2月 一年で最も短い月(10)

 家と職場とどちらが居心地がいいかと問われたら迷うことなく家と答える田実だが、別に職場が嫌というわけではない。

 職場の人間関係はわずらわしいが、全面的に避けるつもりはなく、何となく始まった会話でもそれなりに愛想よく受け答えし、喋りたい相手の気が済むまで待つことも多い。

 とはいえ、終業前後に始まった他愛のない会話などがだらだらと続きそうだったら、自然な感じを装いつつさっと切り上げようと尽力する――言うまでもなく妻に抗えないからだ。

 そして今、田実はそわそわしていた。

「随分前に行ったサツキ農園のイチゴ狩りはよかった気がするんすけどね」

「そうか? この前行った印象ではサカモトの方がいい気がしたんだがな」

「――おいボーヤ、ブルーベリー公園とサツキ農園、どっちがよかったんだよ」

 佃と宮本の間で終業直後に始まったイチゴ狩り談義に巻き込まれて早数十分。

 どうやら宮本が彼女連れでイチゴ狩りに行きたいとかで、娘を連れてよく行くという佃に相談を持ちかけ、それで話がまとまればよかったのだが、二年ほど前に郊外にできたブルーベリー農園が経営するイチゴ狩りだけは佃も行ったことがなかったらしい。

 どんな具合なんだろうなと二人が話しているところに通りがかり、幸か不幸か妻とそこに行ったことのあったため、今の今まで引き留められているという次第だ。

 正直なところ田実はイチゴ狩りに興味がない。

 まずイチゴそのものが好きでも嫌いでもなく、園内食べ放題と言われてもさして魅力を感じない。イチゴ狩りと聞いてただ一つ思い起こされるのは妻の必死な姿――ああちょっと待って正行さんそれは食べないでそれは持ち帰り用に入れてその代わりこれは食べていいよっていうか多少面倒臭くても一つ一つ私に訊いてよって何その顔何か文句でもあるの文句あるなら有り金全部置いて帰りなさいよ!――どうしてイチゴ狩り程度で妻から追い剥ぎめいた暴言を投げかけられなければならないのか。

 思い出してうんざりしたが、それを表に出さないようにして答える。

「ブルーベリー公園の方がちょっと高いですけれどもサービスいいみたいですし、スタッフも親切でイチゴも美味しいって妻は言っていましたよ。サツキ農園の方は安いけれども老舗の看板に胡座かいている状態で、とにかくスタッフの言動がイチイチ癪に障るそうです」

 田実は妻に命じられるがままイチゴを摘んで時に食べるだけで思うところはないが、前線で戦う兵士さながらにイチゴを狩る妻は、細部のチェックも怠らない。

「ついでにいうと、サカモト農園はイチゴ狩りとバーベキューのセットコースが意外とお得だとか何とか……」

 とにかく早いとこ宮本にデートコースを決定してもらい、家で田実の帰りを待つ妻の形相がイチゴ狩りの時以上になる前に解放してもらわないと――そんな思いで一気に自分の持っている情報をさらけ出し、強面二人の顔をうかがう。

