2月 一年で最も短い月(9)
田実はあまり自分から話を振るようなことはしない。
家でも、職場でも、どこでも。
会話も気を遣うのも面倒臭いからだが、ごくたまにあとの考慮なしに言葉が口からつるっと出てくることがある。
「佃さんと奥さんってどんな感じですか?」
始業前、ロビーのソファで携帯電話をいじっていた佃の前を通り掛かり、ふと口にした疑問もそういう類だった。
んあ? と、やや間の抜けな声とともに顔を上げた佃は、眉をひそめる。
「何だよ? 気になるのか?」
口角の片側を微かにつり上げたのと、からかうような口振りからすると、どうやら興味を持ったようだった。
「……気になります」
しまった、と思いつつ答える。
思わず口からこぼれた何気ない疑問。そこから話を大きく発展させるつもりはない。
収納係強面三人組のなかでも佃はちょっと地雷が多い。できれば、そうか、そりゃあよかった、などと言いながら引いてくれるのを期待したが、生憎思った以上に興味を持ってしまったらしい。
「余所ンちのことなんぞまったく気にしないのに珍しい。何かいやなことでもあったか?」
相手が山木や小寺辺りならためらいながらも答えただろう。しかし、佃の地雷は、はたしてこの手の話題だとどこにあるのか。
皆目検討もつかずうろうろと視線をさまよわせ口ごもる。沈黙が地雷かもしれないと思わないでもなかったものの、余計焦るばかりで考えはまとまらなかった。
これはもうひたすらに謝って退散した方がいいかもなと覚悟を決めようとしたその時、
「また嫁の機嫌悪いのか? いよいよお前は恐妻家って奴だな」
核心にかなり近い部分を突かれ、さまわわせていた視線を慌てて戻した。
にやりと口角を歪めた佃は、まあ座れよ、と隣に座るように促し、言う。
「馬鹿だよなお前、昨日のことやらさっきの質問からそれ以外考えられないだろ」
「まあ……そうです」
腰を下ろしながら曖昧に頷く。
確かに昨日の朝はその前日の妻の理不尽な怒りで精神的に参っていた。
ただ、今朝のこの気分の落ち込みは、昨晩帰宅後、夕食の準備の手伝いを拒否できなかった自分の弱さに辟易したからにほかならない。
自分は妻に弱い。異様に弱い。余所はどうなのか。そう、たとえば新婚ではないけれど仲がいいらしい佃さんのところは――先ほど口からこぼれおちたのはそれだった。
「……どうなんですか?」
「うちは嫁がとことん俺を甘やかせている、そんな感じだ。とにかく嫁は俺に甘い」
「甘い、ですか」
「甘い」
“甘い”という単語がとことん似合わない佃の顔を見つめ口ごもっていると、佃は眉間にくっきりと縦皺を刻み、何だよ、と凄んできた。
「俺の嫁が不出来だとでも思ってたのか?」
「い、いえ! 出来た奥さんだというのは知ってます! 五月の飲み会で大変お世話になりましたし――」
昨年五月の佃邸でのあの飲み会にて、夫人は夫が酔い潰れたにもかかわらず、夫を酔い潰した相手の接待を実に甲斐甲斐しく行った。
確かその時、そうするようにと夫が予め言っていたからとにこやかに言っていた――佃さんの奥さんが佃さんを甘やかせるというのはそういうことか?
