3月 さようなら、おやっさん(3)
停水期間二日目も、俺を守るつもりで戦え、と宮本から言われたができなかった。
三日目も。
四日目――宮本が有休を取った。
親戚の法事に親の代理として急遽出席しなければならなくなったらしい。
よりによってこんな時に! と電話口で悪態をついていたと、電話を受けた山木は言っていたが、それもそうだろうと田実は思った。
今日、停水班に人がいない。
市川は定年退職前の有休の調整で、井上は妊娠中の夫人の検診の送迎で、それぞれ事前に休みを取っていた。
そして、宮本の前に佃が電話を寄越していて田実が電話を取ったのだが、夫人と娘に感染性胃腸炎らしい症状が出て病院に連れていくから休むと言った。
いるのは浦崎と田実のみ。
停水期間も四日目ともなると多少は落ち着く。しかし、二人だけというのはさすがに異常だと言わざるを得ない。
停水業務は二人一組。必然的に今日の田実の相方は浦崎となる。
その浦崎の顔色は、また今日に限っておそろしく悪かった。
「本当は今日、休もうと思っていたんですよ――」
マルキ世帯へ向かうその車中で、ぼそりぼそりと助手席の浦崎が語る。
消化器が弱く、常に胃痛に悩まされているが、その分、自分の体調との付き合い方を知っている浦崎は、今日どうしようもなくなるだろうということを昨日の段階である程度予測していたらしい。
だが、市川と井上が有休で、自分まで休むと停水班は三人になる。
そうでなくても普段は事務方の補助をしている精算担当の二人が一年で最も忙しい月。おいそれと休むのは気が引ける。なので、とりあえず様子を見てから決めようと出勤してみると、そこにいた停水班員は田実だけ。
一人で停水業務はできない。
「――さすがに帰るに帰れません」
胃の辺りを撫でさする浦崎を、運転しながらちらりと見、なんというかすみません……、と田実は詫びた。
詫びたところでどうしようもなく、そもそも自分が詫びることではないと思ったものの、他にかける言葉が見当たらない。
浦崎もそれはわかっていたのだろう、
「いや、田実君が謝ることではないですよ。休まない、引き受けると決めたのは私自身です」
と弱々しい笑みを含んだような声音で言った。
とはいえ胃は痛いのか、最近飲み始めた薬が合っていないからのような気がすると言い訳めいたような愚痴をこぼすのに、相槌打ちながら聴く。
そうするうちに本日一件目のマルキに到着した。
これまで来たことのない家だった。
一戸一戸がやや離れて立つ、昔ながらの集落のなか。
元は端で畑などをやっていたのかもしれないが、今は荒れ果てた庭。その奥に建つのは比較的新しい和洋折衷の家屋だった。元はクリーム色と思しき外壁はところどころ苔らしい緑に染まっていたが、建物のかたち自体は古くない。
家屋の向こうは木立になっていて、家屋と庭を徐々に侵食しかけている気配があった。とはいえ、生活感は十分にある、典型的なマルキ世帯。
だが、浦崎も来たことがないと言った。
「たぶん、スライムじゃあないんでしょう。私が持っているマルキの八割はスライムなので」
そもそも私はマルキにちっとも詳しくないんですが、と胃を押さえながら門塀の郵便受をのぞき見る。
「そうなんですか?」
意外に思えてそう返す。
ええ、と振り向いた浦崎は、終始こんな体調ですからね、と困ったように笑んだ。
「ちょっとでもよけいなことを考えるとすぐに胃が痛くなるし、スライムはともかく、もっとはっきりと生き物のかたちをしている未確認生物を殺すと、あとで罪悪感がひどくて、ますます胃が痛くなる――なので、今までずっとスライム以外は、私は市川さんにおまかせでした」
でした、という過去形に、ふと言いようのない不安に似た何かが胸中をすぎていったような気がしたが、ほんの一瞬のこと。
「とりあえず、いるかどうかわからないですけど一応通告を……」
と顔をしかめて呟いた浦崎に、ぼくが行きます、と言った。
今いる門塀からメーターのある場所と玄関までは同じだけ距離がある。多少敷地が広いというだけで遠くはないが、今の浦崎に少しの無理もさせたくはなかった。
ここで何かあった時、頼れるのは浦崎だけ。
田実には何もできない。
「先に裏へ行って待っててください」
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
胃の辺りを手で押さえたまま、よろよろと歩き出した浦崎を見送り、玄関へ向かう。
寒い間も放置されていたのだろう枯れ草が繁茂しているなか、人一人が通れるだけ確保された部分を通り、玄関横の呼鈴を鳴らそうと手を伸ばし――
咆吼に振り返った。
人か、動物か。いずれにしても普段耳にすることのないたぐいの声。
それが――おそらくこの家の裏側から。
構わず枯れ草のなかに飛び込み、走る。
きっとただごとではない。自分にできることなどないにしても状況を確認して、連絡を――局に? 局でいいのか?
