短ばらつきがあり、揃っていない。

「偸んだのではない。戦場で手に入れた。丈夫なのを選び、おれがじぶんのものとして使い込んである。鳥でも獣でも狙った獲物はかならずしとめてきた。矢はそのつど補充しているのでばらばらだが、どんな矢でも選ばずに的を射止めることができる」

 軍鎮の砦の外はすべて戦場だ。大きな戦闘の直後だと、人馬が移動したあとの合戦場は片付けるものもなく、残骸は放置されたままになっている。半日ほどおいて、近在から専門の始末屋が集団で押しよせ、旗指物に槍刀や甲冑・衣服など、二次使用できるものは洗いざらい拾ってゆく。かれらが来る前に物色しないと、ろくなものは残っていない。

 直前まで人が殺しあった阿鼻あび叫喚きょうかんの巷をうろつくのは、かなりの度胸がいる。人魂ひとだまが行き場を求めて浮遊している。からだのそこかしこに血の臭いがこびりつく。断末魔の呻き声が耳に焼きついたまま、いつまでも離れない。傷ついて動けないものが、助けを乞うて足に取りすがる。

 それらを蹴散らして、ようやく手に入れた弓であり、矢なのだ。

「試しに射ってみろ」

 小頭はあごをしゃくって、前方の木陰を示した。

 巣があるらしい。親鳥が二羽、危険を察知し、羽をばたつかせて狂ったように鳴き叫んでいる。

「小さい鳥だ。腹の足しにならん」

「ならば、生け捕ってみせろ」

 小頭のことばの終らぬうちに弦を弾く響きを残し、侯景はもう前方へ駆け出していた。

 空中から二羽の小鳥が落ちてくる。矢風のショックで仮死状態になっている。頭上で受け止め、嘴から息を吹き込むと甦生する。それを放り上げ、ふたたび空に返してやる。

 二羽ともさきを争って、巣に戻っていった。

 無益な殺生はしない。野生児は自然の摂理に通じている。

「いい腕だ。十五になったら、おれの隊に入らんか。おれの名は高歓という」

 均田制の実行で、十五で成丁になれば授田される。晴れておとな扱いされるのだ。

「おれは侯景だ。十五まで待たんでも、もうおとなだ」

「知っている。評判の悪がき、いや役には立つがきかん気の小僧だとうわさは耳にしている。おれは鎮政府から小さな守備隊をひとつあずかっているが、十五以上のおとなでないと、召抱えることができない決まりだ。だから、それまで待て」

 戦乱のなか、半生を共に生きたふたりの、これが出会いの始まりだった。


 高歓は侯景より七つ年かさの二十歳になる。祖先は鮮卑族の北魏政権に投降した漢族で、祖父の高謐こうひつが罪を得て懐朔鎮に配流されたというが、知れたものではない。高歓の代にはすっかり鮮卑化しており、高歓自身「賀六渾がりくこん」という鮮卑風の名をもっている。ことばもそうだが、状況に応じて胡漢を使い分けているから、本人にも真偽のほどは定かではない。父母を早くに亡くしているのは侯景とおなじだが、幸いなことに姉がいて、その嫁ぎ先の尉景の家に寄宿できた。どちらかといえば、運に恵まれている。

 先年結婚し、一家をなすと同時に守備小隊の隊主に封じられた。隊主といっても最下級の軍官にすぎない。隊という以上、隊員をおいて一定の組織を作らなければならないが、俸給が低いから、高給取りはおけない。眼をつけたのが生り立てのおとなだった。勢子のなかには候補になりそうな若手が大勢いたから、毎回、山狩りには積極的に参加し、獲物より人を物色していた。


