05 春物コート(下)

 力一杯ヘソを曲げた遼子さんが機嫌を直したのはその翌日の晩――必死に土下座をして、週末ショッピングのあと、ホテルでディナーをご馳走すると約束してからだった。

 それから週末までの間、遼子さんは浮かれ切っていた。

 ぼくが食事の後片付けをしなくても、服を脱いだままにしておいても、浴槽の蓋をうっかり開けっ放しにしておいても怒らないで、あまつさえ、別にいいよ、と微笑むなんて奇跡以外の何モノでもない。

 けれども、よくよく考えてみると、結婚してすでに一年以上経っているにもかかわらず、よそで豪勢にディナーを楽しむなんていうのは新婚旅行以来だ。

 初めての結婚記念日も家でちょっとしたご馳走食べただけだったということを考えると、そのはしゃぎっ振りの説明もつく。

 申し訳ないことをしたよな、しっかり楽しませてあげよう、と固く誓って迎えた当日。

 いつもの休日より少し早めに起き出した遼子がいそいそと準備するさまをぼくはベッドの上から眺めていた。普段はノーメイクだけれども、今日はきっとしっかりめかし込むに違いない。ぼく自身の準備はそのあとでも間に合うだろうから。

 ぼくのことなんてまったく気にしていない様子の遼子さんは鼻歌混じりで服を着ていく。チョイスしたのはパステルピンクのシフォンスカートに白いハイネックのカットソー。たぶん、その足もとは昨日からアパートの狭い玄関の一角を占領している茶色のブーツが飾ることだろう――そして、コートは件の春物コートだ。

 私のかわいいコートがどうしてアナタのダサい作業着といっしょなの、と遼子さんは頑として否定していたものの、ぼくはやっぱり水道局の作業着みたいだと思う。言わないけれども。

 クローゼットを漁っていた遼子さんの手は、案の定、若草色のコートを取り出した。

 そして、ひとまず合わせてみるためか意気揚々といった具合でそれを羽織り――凍りついた。


 彼女が羽織ったのは、ぼくのダサい作業着。


 結局遼子さんは去年買ったベージュの春物コートを羽織った。

 見なかった振りをして、さらに、コートが件のコートではないことにふれないでおいたぼくは結構いい夫だと思う。


【了】

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