局に連絡して、いったい誰が出てくるのだろう。
今日の停水班員は浦崎と田実、二人きり。
獣相手なら宮本に直接連絡をした方が早いか。だが、法事を抜け出せるのか。
市川は単なる有休だろうか。でも、市川はじきにいなくなる。
頼って、いいのか? 次の停水期間にはもういない、その人を。
どうすればいい、どうすれば、どうすればいい――喉の奥で繰り返し、建物の角を大きく曲がる。
奥に木立の広がる裏庭。
表よりも背丈の高い枯れ草で覆われているなかに、怪物が立っていた。
ぶよぶよとした緑色の皮膚の、一つ目お化け。
丈は二メートルほどか。まるで悪趣味なビニル人形のよう。一方、大きな顔面の半分もある目と、残りを占め、角のつり上がった口から垂れた赤く長い舌は、作り物にはありえない質感で、生々しく動いている。
ゆるん、ゆるん、と左右に動く視線はやや下の方に向けられていて、こちらまで届いていない。周りの草木の背丈が高いせいで、たぶん、見えないのだ。
浦崎さん、浦崎さんは?――目をこらし、探す。うかつに声は上げられない。
きっと化け物の視線の先辺り、と目星をつけて、音を立てないように傍に寄る。
身をかがめ、風が草木を揺らす以上には音を立てないように、そっと、そっと――
グエ、と喉が鳴るような音がした。
反射的に顔を上げる。
一つ目と、目が合った。
「あ」
三メートルほど先に怪物。
その手前にうずくまる浦崎が。
「浦崎さ――」
田実を見据え、怪物がのそりと足を上げ、どん、と地面を踏みしめる。
動けない。浦崎も動かない。
次の一歩で、きっと浦崎は踏み潰される。
にたあ、と目を細め、口もとをより一層だらしなく歪め、萎縮した小動物を追い詰めるかのように、怪物はこれ見よがしにゆっくりと足を上げ――
田実は、握りしめていた。
腰に下げていた特殊型止水栓キーを。
今、この時、この瞬間に相方を、ひいては自分自身を助けられないというのなら――こんなものいらない。
引き抜いて、怪物に向かって投げ出そうとしたのと、怪物が浦崎の背を踏み抜く直前に何かに弾かれるようにごろんと転がったのは同時だった。
『防壁』の発動。
キーを固く握り直す。
身体を起こした怪物が、こちらに寄ろうとして再び弾かれたのを見、浦崎さん! とキーを握ったまま抱え起こす。
「大丈夫ですか!」
大丈夫なはずがないと思う余裕もなく、顔を見、息を飲む。
いつにない不吉な青みを帯びた、白い顔。瞳孔がこちらを捉えなければ、きっと呼吸と鼓動を確かめただろう。
「化け物に……ですか?」
瞳孔を見つめ問う。
殴り飛ばされたのか、蹴られたのか――だが、浦崎は小さく、ほんの小さく視線を左右に揺らし、ごふりと喉を鳴らして、胃が、と言った。
その唇の端から泡を帯びた唾液があふれてこぼれる。
「浦崎さん!」
慌てて背中をさすり、回らない思考をぶん回す。
未確認生物にやられたわけではないのだろう。おぞましい姿をした正に化け物と対面して咆哮を浴び、胃が限界に達したか。
背丈のある枯草のなかにうずくまり、怪物の視界から隠れられたおかげで即座に最悪の事態に陥ることだけは免れた――が。
ドン、と音がした。
怪物が膜に体当たりをしていた。ドン、ドン、と二度。そうしてさらに助走をつけて巨躯をぶつけてくる。膜は歪みもしない。
このなかは安全だ。
けれども、出られない。
ぐほ、ぐほ、と内臓を迫り上げるような重い咳をした浦崎の背をさする。
田実だけなら助けが来るまできっと待てる。だが、浦崎は持たない気がした――早く電話をしなければ……、でも、だから、誰に?