 高歓は侯景を一人前の射手として認めてくれたが、世間に認めさせるにはまだ二年かかる。それまでは、じぶんのとった獲物でも、自由にはできない。

 組頭に頼んでもむだなことは、承知している。

「こどもがなにをいうか」

 と相手にしてもらえず、よその組へ移りたいといっても、

「小僧はわしの勢子だ。わしのもとで励めばいい」

 歳が足らないことを理由にすれば、一人前あつかいしなくても組の仲間うちで非難されることはない。口にこそ出さないが、組頭も侯景の実力は内心認めている。確実に成果をあげる侯景を手放すはずがなかった。

「悔しい」

 侯景は高歓に訴えたが、高歓にも手出しのできる相手ではない。

「あいつと決闘してもいいか」

 思いつめた口調で侯景はつぶやいた。

 恐るべき発想といっていい。こども同士の喧嘩とは違う。決闘というからには命の保障はない。ましてや相手はただのおとなではない。歴戦の古強者として知られた組頭だ。当のおとなですら、しり込みするほどの実力者なのだ。

 それこそ悔し紛れに口に出したこどもの思いつきで、まさか実行するとは思えなかった。だから高歓はまともには相手にせず、ただ決闘の心得を説くにとどめた。

「弓で立ち会うか。こどもだからといって手加減はない。だからといって、後ろからの不意打ちはいかん。正面から堂々と挑んだ結果なら、負けてけがをしても評価される救いがある。たとえ殺されても文句はいえないのだぞ。よく考えてから立ち会うことだ」

 こどもとおとなのまともな試合だ。たとえ勝ち目がなくとも、卑怯といわれて恥の上塗りをすることだけは避けろ。高歓は侯景に決闘の厳しさを教えたつもりでいる。

「やめておけ」

 というのは簡単だが、思いつめた侯景には逆効果でしかない。

 日が落ち、叢林は黄昏たそがれていた。物の怪に取り憑かれでもしたかのように、黙りこくったまま侯景は、いつまでもかなたの叢林を見つめていた。


 次の山狩りで、侯景は組頭の単独誘い出しに成功した。

「雉子の巣を見つけた」

 ことば巧みに興味を引き、組頭を付き人から引き離した。視界のきく草原に出るや、さきを進んでいた侯景は向き直り、組頭を睨みつけた。彼我の距離は十メートル、風はない。

 侯景は肩から弓を下ろし、矢をつがえて組頭に向けた。

「よくぞ侮ってくれた。おれの遺恨、受けてみろ」

 組頭は実戦を踏んでいる。事態のなりゆきをたちまち察知した。

「小童、なんのまねだ。命を粗末にするか」

 組頭は侯景に殺気を感じた。ならばこどもとて躊躇する必要はない。たちまち戦場の気構えが全身にみなぎった。

 組頭はあわてず馬を下り、機敏な動作で弓を取るや、侯景の額を的に弦を引き絞った。

 外す気はない。殺す気で大きく息を吸った。

 ――相手の真正面に立ち、弓を大きく張って、ひと呼吸遅れて射よ。

 侯景の耳朶に高歓の忠告が蘇える。じぶんでも驚くほど、侯景は落ち着いていた。

 相手の動きがよく見える。組頭の矢は、宙に放たれた。

 飛来するやじりの尖端を狙って、侯景も弦につがえた矢を放った。

 空中で両者の矢は激突した。速度はほぼ互角である。ひと呼吸遅らした分だけ、侯景の矢が相手の余力を上回っていた。

 侯景の放った矢は、向かう相手の鏃を弾き飛ばした。矢柄やがらのど真ん中を串刺しにして破砕し、さらに直進して組頭の首を貫いた。

 ヒュー、喉笛が鳴った。

 組頭は眼を剥いたまま、立ち往生していた。即死である。

 ――勝った。

 次の瞬間、侯景は踵を返し、山に向かって遁走した。

 離れて見守っていたこどもの群れが、侯景のあとを追ってともに駆けた。


 こどもながら侯景の稼ぎは、多角経営で成り立っている。

 勢子の仕事は毎日あるわけではない。実入りのいい仕事にあぶれ、こどもらと狩猟採取する他にやることもないときには、喧嘩を仕事にした。ささいなことでおとなに喧嘩を売って渡りあい、飯の種にしていたのだ。喧嘩の報奨は一膳の飯代だ。空き腹をかかえて本気で殴りあった。勝てば飯にありつける。

