11月 人生最大のピンチ(4)
知らん住所だな――午後一に急遽入った停水分の給水停止伺兼解除報告書を見せると、市川は低く呟くようにそう言った。
本当は宮本さんと佃さんに行かせるつもりだったみたいです、と何気なく見せた田実は、え? と思わず訊き返す。
「市川さんの知らないマルキってあるんですか?」
「当たり前だ」
応える市川はにべもない。
「あるに決まってるだろ。俺は別に生き字引やってるわけじゃあないからな」
しかし、今まで市川が知らないと言ったマルキは記憶にない。納得しかねて首を傾げると、市川は眉をひそめ、こちらを睨めつけた。
「ちょっと前まではきっちり金を納めてたヤツが急に滞らせるってことがあるってのと同じように、単なる滞納者だったヤツが突然マルキになるってこともある。そんなのまで押さえているわけないだろが」
「でも、ごくごく自然な感じで市川さんにお願いするっていうような流れだったんで、てっきり何か知っているものだと思ったんですけど……」
「たまたまお前が傍にいたから俺に行かせることに決めたってだけだろう」
市川はそっけなくそう言って公用車の助手席に乗り込んだ。
まあ確かに市川さんに任せておけば大丈夫っていうの、ありますよね……、と、もそもそ言いながら、遅れて田実も運転席へ乗り込んでエンジンを掛け――
「待て」
鋭い制止の声に少なからず驚いて、エンジンを止めた。
「ど、どうかしましたか?」
やっぱり何か知っていたのだろうか、と目を向ける。
腕を組み、難しい顔をして、しばらくそのまま前方を睨んでいた市川は、ふと何か思い出したかのようにこちらへ向き直り、
「ちょっと山木君に――」
中途半端に言葉を切った。
開きかけた唇を引き結び、眉間の皺だけを深くしていく。
やはり何かあるのか。
だが、
「……山木さんに言伝ですか?」
不安に思いつつそう問うと、ふいと視線をそらし、
「いや、いい。構うな、行け」
被ったキャップに手を当てて、一層目深に被り込んだ。
一度こうなってしまうと、下手に問い続けたりすれば一喝されるのがオチだ。
だから、田実は素直に再びエンジンを掛け、車を出した。
――それでも食い下がっておくべきだったのかもしれないと思ったのは、着いた先の、荒廃という言葉が似合う古い農家の裏の広い竹藪で、外国の神話のなかにいたような気がする牛頭の異形と出くわした時だった。
逞しい男の四肢を持ち、上半身は裸、下半身に着けていたのは、なぜかごく普通のステテコ――はじめは被り物をした人間だと思った。
実際いるのだ。被り物を被ってまでしてメーターボックスの前で待ち伏せするような輩が。
普通に待ち伏せする度胸がないのか、もしくは顔に自信がないのか、それとも警察沙汰になることを予測しつつも往生際が悪い人間なのか。
いずれにせよ、そういう時は「局まで支払いに来るように交渉する」、それでも相手が引かない場合は「日を改めてくる」が正解だ。もちろん、最初から「日を改めてくる」という選択でもいい。とにかく未確認生物相手の時のように「排除する」という選択肢はない。
田実の前に立った市川は、牛頭と二、三メートルの距離を保ったまま動かなかった。
交渉するのかな、と田実は報告書に目をやり、思い出す。
報告書の備考欄、そこにはマルキの印――被り物云々はともかく脅迫してくるような人間がいる世帯に付くのは特注であってマルキではない。
「未確認生物……?」
思わず零れた自らの呟きに虚を突かれ、改めて牛頭を見つめた。
人間と何ら変わりのない四肢。身の丈も成人男性の平均身長よりは若干大きいというくらいで、厚い胸元にびっしり生えた焦茶色の体毛が継ぎ目もなく長めの首から牛頭へと繋がっているように見えても、人間ではないとは思いづらかった。
しかし、ここがマルキだとすれば、あれは未確認生物だ。
いや、でも……――田実は独りうろたえ始めていた。
市川は動かない。そして、牛頭の男も。
作業服の初老の男と牛の被り物をしているように見えるステテコ男の睨み合い。
どこまでも滑稽なのに、もはや笑えなくなっていたのは、一歩踏み出せば静謐を壊してしまいそうな空気が横たわっていることに気付いたからだ。
そう、対峙する二人は狂おしいまでのリアリティを従えていた。
市川の前にいるのは本当に人外のものなのか。あの頭の下には人の顔が隠されているのではないか。間違いなく未確認生物だとして、ならばどうして彼の牛頭はまるで人間のようなのか。
ひょっとして、知恵があるか――ふと思う。
技能研で見た怪物たちのように、“彼”は人間を知っているのではないか。
牛頭はまるでこちらの出方をうかがうかのように間合いを取って構えている。
市川が動けば、きっと牛頭も動く。
牛頭を怪物たらしめているのは、作り物のような首から上だけだ。
彼は宮本にも劣らない筋骨隆々の両腕で市川に掴み掛かるのか、それとも、たっぷりと筋肉の乗った足を振り上げるのか。
そして、市川はそんな彼に炎の帯を繰り出すのか。
その光景は、人間同士の殺し合いとどこが違うというのだろうか。
市川さん――堪らなくなって相方の名を口にする。
浅く吐き出す息に乗せるように、小さく。助けを求めるように。
藪を揺らす風音に紛れながらも、どうやら市川の耳に届いたらしい。ほどなくして低いしゃがれ声が返ってきた。
それは命令。
「俺が合図するまでは居ろ。俺がキーを突き出したら車に走って局に応援を求めろ」
小さく掠れた声は一層低い声で命じる。
「絶対に、振り返るなよ」
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