3月 さようなら、おやっさん(2)
宮本の裸の腕が、跳ねる大きなボールのような物体を貫く。
貫くついでに、その中央におさまっていた赤い果実めいた核を握り込んでいたのだろう。拳からだらりと赤々とした液体が流れ出たと同時に、緑色のゼリーに似た物体の身体が、ボトボトボトと音を立てて落ちていく。
続いて二体目、三体目を、両の手を使って同じように仕留めたあと、ぐっとこちらに振り向いた宮本は強面を凶悪に歪めた。
「使えねえな」
「す、すみません……」
両手で特殊型止水栓キーを握りしめ、田実は詫びる。
俺を守るつもりで膜とやらを出してみろ――そう言われていたのだが、できなかった。
どうやら宮本はこの停水期間中に、田実に特殊型止水栓キーを使わせるようにしたいらしい。
初日の今日、これで三件目のマルキ。守れと言われてからは二件目。
一件目は何も言われないまま首根っこ掴まれ目の前に放り出されて凍りつき、寸前で助けられた。
何で動かねえんだよ! そこは特殊型使ってどうにかすっとこだろうが! と怒鳴られ、いや、これで動けたら格闘家か何かですよね! と応えたところ、何をどう解釈されたのか、飛びかかってくる未確認生物から宮本を守るということになった。
収納係一、いや、水道局一守らなくてもいいような気がする男を。
実際、今しがた、スライムが飛びかかることができる位置に、上半身ランニング一枚になって突っ立っていた宮本の周りにあったのは、未確認生物でもたじろぐような、乱しがたい静謐だった。
正直なところ、スライムよりも宮本の方がずっと怖い。
「ボーヤ、言っとくがな、鈍臭えお前を低リスクで成長させてくれるような未確認生物なんぞそう数いねえぞ?」
「それはわかってますけど――」
それ以前の問題です、と言う前に顔を寄せられ凄まれる。
「わかってねえだろ。怪我人出したらアウトなんだよ。保険金が出る出ねえの問題じゃあねえ。金があっても取り返しがつかねえ怪我だったらどうするよ」
いや、そもそも習得させたいならばもっと別の方法を考えた方が、と言おうとして飲み込む。
宮本の猛獣じみた面相のなかに、ちらっと見えた苦々しい表情。どこかすがりつくような響きのある言葉。
「お前は強くならねえと、戦えねえといけねえ」
そこに感じた確かな焦燥。
来月からは市川がいない。
誰よりも長く収納係にいて、誰よりも強かった市川がいなくなる。
お前は何も傷つけなくてすむ――それが自分自身の希望でもあったのだろう市川は、田実が得た能力を手つかずのままにしておいた。
市川がいる間はそれでよかったのだろう。
そして、この先も田実とその相方が、もしもの時に助かればいい――市川としてはそうなのかもしれない。
だが、そうしたら市川が作る穴を誰が埋めるのか。
県下でも十人ほどしかいない特殊型止水栓キーの使い手。つまりそれくらいしか生じないのだ。新たな人材を探すより、きっと田実を使えるようにした方が早い。
つつがなく、安全に、仕事をまわしていくために。
黙り込んだ田実を睨め、それから大きく息を吐き出して顔を離した宮本は、……水停めたら次行くぞ、と背を向けた。
手早く止水栓を締め、さっと閉栓キャップをかけてあとを追い、公用車の助手席に乗り込む。
「次はどこですか」
「……行きゃあわかる」
なぜかしかめ面になって一瞬口ごもった理由は、ほどなくわかった。
次の行き先は十一月の、あの家だった。
田実の力を引き出した、あの。
だが、明らかに様子がおかしかった。
車から降り、家屋を見上げる。そして、庭を見る。
あの時からさして変わっていない。変わっていないが、違和感。
駐車スペースから数歩引いて、道に面した塀と壁を見渡していると、ねえよ、と宮本が言った。
「貸家だの売家だの入居者募集中だの、その手の看板だろ? ねえよ」
肩の筋を伸ばし、首を一回まわしたあと、こちらに目を向ける。
「こいつぁ夜逃げだ」
「夜逃げ……ですか?」
家に誰もいない。いないというより、住んでいない。そんな気がした。だから、探した。だが――
「こんなに……、こんなにきれいに逃げられるものですかね?」
夜逃げだというのなら、もっと生活の痕跡が残っているものではないのか。
「ここまでするのは素人にゃあ難しいと思うぜ。まあ、どどのつまり、これがうっかり未確認生物を飼っちまった家のなれの果てだ。ぶっちゃけりゃあ――」
ケサレタンダヨ、と宮本の唇が声なく刻む。
「――ボーヤ、まともに見るのは初めてだろ、しっかり見とけよ」