夫人の立場からすれば、あのような非常識な飲み会は計画段階で断りたいところだろう。嫌々引き受けたのであれば、夫が潰れた時点で何かしら理由を付けて同僚たちを追い出してもおかしくない。にもかかわらず追い出さなかったどころかお開きになるまでしっかり面倒を見た。
もちろん佃が暴君だから仕方なくという可能性もあるが――というか今し方まで深く考えることもなくそう思っていたが、佃夫人を自分の妻に置き換えて考えると、むしろ夫人の懐が深いからなのではないか。
「――本当にやさしくていい奥さんですよね」
「どうだかな」
佃はくくっと嗤う。
「嫁が言うにはな、俺に甘えるよりも俺を甘やかせる方が楽なんだそうだ」
「楽……ですか」
そうだろうか、と考えてみて、確かにそうかもしれないと思い至った。
傍若無人でわがままな佃だが、他者に押しつける要求の幅は実のところあまり広くはない。
たぶん「他者の希望や願望を聞くのが嫌だから」だろう。
山木の秘密を知って、必要以上に強請りに使わなかったのもそう。他者を圧迫するすぎたわがままは自分の身に跳ね返ってくると、きっとそう思っている。
夫人からしたらいくら愛している、愛されているといっても夫の嫌なことをするのは嫌に違いない。
だから、佃に甘えるのではなく、佃の負担にならない範囲で甘やかせる。
楽というのは、そういうことだろう。
「……幸せですよね、佃さん」
「そうか? 幸せか? 俺としてはもっと甘やかせたいんだがな」
怪訝そうな口調で言いながら、その表情はゆるんでいた。
自覚があるのだろう。
そんな佃を見つめ、ぼそりと呟ように言う。
「ぼくは……何か不幸な気がします」
表面上だけでいうと田実は佃夫人に近く、妻は佃に近い。わがままな妻は田実に甘えていて、田実はそんな妻を甘やかしているように見えるはずだ。
しかし、甘やかせるしか対処のしようがないから甘やかせているだけで、そこに幸せを感じているかというとよくわからない。
かといって、妻に甘えたいかというとそれはそれで何となく有り得ない気がするのだが。
「肝の小さい男だな、お前って奴は」
「肝の問題ですかね? これって」
ほんのわずかな沈黙の後、顔を見合わせ、しばし見つめ合う。
細い眉を片方跳ね上げて目を細め、口もとを苦く歪めた佃は不機嫌な言葉を発するかと思いきや、
「まあ肝の問題じゃあねえな」
とあっさり認めて息をつく。
「しかし、妙な感じだな。お前が恐妻家ってのも」
「……そうですか?」
「そうだろう? お前、見た目にそぐわずキツい性格してるじゃねえか。態度は控えめだがズゲズゲ物言うし、容赦しねえだろ」
思い当たるふしがなく、眉をひそめる。
「そんなことはないと思うのですけど……」
「よく言う。昨日井上のクソガキ半泣きだったじゃねえか」
それに関しては覚えがないわけではなかったので口を噤み、改めておずおずと切り出す。
「でも、別に僕は怒っていませんでしたし、ズゲズゲ言ったつもりもありませんけど……」
「けどお前、クソガキがちゃんとできるまで全ッ然許さなかったろ?」
「それは仕方ありませんよ。間違いはしっかり直してもらわないと自分にも被害が及びますし」
何度でも間違いは正した。細かいところまでチェックして合うまで指摘し続けたのも確かだ。
「肩代わりすりゃよかっただろ」
「嫌ですよ、万が一にでもいつでも肩代わりしてもらえるなんて思われたら困ります」
「それだそれ」
と佃はこちらの鼻先を指さした。
「お前、言う時は言うじゃねえか、必要以上にはっきりと。最近じゃおやっさん相手でもためらわねえだろ」
「何でもかんでも言うわけではありませんよ。あくまで手間を回避したい時だけです」
「はっ! ここに来たばっかりの時はビクビクしてたのにな!」
嘲笑うように言われて多少腹が立ったが、ここであまりグズグズ言い募れば怒り出すだろうと思い、慣れですよ、と控えめに返す。と、
「ああ、まあ慣れだろうよ。仕事そのものは難しくねえ、むしろシンプルな職場だ。特殊型だの何だの変な道具使わなきゃならなかったりもするが、そこが気にならないのならば、あっと言う間に慣れるだろ」
今度は嘲る様子なく淡々と佃は言い、そして、続ける。
「ここは人間関係もシンプルだ。男の嫉妬は汚えっていうが、そういうのを表立ってまき散らす面倒な奴はここにはいねえ。阿呆みたいに気難しいってのもいねえな。多少癖があるのはいるがコツさえ掴めば何とかなる。本庁に比べたらここは平和だ――お前ここに来て十ヶ月とちょっとか? それくらいあればお前は適応できるタイプなんだろう。俺もお前はかなり適応力のある奴だなと思う。仕事の出来は並の並だが、お前みたいな性格ならどこでも案外平和にやり過ごせるだろう――で、だ。お前、結婚して何年だよ」