「お前よくそんなに知ってるな」

 宮本はさも感心したように言ったが、佃は物言いたげに目を細め口を開いた。

「おいボーヤ――」

 いったい何を言われるのか、何れにしてもいいことではないだろう気配に身構えたが、

「何の話をしているんだ?」

 佃の言葉は背後からの声に遮られた。

 聞き慣れたというよりは、ある種の緊張感をもって記憶に刷り込まれたその声。

 佃の表情が一瞬にして神妙なものに変わるのを目の端に留めながら田実は振り返る。

 声の主は北島出納係長。

「後輩イジメか? 感心だな英輔にガリー――で、何をしでかしたんだよ、ボーヤ」

 実に意地の悪そうな笑みを浮かべた、佃や宮本ほどではないがやや険のある強面を向けられ、いや、イチゴ狩りの話を……、と言葉を濁す。と、

「イチゴ狩り? イチゴ狩りっていうとイチゴを摘むアレだろう?――何でたかがイチゴ狩りの話で人殺しそうな目をしてボーヤを見てんだよ、英輔」

 イチゴを摘むというよりはまるでリンゴをもぎ取るような仕草をしながら訝しげなまなざしを向けた北島に、人聞きが悪い、と佃は顔をしかめた。

「元々こういう目つきですよ。さすがのボーヤもこれくらいで死んだりはしません」

「まあ、それくらいで死んでたらおやっさんの火炎放射目の当たりにした時点で死んでるな」

 特に興味はないのだろう。何となく話を逸らすような佃の言葉を深追いすることなく北島は軽口を返し、きょろきょろと収納係の島を見渡して、眉根を寄せた。

「山木はどうした」

「山木ですか? 早々に出た気がしますが」

 なあ、と佃に話を振られ、田実は宮本と顔を見合わせ、頷く。

 確かイチゴ狩りの会話に巻き込まれる少し前に出たはず、と思いつつちらりと壁の時計を見ればもうすぐ六時半。かれこれ三十分近くイチゴ狩りの話に巻き込まれてたのかと内心うんざりしながら、おずおずと申し出る。

「そろそろ出られて三十分になると思いますけれども……」

「そんなに前に出たのか」

 はい、と頷くと、何だアイツは、と北島は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「昼に自販機ンとこで、年度末で仕事に追われてと珍しく愚痴ってたからこうやって手伝いにきてやったのに随分と余裕だな」

「手伝いって……今の時期、出納の方が忙しいんじゃないんですかボス」

 至極真っ当な疑問を真顔で発した宮本に、

「バカかガリー、ボスはな、そのあと山木の慰労をダシに飲みに行こうと企んでおられるんだ」

 佃が慇懃無礼な解説を入れる

「ちっとも間違っちゃいないし、まったくもってその通りだが、英輔、お前相も変わらず腹の立つ奴だな」

 不機嫌そうな割に軽妙な口調で応じる北島を眺め、田実はふと首を傾げる――そういえば、と。

 午後、外回りから帰ってきてしばらくして取った電話。

 朝から電話が鳴り続けているのが当然な時期なので、これも十中八九停水に関する電話だろうなと思えば受話器の向こうの相手は精算で外回りをしているはずの小寺だった。山木に替わってほしいと言われ、どうしてわざわざ係の電話に掛けてきたのだろうと思いつつも替わらない理由もないので替わったのだが、どうもその時に二人は仕事後に飲む約束らしきことをしたような雰囲気だった。そう、一緒に不納欠損処理に関する追跡調査をするというようなことを言い渡した山木から、通話を切るように言われて受話器を受け取った時、奢るから! 奢らせていただきますから残業はやめて! という悲鳴が受話器の向こうから上がっていた。

 それから仕事の忙しさに任せてきれいさっぱり忘れていたのだが、今思い出せる範囲で思い出してみても、それから山木が小寺と一緒に追跡調査をした様子はなかった。少なくとも山木は三十分ほど前に、ほぼ同時に小寺もここを出ていたような気がする。

 結局飲みに繰り出したに違いない。

 多少迷った末、田実はそれを告げることにした。

 北島の反応は予想できないが、少なくとも不毛なイチゴ狩りについての話はこれで終わるのではないだろうか、と。

「あの、北島係長」

「ん? どうしたボーヤ。お前も冷酷非道で陰険な英輔に一言物申したいのか?」

「い、いや、そうじゃなくて、その……もしかすると山木さんは小寺さんと飲みに行ったのかもしれません。昼過ぎにそんな話をしていらっしゃったような気がするので」

「何だって?」

 気の大きい方ではない田実を竦み上がらせるには十分なほどに険と張りのある声を上げた北島は眉間に皺を寄せ、おい英輔にガリー、と傍らの二人の強面を交互に見やった。

「山木の奴、タラシと飲みに行ったのか?」

 いやオレは知らないっす、と宮本は忠犬のように首をぶんぶんと否定の方向に振って見せ、佃はふと中空を睨めつけたあと、そういえば奴ら出るの一緒だった気がしますね、と言った。