「あんちゃん、おなかすいたよう」

 喧嘩の出掛けに、年端のいかぬ娃娃ワーワが訴えていた。

 殴り合いの現場では、腹を空かせた幼い義理の弟妹が文字どおり唾を飲んで、飯にありつけるのを待っている。金がないから負けるわけにはいかない。最悪でも、引き分けに持ち込む。素手ではとてもかなわぬ相手と見るや、弓に矢をつがえて威嚇した。天稟に加え、山狩りの実践で腕を磨いている。野生の禽獣を相手に、生き死にを競ってきた経験がものをいう。

 さらに、決闘のあと山に隠れてからも、時おり山を降りては喧嘩の相手を物色し、飯代稼ぎに精を出した。組頭を射ったときの手ごたえが自信となって、相手を威圧した。生意気盛りということもあるが、あえて無頼を気取り、ことさら悪ぶってみせたものだ。

 組頭のように知ったうえで無視する人もいるにはいたが、高歓が見抜いたように、十にひとつも獲物を外さない侯景の執念が生んだ業前は、のちに「神弦手」(神の弓弦を引く手練れ)として、江湖に鳴り響くことになる。

 侯景が弓を手にすると、異様な迫力を感じた喧嘩の相手は、血相かえて逃げ出した。時代が違うといえばそれまでだが、暴力も実力のうちだ。組頭を射った決闘が尾ひれをつけて、ひとり歩きした。巷で侯景を評価する声が広まっていた。噂の出もとは高歓だった。

 世間で通用する実力者を山中に眠らせておくのは、いかにも勿体ない。ましてや少年の身で大のおとなと堂々と渡り合った決闘ではないか。組頭の死を事故あつかいとし、組頭の家の名誉と家督を守り、侯景についてはお咎めなしと、鎮政府に談じ込んだ。

 鎮政府から特赦の使いが来て、侯景は山を降りた。十数名の行き場のないこどもらがあとにしたがっていた。その際、全山の狼が遠吠えをリレーし、送別を祝したという話が、見てきたように伝わった。

 事実はともあれ、少年にしてすでに伝説の人物である。軍鎮のなかで侯景を見る人々の目が、憐憫から畏怖にかわっていた。

 やがて侯景のまわりに、聞かん気の悪たれ小僧どもが集まり、群れをなした。めんどうを見てきた幼な子らも成長した。喧嘩っ早いお山の大将はいつしか徒党を組み、軍鎮外のいくつかの部落で自警団の長に祭り上げられていた。「毒をもって毒を制す」の好例だ。厄介な乱暴者でも、それなりに使いようはある。ただし長ともなれば、じぶんひとりの口ではない。部下連中の糊口をしのぐため数ヶ所の部落を掛け持ちで警備したから、大忙しだった。盗賊や匪賊相手に部落を守り、戦の駆け引きを自得し、騎射の腕をさらに上げた。

 ほどなくすると鎮政府から兵役の達しがあった。十五になったのを機会に、埋もれていた父籍を掘り起こしてくれたのだ。これに身寄りのない連中らも同時に組み込んだから、一挙に十数人の弟妹ができた。高歓が鎮政府に利を説いて、異例の措置を実現したのだ。

 民間の自警団であろうが、軍団は軍団だ。侯景とその一党は経験を買われ、いきなり最前線の鎮兵として城砦を守る任務に就いた。かれらがいっぱしの兵士になるのに、さほどの時間は要しなかった。