局にかけても意味はない。
法事に出席しているという宮本は出てくれるのか。田実の番号を見て異常事態だと気付いてくれないだろうか。
そんな期待をするよりは、市川にかけた方が確実だとしても、もう――頼れない。
これは仕事。業務の一環。危険だが、処する道具は与えられている。そして、田実はそれが使える。
対処しなければならない。
今、これだけでは相方を救えないというならば、さらなる手を。この先の自分と相方を守れるだけの力を。
――市川さんがいなくても。
守られる時期は、もうとうに過ぎ去ったのだ。
浦崎を片手で支え直し、キーを握り込む。
意識は膜の外の怪物に――どうしたらいい。
睨めつけながら思い出す。
七月の技能研の時、西部水道企業団の庄野が言っていた。特殊型止水栓キーの力を引き出すのは怒りや憎悪だと。
そんなもの、たっぷりある――
『とにもかくにも邪魔をするな!』
身体に溜まった熱が、キーを握る右手にすっと吸い取られる、そんな心地がした。
頭の芯がじんと冷え、目の前がふっと白む。
怒りのあまりに気が遠くなるような立ちくらみのあと、キーを握ったまま額を押さえた。
頬に風を感じる。おそらく膜は消えた。
耳鳴りのなかに響く、ぐえっ、ぐえっ、という、やけにくぐもった獣の声。
額から手を離し、見ると、怪物がまるで溺れているかのように中空をかきむしり、そのはてに、ドウッ、と音を立てて転がった。
枯草の上でなおももがく怪物に目を瞠り、気づく。
田実たちを取り囲んでいた膜が、怪物に移ったのだ。
そして、邪魔をするなと命じた通り、その動きを封じている。
「――よくやった!」
野太い声に振り返ったのと、ダンッ、と何か貫くような音がしたのは同時だった。
作業着を着た巨漢が駆けてきて通り過ぎ、怪物を蹴り飛ばす。宮本だった。
同じく作業着を着た小男が止水栓キーを自身の肩に振り乗せ、蹴り倒した怪物の上に立った宮本に問う。
「死んでるだろ」
「死んでますね。さすがおやっさんの“爆殺”」
「まあ、時間と助けるっつう気さえありゃあ、今もできなくもないっつうことだ――」
いるはずのない二人。
そのうちの一人、四月から十一月まで相方だった男がこちらを向いて笑んだ。
「――使えたな、ボーヤ」
「市川さん……」
「今は俺が手出しをしたが、お前はやっぱり何も傷つけなくてすむみたいだな」
遅れていた思考がゆっくりと追いつく。
試されたのか。試されたのだろう、きっと。
その証拠に、法事に出席しているはずの宮本も、有休消化中の市川も、勤務日と変わらないかっこうをしている。
騙されたのか。騙されたのだろう、おそらく。
正義感の塊のような井上の、毎月大体決まっている妻のための有休に、市川、佃、宮本が乗っかり、山木が調整して、浦崎が持病の癪をある意味生かしてこの策を。
法事は嘘。有休も嘘。
佃の家族が体調を崩したというのも、たぶん、嘘。
浦崎の胃が痛くて休もうと思っていたというのも、たぶん、嘘。
予想はおおむね当たっていたに違いない。
「――胃薬、もういいぞ」
市川の悪戯っぽい声音につられるように、左腕に抱えた浦崎の背に視線を落とす。
と、浦崎の胸の辺りを支えていた前腕に、ぐぐぐっと気味の悪い動きと音が響き、ほどなく吐瀉音と、じわりと膝が濡れる感触に襲われた。
「浦崎さん?」
のぞき見る。震える下唇はどす黒い赤に染まり、田実の膝も同じ色に染まっていた。
「う、浦崎さん! だ、だだだ! だ?」
大丈夫なはずがない。いや、これも演技、なのか?――慌てて市川と宮本を交互に見る。
こちらを見、立ち尽くしていた市川が、同じく立ち尽くしていた宮本に怒鳴る。
「救急車! ガリー! 救急車だ!」
「は、はい!」
怪物の胴から飛び降り、その身体をさらに奥へと蹴っ飛ばして、あたふたと宮本が携帯を取り出し操作する。
そうして半ばわめくように救急車を呼びつけるのを聞きながら、ああ、もう、いやだ、と田実は意識をかなぐり捨てた。
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