12月 年末狂詩曲(7)

 穏やかに暮れる年末に妻と第九を――ありきたりでしあわせなシチュエーション。

 劇的だがどこか清廉で、天上かくやというには低俗なきらいもある第九は、おおよその人間の一年の回想用のBGMとして打ってつけだと言えなくもない。たとえ年末第九の始まりが、オーケストラの餅代稼ぎという生活感溢れまくった事情だったにせよ、悪くない選曲だと思う。

 おそらく日本全国津々浦々で行われている年末第九。そのうちの一つのチケットを図らずも手にした田実は、二階席の中ほどで柔らかな座面に深く腰掛け、比較的硬めの背もたれに身体を預けて、アマチュアにしてはそこそこ上手い部類に入るのではないかという演奏をぼんやり聴きながら一年を振り返っていた。

 とにかく変化の多い一年だった。異動して、理解不能に近いものを見せつけられ、知りたくもないことをいくつも知らされて、そのはてに自分自身も理解不能なものを理解不能のまま手に取ることとなった。

 けれども、こうして呑気に演奏会などに来ている辺り、おおむね平穏と言わざるをえない一年だったのではないか。

 大体、たとえ未確認生物がいなくとも危険はそこらじゅうに転がっている。殺すぞと喚き果ては凶器まで持ち出す滞納者達、停水に赴いた家の荒れ放題の庭にいるほとんど野犬の飼い犬、蜂や蛇、ムカデ。また、他者から危害が加えられなくても、自分で自分の首を絞めるようなトラブルを起こすことがないとは言い切れない。

 生きている以上、大なり小なり危ない場面というのはついて回るものだ。

 何事もなければ来年もこんな感じなのだろう。きっと再来年も。五年くらいしたら局から出たいなあ、と近い将来を杜撰に思い描く。

 そう、次は本庁でも出先でもいい。

 どこでもいいと思えるくらいには強くなったのかもしれない。


 気が付いたらいつの間にか拍手で、どれだけ手を叩いてもアンコールはなかった。


「アンコールなかったねぇ」

 終演後、人の流れに逆らうことなくロビーへと押し流されていると、傍らの妻がぼそりと不満そうに呟いた。チケットが貰ったものであっても、そういうところは妥協しない。

 田実は苦笑した。

「いらないでしょ? 最後結構盛り上がってたし」

「盛り上がってたけどさ。でも、それとこれとは別だって」

「そう?」

「だって一曲目、何だっけ? ドヴォルザークの英雄の歌とかなんとかって、曲どころか曲名すら全ッ然知らんかったでしょ? 第九はもちろん知ってるけど、一回の演奏会のうちに知っている曲が一曲しかないっていうのもねぇ。せっかくだからもう一曲くらいさ、こう景気付けに一曲ババーンッと――何笑ってんの」

 限りなく小声で、できる限りのアクションを交えた遼子の力説。同意してほしくて言ったのにかわされて、一生懸命に取り繕おうとしている妻の行動を理解した上で、田実は苦笑いのまま答えた。

「おかしかったからだよ」

 そして、納得いかないとばかりに口を尖らせた遼子に、その機嫌をそれ以上損ねないようやんわりと言う。

「気持ちはわからないでもないけどね。でも、元々第九だけのつもりで聴きにきてたんだし、そこでひとまず満足しておかないと、楽しくなくなるよ」

「……別に楽しくなかったわけじゃないし」

 口を尖らせたまま、ついと顔を背けた妻の頭にぽんっと手を置く――わかってるよ、と言う代わりに。

「さ、遼子さん、美味しいもの食べて帰ろう?」

 再びことらを向いた妻は不満そうな表情ながらも、

「……ファミレスはイヤだからね」

 と夫の手を取った。

「わかってる」

 あんまり知り合いに見られたくないなあ、とそんな本音は隠したまま、田実は妻の手を握り返す。

 そして、足早に会場をあとにしようしたところで、繋いだ手をくいと妻に引かれた。

 目を向けると、どこか不安そうなまなざしとぶつかった。

 何か忘れ物でもしたかな、と思いつつ、促すように首を傾げて見せると、

「ねえ、職場の人に挨拶とかしていかなくていいの?」

 出てきたのはそんな一言。

「余計な気、回し過ぎ」

 軽く息をついて首を横に振る。

 妻は眉間に作った縦皺をより一層深めた。

「でも、付き合いでチケット貰ったって――そういえば誰からチケット貰ったんだっけ?」

「……事務担当の山木さん」

 咄嗟に嘘をつく。

 付き合いで貰ったとは言ったが、誰から貰ったかは言っていなかった。今、小寺の名前を出せば、小寺のことを一度満足いくまで鑑賞してみたいと言ってはばからない遼子は、おそらく駆け出すだろう。夫としてはちっとも面白くない。

 さいわい、夫の同僚のうち小寺以外には興味のない妻は、

「山木さん? っていうと、ボーナスの時にうちに来たあの人だっけ? ふーん……、仕事の時にきちんとお礼言っておいてね?」

 案の定、気のない様子でそう言った。

 ――が、

「じゃあ、あとは……えと、誰だっけ? 総務課長さん?」

「……はい?」

 予期せぬ名前の出現に田実は瞠目した。

「総務課長さんの息子さんが出てたんでしょ? お上手でしたよとかなんとか一言言った方がいいんじゃない? 今後のためにも」

「今後って……」

 確かに今日の演奏会に、近い将来副局長昇進確実の総務課長の息子が出ているという話はしていた。水道局内に大量のチケットが出回っていた理由として。

「あのねえ遼子さん……、そういうのって嫌われるよ」

「そうかな? 大体、下心全開の人がたくさんいたからすごいことになってたんでしょ?」

「そうだけど……、課長っていってもうちの課長じゃないから、いきなり感想なんて言いに行っても向こうも引くって」

「そうかなぁ。やってみなきゃわかんないでしょ」

「やらないって」

 職場の人間と職場の外でも繋がりを持ってしまうような行動は極力しない――それは押しが弱く、間が悪く、運もツキもある方ではなく、器用とはとてもいえない田実のせめてもの処世術。

 そうでなくとも、何をしたでもないのに前任の資産税課の課長には武道経験者と勘違いされていて、おそらくそのせいで水道局に来て、ほとんど流されるままに止水栓キーから火を放つ相方と仕事をする破目になり、散々怪我しそうになった挙句、素質があると目を付けられて聴きたくもない話を聴かされて、そして、極限まで追い詰められて厄介な能力を開花させてしまっているのだ。

 これでさらにプライベートまで職場と繋がりを持ったら、きっと逃げ場はどこにもなくなる。

 職場のために命を散らす覚悟なんてない。あるわけがない。

「……今時どうよ、そんなの」

 思わずもらした一言は、さいわい妻の耳まで届かなかったようだった。

「ん? 何か言った?」

「ん? 言ってないよ?」

 笑顔でしらばくれて、ついと妻の手を引く。

「遼子さん、とりあえず駅前まで移動しよう?」

「えー、いいのかなぁ……、一言くらい言っておいた方が」

 なおも食い下がる妻を見、ああこれが年取ったらさらにしつこくなるのかなあ、と内心で溜息をつきながら、それでも笑顔を貼り付ける。

「いいからいいから、ね?」

「うーん……」

 いまだ納得していない、しそうにもない妻の手をギュッと握って歩き出す。半ば強引に。

 だが、妻はそれ以上言うことなく手を握り返してきた。あたたかい掌。


 どうしてか、何はなくとも来年もこうして手を繋げられたらいいな、とふとそんなことを思って田実は苦笑した。

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