「何なら電話してみましょうか」

「いや、別にそこまでしなくてもいい――大っぴらに飲みに行くと言ってたならまだしも英輔もガリーも知らないってことは、ま、積もる話でもあるんだろうよ」

「積もる話って……陸さんと山木の間にそんなものはない気がしますがね」

 と合点が行かないような面持ちの宮本に対し、佃は薄っすらと笑みを浮かべ強面をより凶悪なものにした。

「ボス、絡みに行かないんですね、珍しい」

 茶化すような口振りに北島は、

「何だぁ? 俺のことを絡み魔みたいに言いやがって。俺はこう見えても気遣い上手なんだからな」

 そううそぶいて胸を張る。

「冗談キツいぞぉー北島ぁー」

 そんなヤジに振り向くと、清水窓口係長が嗤っていた。

「うるさいですよ清水さん。アンタの方がよっぽど絡み魔だ。わざわざ窓口から絡むことはないでしょうに」

「ああ? 出納からわざわざ絡みに来た奴に言われたくはないなあ」

 清水係長と北島はそれなりに仲がいい。

 傍から聞くとほとんど因縁の付け合いのような会話を交わして嗤い合う。

「仕方ないな、今日は絡む相手のいないかわいそうな出納係長と一緒に飲みに行ってやろうか」

「それはこっちの台詞ですよ、窓口係長。当分飲みに出ていないでしょう? 気遣い上手のこの俺がお相伴して差し上げますよ」

 どうやら飲みに行くことになったようだった。

「さて、どこ行くかな、北島」

「中町でいいと思いますが――おい、ガリー、お前の行きたいところでいいぞ。清水係長をご案内して差し上げろ」

「ええ! オレも行くんすか?」

「当たり前だろ。俺はまだお前の彼女の話をまともに聞いてないぞ。今日は大いに語らせてやるから語れ。今日語ればもれなく清水係長も聴いて下さるぞ」

「おう、しっかり聴いてやるぞ。ついでに結婚とは何かを教えてやらんでもない」

 そんなやり取りを聞きながら、田実はじりじりと後退していた。もちろんこの場から逃げ出すために。

 イチゴ狩りの話に巻き込まれ、ただでさえ時間は押しているのだ。これで飲み会に巻き込まれたりしたらいったいどうなることか。

 今帰ればまだ妻も小言ですませてくれる。だから、今のうちに逃げるべきだろうと。

 そっと、そっと後ずさりして、少しずつ距離を取って、くるりと回れ右をしようとして――北島と目が合った。

「おい、何やってんだボーヤ」

 その声に宮本も佃も清水係長も振り向く。うっかり視線を集めた田実はびくりと肩を震わせて足を止め、ははは、と乾き切った笑い声を小さく立てた。

「逃げるつもりか?」

 鋭く刺さりそうな北島の言葉に首を横に振る。

「何だ田実、用事でもあるのか?」

 普段それほど田実と関わりがない清水窓口係長が怪訝そうにそう言うと、普段仕事上でも関わることなどないのに田実の事情を知っている北島が険しく目を細めた。

「ボーヤ、お前まさかまだ嫁の尻に敷かれてるんじゃなかろうなあ……?」

「何だ? それは――田実、お前嫁より弱いのか? それは聞き捨てならんな。ここはもしかして俺が結婚と嫁の御し方について教授してやらんといかん場面か?」

 興味津々といった具合で重ねられる清水係長の言葉。

 佃は日和見を決め込んだ様子で、最近、嫁や妻という単語を含む会話に滅法弱くなった宮本は、困惑のまなざしで係長二名と田実を交互に見る。

 この場に村沢係長がいれば助け船の一つでも出してくれたかもしれない。もっとも、その助け船をもってしても出納、窓口の両係長から逃れられるかはまた別問題ではあるのだが。

 ここから逃げるのは不可能――弾き出された冷酷な答えにいっそ腹を括るべきか。

 脳裏をちらつく妻の般若の形相に倒れたくなりながら、いや、もうここで本当に倒れてしまおうかと現実逃避も甚だしいことを思ったその時、

「何でさっさと謹んでお断りしないんだよ、ボーヤ」

 佃が口を開いた。

 係長二名と宮本が驚いたように振り返る。田実は何も言葉にできないまま、ただ、口だけを動かした。

 女好きだが四十路独身の北島に、結婚について思うところが多数あるらしい清水係長に、妻が怖いから行けませんと言い訳をしろというのだろうか、と。

 ぼくがいったい何をしたっていうんですか佃さん!――

「お前、俺と“約束”しただろうが。何か知らないが俺に相談したいことがあるんだろ」

「――え」

 まったく記憶にない“約束”に目を瞬かせる。

 佃に相談したいことなどない。

 だが、佃は眉間に皺を寄せ、物忘れの激しい奴だな、と溜息混じりに詰った。

「俺だって忙しいんだ。お前の若ボケに付き合っている暇があると思うな。ほら、行くぞ」

 というわけでボス、清水係長、お先に失礼します、よい週末を、ガリー、彼女と幸せに付き合う心得をしっかり拝聴してこい――それだけを滑らかに言い、さっさと歩き出す。

 それを呆然と見送った係長二名と宮本の視線がこちらに向くと同時に、田実は、そういうことなので失礼します、と深々と頭を下げ、そして、三人を見ないように、視線を足もとに落としたまま駆け出した。