宮本に続いて敷地内に入っていく。
手入れがされていないか、あるいは長い旅行に出ているか、そんな雰囲気で中途半端に荒れた庭。
けれども玄関横のポストは、ここ数日入れられたと思われるチラシ程度しか入っておらず、不気味なくらい整然としていた。
たぶん、誰かが維持している。
「気づいたのは、計量係の相良のオッサンだった」
呼鈴を二度、三度と乱暴に鳴らしながら宮本が言った。
「あのオッサン、ちょっとトロいが、勘はいいんだよな」
特注、マルチュー、マルキの検針は、検針人ではなく職員が直接行う。
この周辺一帯の検針は偶数月。二月の頭、いつも通りにメーターを確認したこの地区担当の営業課計量係の相良は、戻るなり電算システムで収納状況をチェックして計量係長と村沢係長に報告した――おらんくなっとるかもしれません。水も電気も使っとるんですが、何かおかしい。ちなみに十一月の停水のあとは金入っとったけど、一月は入っとらんかったですよ。三月停水ン時に気にかけといてください。何もないとは思うけど……ええ、マルキにはよくあるという意味での“何もない”です。
「――誰もいねえな。居留守の気配もねえ」
しばし目を伏せて黙っていた宮本が顔を上げ、言った。
それは田実も感じ取っていた。が、
「しかも、たぶん、なかは空っぽだ。大概のモンがなくなってんじゃあねえのか?」
「え? わかるんですか」
そこまでは感じ取れず目を瞠ると、まあな、と宮本はつまらなそうに頷いた。
「何年かやってっとな、何となく……とはいっても佃さんは野生の勘だとかそんなの野生動物しかわからねえとか何とか言ってたが」
何はともあれオッサン大当たりだぜ、と呟いた宮本は、裏へ行くぞ、と踵を返す。
「停水ですか……?」
「ああ。心配しなくとも、もう何もいねえよ。生き物の代金払えなかったからこんなことになってんだろうからな」
最後に殺ったあの牛面、技能研に出てくるのに比べりゃあ劣るが、あれでもべらぼうに高いモンらしいからな――少しばかり声をひそめて宮本は言った。
生きている間はいい。だが、死んだら次のを買わなければならない。
逃れることはできない。金蔓を逃しはしない。売っているのはそういう筋だ。
だから、マルキは消えるまでマルキのまま。
そんなことはおそらく買う前からわかっていただろうに。
「そこまでしてでも払いたくないものでしょうか」
いずれ奈落の底に落とされるかもしれないものに手を出してまで。
「さあな。でも、光熱費に関しちゃあそういう奴多いんじゃあねえのか? その上、水は大概、市町が管理してる。多少こういう荒い方法使っても民間相手みてえに政府がド派手に乗り出してくることはねえだろうからな」
裏庭というよりは竹藪のなか、宮本の言う通り、そこにはもう何もいなかった。
中途半端に荒れているのは表と同じ。四ヶ月前の痕跡もない。
さあ、さっさと締めろ、と命じられ、メーターボックスの傍にしゃがみ込んで蓋を開け、栓を締め、通常型の閉栓キャップを取り付ける。
「通常型でいいんですよね」
「いい。こじ開けてまで使うことはねえよ、この家の住人をどっかにやった奴らはな。そして、俺らもこんな感じの夜逃げの体でいなくなったマルキの追跡調査はしねえ。だから、こいつは儀式みてえなもんだ」
「……縁切りの」
締めてしまえば開けられることがないというのなら、以降、水道料金は発生しない。
「ああ」
眉をひそめて頷いて、宮本は竹藪を見上げる。
「ここはかなり前からバケモノ飼っててよ。俺にとっちゃ最後の最後までちっともいい思い出なんぞなかったが――」
視線をこちらへ下ろして強く睨めつけてきたあと、強面をほんの少しゆるめた。
「――まあ、おやっさんにとっちゃあ、悪くなかったみてえだがな」
「え?」
「あん時、あんな目に遭ったのに、ちょっとばかり機嫌よかっただろ、おやっさん。どうしようもねえヘタレたお前の力も、おやっさんにとっちゃ嬉しいモンだったんだろうよ」
何も傷つけない力。
しかし、俺らはお前をどうすりゃいいんだろうな――続いた言葉はほとんど囁きのよう。
そうしてこちらの反応をうかがわないまま宮本は目をそらし、締めたなら次行くぞ、と歩き出した。
車に戻った時にはまるっきりいつも通りで、残りにマルキはなかった。
だから、田実はその日、もうそれ以上そのことに触れることができなかった。
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