12月 年末狂詩曲(6)
十二月も半分が過ぎ、今年もあと残すところ十日程。
しかし、もうすぐ新しい年が来るなんて雰囲気だけは皆無の職場。
「いそがしいはいそがしいですけど、停水の時ほどいそがしくならないんですね……」
朝一、窓口係で時間外の納入済通知書を受け取りながら、おおよそいつも通りの束の厚みに田実はそう零した。
新年に向けて朝も昼も夜も関係なく滞納分の支払をしようとする人間が駆け込んでくるのではないかと思っていたのだが、
「時間外はいつも通りだよ」
と、窓口係が長い守口が小さく笑った。
「滞納している人ってのは大概だらしないだろ。年の瀬だからって寒い夜に慌てて動こうとはしないよ」
なるほど……、と納得して頷いて、田実はさっと踵を返す。
「じゃあやっときますね」
振り返ることなくそそくさと去ろうとして、
「ちょっと待ってよ」
そんな声と共に上着の裾を引っ張られてつんのめった。
「よそよそしいじゃあないか、田実君」
そう言われてそれでも振り切っていけるほど田実は強くない。渋々振り返ると守口は人の善さそうな顔に媚びるような笑みを貼りつけてこちらを見つめていた。
やっぱりこの人もか――うんざりしながらなんとか笑みを作る。
「何でしょう」
「実はね、田実君、崎川市民オーケストラの第九の演奏会のチケット――」
「間に合ってます」
皆まで言わせず、昨日今日だけで何度言ったわからない言葉を口にした。
――今現在、局内は殺伐とした空気に満たされていた。
多数の職員が隣の市の市民オーケストラの演奏会のチケットを保有していて、あわよくば転売しよう、押し付けようとしているせいで。
とはいえ皆、一端の勤め人で、それなりに節度ある社会性を身につけているので脅迫紛いのことは行われていないが――というよりは脅迫紛いのことが行えるような職員は、チケットを余るほど持たされることがなく、こうなる前に転売や押し付けを終えているという方が正確か。
そんなわけで強引に買い取らせようとする輩は今はいないが、行く先々で声を掛けら続けたら、いい加減うんざりもしてくるだろう。
この煩わしさから解放されるのならばと行く気がなくても買い求めてしまう人も少なくないようで、そうして誰彼から買ったと言っては「どうして自分から買ってくれなかったんだ」と泣きつかれ、その泣きつく気持ちがわからないでもなかったりすると精神的疲労が嵩む――そんな状況下。
「毎年こうなんですか?」
昼休み。田実は温かいコーヒー缶を掌で転がしつつ、たまたま自販機コーナーに居合わせた小寺にそっと訊ねた。
数日前その小寺から貰ったチケットを盾にし、頑なに「間に合ってます」と繰り返してきて、もちろんこれからもそのつもりだが、ただ、これがこの季節恒例の行事と言われると少々つらい。
「いや、ここまでひどくはならないよ」
壁にもたれ、くつろいだ様子で缶のコーンポタージュを飲んでいた小寺はそう言って苦笑した。
「まあ、崎川市民オーケストラとよく組んでる合唱団に村沢係長と宮本が入ってるから、そのチケットノルマ云々で多少はないわけじゃあないけど……、ただ、今年はねぇ、ちょっとひどい」
物腰は穏やかだが神経は図太い村沢係長と、性格云々以前に見た目からして脅迫的な宮本――だが、二人ともノルマ以上のチケットを売る気はなく、あふれるほど出回ることはないらしい。
「でも、今回はね、二人以外に、オーケストラの団員の親がいるんだよ」
「親? 団員の親御さんが、局にってことですか?」
「うん。実際にはエキストラだけどね、高校生だから。崎川の市民オーケストラは大学生以上じゃないと団員にはなれないんだけど、大がかりな曲をする時なんかは正規の団員だけじゃ足らないらしくて、数あわせで高校生をエキストラとして入れるんだよ。そんな舞台裏なんて知らないその“親御さん”はエキストラを大変名誉なことだと思っちゃったらしくってさ」
「誰ですか」
高校生の子どもが演奏会に出るからと、職場にチケットを山のようにばら撒く親――そんなクラシカルな親バカが局内にいるのだろうかと、かろうじてそれに近そうな幾許かの職員を思い描いた田実だったが、
「総務課の室井課長」
「……え」
むしろ親バカから遠そうな名前に小寺の横顔を凝視した。
「室井課長って……そんな人でしたっけ?」
水道局に六人いる課長のうち唯一の本庁出身者で、最も副局長に近いと囁かれる室井総務課長。
歳は四十半ばをすぎたくらい。中肉中背で丸顔、柔和な笑みがよく似合う、人当たりのよさそうな外見だが、中身はシャープでクール、決して甘くない。頭の回転は速く、思考は常に合理的。相手の力量を正しく量ることができ、無理難題を押し付けるようなことはせず、下を叱る前に自分で行動して見せる。係長くらいならば実に頼り甲斐がありそうだが、課長としてはうっとうしい性格。
おそらく嫌いな言葉は公私混同。絶対口にはしないだろうが、嫌いな同僚はまず間違いなく昔気質な公務員体質の行平営業課長――だと思っていたのだが。
「意外とねぇ、子どもは別って人、少なくないよ?」
オレは子どもどころか結婚もしたこともないからわかんないんだけどさ、と小寺はぬるく笑む。
「室井課長のところは三人子どもがいるそうだけど、上二人は課長に似てソツのないタイプで非常に優秀。で、今回演奏会にエキストラで出るのは手の掛かる末っ子だとか」
「できの悪い子ほどかわいいっていうやつですか?」