 朔北の狼を自認する侯景が、「神弦手」の異名をとるのはこのころからだ。

 軍鎮の内外で紛争が頻発していた。下から順番に出動の命令が下ったから、最下位の侯景らが真っ先に出動した。

 毎度のことなので、指揮官は侯景に指揮権を委ね、「鎮圧せよ」とのみ指示した。

 侯景は一党十数名をひきい、勇んで敵に向かった。細かい事情は詮索しない。外から侵略するものが敵であり、内では逃げるものの味方をした。馬上で弓を射って追い払い、近づけば槍で突き倒した。かつての喧嘩の延長と思えばいい。人を殺傷しても文句はいわれず、かえって賞賛された。ことに騎射の腕は卓抜で、「侯景に狙われて逃げおおせたものはいない」とまことしやかに喧伝されていたから、侯景に追われた相手は歯向かうより、むしろ投降するほうを選んだ。

 内紛のばあいは敵味方の区別がつかず、はじめはとまどったが、鎮圧するのが役目である。武器を捨てずさからうものはすべて敵とみなし、容赦なく矢を向け、刃を振るった。しばらくするうち侯景出動と知るや、内紛の両当事者は争いを放棄し、喜んで和解した。

 ようやく、その日の飯の心配をしなくてよくなった。

 紛争を処理して砦に戻ると、黙っていても酒と肴が待っていた。成長期の幼い義理の弟妹を砦に呼んで、腹いっぱいに飯を喰わせた。しかし、面倒のない順調な時代は、長くは続かなかった。軍鎮の食糧自体が枯渇しかかっていたのだ。

 やがて紛争の処理は、食料の調達を兼ねるようになる。侵略者から兵糧を奪うのは、まだいい。侵略された村からも、見返りを現物で召し上げるのだ。みかじめ料と称する用心棒代だった。

 貧しい村の一郭から、悲鳴や号泣が聞こえてくる。収奪がはじまったらしい。侯景は顔をそむけた。かつてむきになってその非を責め立てた組頭の死に顔が、脳裏に浮かんだ。

 職務とはいえ、貧しい生産者からなけなしの食料を奪うのだ。抵抗すらできない、弱いものから順に犠牲になった。

 ときがたてば立場もかわる。いまや支配側の末端に立つ侯景は、あれほど憎んだ当の強奪者となっていた。


 侯景は、五胡のひとつにあげられるけつ族人だが、かなり鮮卑せんぴ化されている。ちなみに五胡とは、匈奴・羯・鮮卑・ていきょうの諸族をいう。

 後漢が滅び三国のあと、西晋末期の四世紀初、後蜀と称することもあるが、巴蜀(四川)の胡漢諸族が建てた成漢にはじまり、鮮卑族が建国する北魏によって華北が再統一されるまでの百数十年間を五胡十六国時代と呼ぶ。北方異民族による華北政権の割拠争乱時代と断じ、正統な王朝資格を否定しているのだ。そして、孝文帝の北魏を正統王朝と認め、その建国をもって南北朝並立の時代とみなし、南の六朝(いまの南京を首都とする呉・東晋・宋・南斉・梁・陳の漢族六王朝)に対比させている。

 その北朝は、三八六年建国の北魏から東魏と西魏に二分し、やがてそれぞれ北斉と北周にかわったのち、北周が北斉を滅ぼして北朝を統一する。そののち五八一年に隋が簒奪し、八年後に南北をあわせることになる。


 侯景自身は六世紀初、野生の狼が棲息する北魏の懐朔鎮に生まれた。

「おれは狼の遠吠えを子守唄がわりに育った」

 これが口癖だった。ふたこと目にはそううそぶいて、人を煙に巻いていた。

 けつ族というのはあまり聞きなれないが、塞外にいた匈奴種族のひとつらしい。鼻高く、あごひげを生やし、眼窩が深いなどの形質的特徴をもつ。

 少年のころから膂力だけは強かったが、成長してもさほど背丈は伸びず、中背で止まった。喧嘩で筋でも痛めたものか、やや片足を引きずるようにして歩いた。颯爽とした豪傑風のいでたちではない。おまけに顔貌は、高貴とはほど遠い羯人面である。歳がゆくにつれしだいに赤ら顔にかわった。酒好きで浴びるほど飲んだが、飲むほどに赤ら顔がいっそう火照った。