「え」
褒めるつもりなのかな、褒められてるのかな、褒められてるのだろうな、何となく褒めてる感じがするって程度だけど、と要点は押さえつつもほとんど流し聞いていた田実は、突然問われて硬直したが、何とか答える。
「……っと、一年と五ヶ月、くらいです」
しかし、今まで仕事の話をしていたのに、どうして結婚の話に飛んだのか――
「職場は十ヶ月ちょっとで慣れた。なのに新妻は慣れないのか? 職場でしっかり言いたいこと言っているのに家では恐妻家ってのがな、不思議っつうか、変な奴だなってな」
なるほどそこか、と内心頷きながらも、家でも職場でも自然体だと思うことすらないくらいだらだらと生きている田実は眉根を寄せて首を傾げる。
「……そうですか?」
いかにも納得いかないというその態度に機嫌を悪くするかと思わないでもなかったが、さして気にする様子もなく佃は言う。
「だからこそ気になるんだよな、お前の嫁」
言いたいことは大体わかった。
決して甘くも優しくもなく場合によっては容赦もない男を恐妻家にする女というのはどのような感じなのか――おそらくはそういうことだろう。
だが、どうしてそこまで難しい想像をするのか。
「昨日も言いましたが普通ですよ。まあ、昨日小寺さんが言っていた通り、北島さんをうっかり不機嫌にさせちゃったりするような感じではありますが」
「いや、それは普通の範疇じゃあねえだろう」
呆れたようにそう言った佃は、片手で顎の辺りを撫でながら中空を睨めつける。
「……わからねえなあ」
まあ悩むことでもねえんだかな、と言いながらも腑に落ちなそうな表情でひょいと立ち上がった。
壁の時計を見ると始業まであと一分。
「そのうち見せてもらうとするか」
「面白くなくても責任は取りませんよ」
遅れて立ち上がりながら言うと、だからお前のそういうところがわからなくしてるんだって、と佃は笑った。
「お前の場合、かわいいオンナノコ相手でも容赦なさそうじゃねえか。それがどうして恐妻家なんぞしてるんだ?」
「……どうしてでしょうね」
そんなの自分が知りたいくらいですよ、と、そこまでは言い切れず曖昧に笑う。
「まあいい――井上のクソガキは昨日に引き続きその持ち前の容赦ない粘り腰でしっかりシメておけよ。今日俺、残業だからな。万が一少年絡みのトラブルなんぞあったら覚悟しとけ」
「ちゃんとしますよ。そこまで言われてしくじるようなことはしませんというかしたくなんてありません」
肩越しに振り返った佃は、力一杯といった風に眉間に皺寄せて、本当にお前の嫁はどんなんなんだよ、とぼやくように言った。
そうして前日以上にきっちり井上の面倒を見た結果――もちろん、それだけが原因ではないだろうが、その日の佃と野口の残業当番は激しく暇を持て余すほどに仕事がなかったらしい。
翌日、佃からちくりちくりと嫌味を言われる破目になったが、もっとも、ここで理不尽だと声を上げることが出来る人間ではないから恐妻家なのだろうなと思いながらも面倒で、しっかりと聞き流した。
それよりは井上の「絶対ちゃんとやるから今日は放っておいてほしい」という懇願の方がうっとうしく、じゃあ今日はもう何も言わないでおこうかと放置した結果はというと、田実自身が宮本と一緒に入った残業当番にはっきりと現れた。
前日前々日とは打って変わって日中誰にも監視されなかった井上は大量のミスを生産。それが直接の原因で田実は宮本に睨まれつつ延々残業する破目になった挙げ句――
「……何でこんなに遅かったの?」
「いや、何で、というか今日残業当番だったし……」
「残業当番でもいつもはこんなに遅くないよね? 確か正行さん前に夜の八時以降は宿直の人に引き継ぎするって言ってた気がするんだけど? 何なの? 何でなの? どうしてこんなに遅いの? 私の顔が見たくないから? 私と一緒に晩御飯食べたくないから? それとも私が一人寂しく暗い食卓でご飯が冷めていくのを見つめながら泣いている様子を見たいとか? ひどいよね? 底抜けの悪意を感じるんだけど、このドS!」
「……ごめん」
「ごめん、じゃないよね? 悪いことしたのはアナタだよね? もっとていねいに謝りなさいよ、謝る時はどうすればいいと思ってるの? ねえ! ねえってば!」
「……本当に申し訳ありませんでした」
言われてみれば何でぼくって遼子さんを前にしたらこんなに卑屈なんだろう、と内心で首を傾げつつ、暗い食卓の傍らに仁王立つ妻に向かって土下座したのだった。
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