どちらかというとできの悪い子ほど見放しそうな人のような……、と田実が首を傾げると、
「できが悪いのがようやく日の目を見たとでも思ったんじゃあない?」
そう言って小寺は笑みを引っ込めた。
「ともあれ、数年以内に副局長昇進確実の室井課長がすんごい真剣な顔をして『愚息が出ることになっていまして。よろしければどうぞ』的なことを言えば、出世欲はあるけれどプライドのない連中は『それはそれは! 大々的に宣伝しておきますよ』ってチケット買い取って色んなところに売るだろうし、その皺寄せは出世云々以前に年が明けたらすぐに年度末だなぁイヤだなぁ、と目先のことで精一杯な末端に来るというわけ」
「……いやな話ですね」
本庁から精神的に遠い水道局。入庁してたった三年で局に異動した田実は、出世など最初から諦めているが、ここにいる人間すべてがそうとは限らない。そういうのはできる限り見聞きしないようにしていても、時折耳に入ってくるのが現状だ。
「でも、よかったと思うよ、室井課長で。子どもの“晴れ舞台”にお客がたくさん来てほしいって思ってるだろうけど、お客を増やそうと努力することはないし」
「そうですか……?」
ここ二、三日行く先々で「チケット買って」と声を掛けられ、その都度断りを入れている。
そんな面倒臭いことこの上ない状況を作り出した張本人は、ただただ我が子の演奏会を楽しみにしているとなれば、多少なりとも腹が立つというものだろう。
しかし、
「うん、いいんだよ、ホントましなんだって」
小寺は神妙な面持ちで大きく頷いた。
「無力で弱い末端に向かって自らチケット売ろうとはしていないんだ。それだけでも感謝しなきゃ。確かに色んなとこで、チケット買ってくれい……って亡霊の囁きみたいな声を聴くのはつらいかもしれないけれども――役に立ってるでしょ? チケット」
田実は頷く。
この騒ぎを見越していたのだろうというのは薄々察していた。
貰ったチケットがなければきっと買う破目になっていたに違いなく、貰ったと言えばよかったね、と言う妻も、買ったとなると目くじらを立てるに違いなく、それを考えたら吹聴するつもりなど端からない“秘密”の口止め料にはもったいないくらいだ。
「でも……それにしてもえらく室井課長の肩を持ってるように聞こえる気がするんですけど……」
「違うんだよ、田実君」
右手でコーンポタージュの缶を握り、左手でがっしりと田実の右肩を掴み、
「本ッ当にましなんだ」
これまで見たことのないような真摯な表情を冴え冴えとした美貌の上に乗せて小寺は言った。
「今年はたまたま年末まで何もなく平穏無事に過ごしてこれたけれども、去年の夏や一昨年の秋はひどかったんだ。去年の夏は行平課長の息子さんが甲子園に行って、一昨年の秋は建設課の中務課長の息子さんを始めとして数名の局員の子どもが所属しているサッカークラブだか何だかが新人戦とやらで全国大会まで行ってカンパだよ、カンパ」
「か、カンパ、ですか」
迫力負けして引きつったが、正直なところよくある話だ。
本庁でもたまに誰かしらが何かしらでカンパを募っていたのを見たことがあったが――
「そう! 募金は当たり前。その上に、タオルに団扇に紙パックジュース1ダースにメガホンに法被にTシャツにマグカップに電卓に素麺にラーメンセットを買わされたんだよ。どれもこれも一つ千円!」
「え、気持ちじゃなくて……?」
「違う、一律千円。そして、当たり前のように全部買わされるから合計一万円! プラス札以上の募金!」
「わー……」
――さすがにそれはない、と思った。
ちなみに市民オーケストラの第九のチケットは前売りで一枚千八百円。決して安くはないが、それでも一万円よりは単純に安い。
「それ、本当に買わされるんですか……?」
「うん、“買わされる”。強制。拒否権無し。どれも日用品なんだから使うだろ買いやがれこん畜生ってやつだよ、もう……」
実際そうだとするとしゃれになっていない。
というかそれはもはやカンパではない。
「もちろん断固買わないと言い張るのは自由だろうけどね、行平課長とか中務課長とかが、でーん、と目の前に立って『買わないのか? ああ? 買わないのかああ?』って迫ってきたらどうよ? おまけに含み笑いとかされちゃったらどうよ?」
もしかして小寺さん、されちゃったのだろうか……、と思いつつ、行平営業課長と中務建設課長が脅迫してくる状況を想像してみる――だめだった。
いずれも外見こそは停水班の強面たちよりはましだが、それでも十分に強面で、何より課長らしいというかむしろそれ以上の貫禄が備わっている。それが含み笑い――そんなの到底見られたものではないだろう。
そもそも、それに耐えて抵抗したとしても、相手は強面以前に間違いなく課長である。おまけに公私混同はお手の物――となれば言値ですべて買うしかない。
確かにそれに比べたら今回のチケット騒動はましだ。むしろましというほかない。
自分たちがいる場所というのは“そういうところ”なのだ。
田実はぬるく笑む。
「とりあえず、第九の演奏会、楽しみにしておきます」
「それが一番だよ」
ようやくにっこり笑んで手を離した小寺は、コーンポタージュの缶をゴミ箱に放り、きれいな放物線を描いて消えるのを見ながらぽつりと言った。
「仕事はともかく職場のあれこれにはあえて目をつむって現状維持だ――どうせオレたち、下っ端だしね」
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