 もともと歳のわりにはおとなびて見えたが、ひげで顔を覆ってことさら若さを隠した。若いと侮られる。生きる方便とはいえ、こどものころ受けた仕打ちの反動が、習い性となった。おせじにも上品とはいえないひげ面からは容易に想像できないが、頭の回転が速く、口が達者だった。ことば巧みに手当たりしだいにおんなを口説いた。年ごろの娘をもつ親は恐れて、侯景の姿が遠くに見えると、娘を家に隠して外に出さなかった。


 侯景が二十一の年、建康(南京)を都とする南朝は漢族の梁が支配していた。北朝は鮮卑族主体の北魏で、平城(山西大同の東北)から洛陽へ遷都して三十年経っていた。当時、北の辺境では一揆が頻発し、天下大乱の兆しをみせていた。


 北魏初年、柔然じゅうぜん族の南下を防ぎ、平城を保衛するため、北部辺境に多くの軍鎮が設置された。主なもので六鎮ある。西から東にかけて、沃野よくや鎮・懐朔鎮・武川鎮・撫冥ぶめい鎮・柔玄鎮・懐荒かいこう鎮という。これら軍鎮は、北流する黄河が東に転ずる内蒙古包頭の西北あたりから、河北張家口(北京西北)の北方にかけての広大な地域に配置されていた。西端の沃野鎮から東端の懐荒鎮まで、直線距離にしてざっと四百キロはある。


 ほんらい北方の警護にあたるべきこれら六鎮の兵が鎮民や流民を糾合し、蜂起したのだ。

 この叛乱は偶発的に起こったものではない。多年にわたって鬱積した鎮民の不満が限界に達し、爆発したものだ。少なくとも洛陽遷都いらい三十年の怨みがこもっている。

 建国の初期、北魏は北辺に軍鎮を設け、国防と外征の拠点とした。国都平城は北の国境に近い。軍鎮は国の生命線として最重要視された。敵対する北方異民族の柔然を制御し、平城を守護した。国境警護の中心となるのは、鮮卑や漢人の有力な豪族から選ばれた誇り高き戦士とその家族らだ。特権階級として優遇され立身の機会も与えられたから、かれらは使命感をもって勇躍、任地に移住した。

 やがて時代がかわる。中原王朝をめざして孝文帝は都を洛陽に遷し、漢化政策を励行した。胡服は禁止され、胡姓は漢姓にきりかわった。貴族の雅風が尊ばれ、武人の威風は顧みられなくなった。人々は争って漢化に走った。洛陽に移住した王室や胡漢貴族の物心両面にわたる篤い支持を受けて、仏教が盛況を呈した。

 洛陽の繁栄に反し、いまや流罪地と化し、軍事上の重要な地位を失った北鎮は見捨てられた。鎮民の特権は剥奪され、かつてのエリート戦士は賤民視された。移転を許されない軍鎮在籍の人々は府戸あるいは北人と呼ばれ蔑まれた。府戸とは軍府の戸を意味し、鎮将の隷属軍人あつかいされ、農奴のように土地に縛られ差別された。鎮民から搾取し私腹をこやす貪官汚吏があいついで鎮将に抜擢されるにおよび、鎮民の怒りはついに爆発した。

 北魏孝明帝の正光四年(五二三)、懐荒鎮将の殺害に端を発した鎮民の叛乱は、匈奴人 破六韓抜陵はろくかんばつりょうの一揆勢による沃野鎮の鎮将殺害に伝播し、またたくまに北鎮一帯に波及した。

 これが史上、北鎮の乱あるいは六鎮の乱と呼ばれる叛乱の発端となった。

 やがて朔北の叛乱は燎原の火のごとく、乾いた華北の大地に燃え移り、首都洛陽にまで飛び火しようとする。飢渇し、食を求めて火中に飛び込む流民が群れをなし、あとを絶たなかった。

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