 何が何だかよくわからないが、ここは佃に従った方が悪いことにはならなさそうという勘。

「……上手く回避できたみたいだな。帰るぞ。嫁が待っているんだろ」

 追い付くと、佃は小声でそう言って口角を歪めて見せた。

 しかし、安堵するにはまだ至らず、おそるおそる首を傾げてうかがう。と、

「まったくもって信用できないって顔だな」

 佃は嗤った。

「い! いえ、そんなことはないのですが! そ……その、どうして、ですか?」

 “約束”はおそらくあの場から離れるための嘘――ただ、“それ”はいったい何を元手に貸し付けられたのか。

 佃自身があの係長たちに付き合うのが嫌なのであれば、その旨をはっきり告げてきっぱりと断るはずだ。佃は断る相手がたとえ局長であろうときっと怯むことはない。

 佃のついた嘘は間違いなく田実のためのもの。

 なぜわざわざそんな嘘をついたのか。

「そりゃお前が今にも死にそうな顔してたからだ」

 佃は実に楽しそうにそう言った。

「あんまり遅く帰ったら嫁が仁王立ちして待ってるとか、そんな感じなんだろ。俺はボスと清水係長からお前を助け出すことはできるが、お前の嫁からお前を助けることはできんからな」

「……でも、どうして助けて下さったんですか?」

 人助けという言葉が誰よりも似合わなそうな男は、そうだな…… と、少し考えるような素振りを見せ、……はっきり言ってその場の気分だったんだが、と言った。

「あえて理由を付けるとしたら、お前が逃げようとしていた理由が嫁絡みだってのがわかったからだ。ボスや清水係長と飲むのが面倒臭いって感じだったら放っておいただろうが――どうも俺はお前の嫁に対するお前の態度に納得がいかない」

「……何でですか」

 結果的に助けてもらったにもかかわらず、放っておいてくださってもいいのですがと言外に言うような調子になり身構えたが、佃は鋭いものの喜怒哀楽のいずれも感じられないまなざしをこちらに向け、よくわからん、と呟くように言った。

「イチゴ狩りなんぞちっとも好きそうじゃないお前がつらつらとイチゴ狩りについて語った時は、それも嫁に強制されてんのか、男の矜持を少しは持て、とそんなことを言うつもりだった」

 ああ、と田実は頷く。

 たぶん、北島に声を掛けられる直前、北島曰くの“人殺しそうな目をして”何か言いかけていたあの時。

「今だって男の矜持を持てとは言いたいが、まあ、飲み会に連行されて愚痴愚痴言われた挙句、嫁にキレられるっつうんじゃあ矜持も何もあったもんじゃないだろ。いや、別にお前の矜持なんぞどうでもいいっちゃいいんだが……やっぱり納得できん」

 難しい顔をして考え込む口から答えらしい答えが終ぞ出ないまま、局舎の表玄関まで辿り着き、自転車通勤の田実は今日はバスで来たという佃と別れる。

「ありがとうございました」

「ああ、気を付けて帰れよ」

 背を向けて最寄りのバス停の方へ向かう佃はその途中、ふと足を止めて振り返った。

「おい、ボーヤ。お前この土日暇か?」

「いいえ、予定はありませんが暇ではないです」

「家で嫁の相手をしているとか、そんなところか」

 からかうような口調での問いに、苦笑しつつも素直に頷く。

 佃は凶悪な面相にあくどい微笑を浮かべ、しかし、それ以上追い打ちを掛けるようなことはなく、じゃあくれぐれも嫁と仲よくな、と去っていった。

 その遠ざかる背中に、とにもかくにも自分は助かったのだと実感した田実は、追っ手が来ないうちにとばかり自転車置き場に向かって駆け出した。

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