11月 人生最大のピンチ(3)

 停水期間直前の試算によれば、今月の給水停止件数自体は平均並みだった。

 給水停止伺兼解除報告書の備考欄にチェックが入る件数に限って言うと、暴力団関係者を示すマルチューは前月に比べて若干減、過去停水に絡み局員に対して暴力沙汰を起こしたことがある世帯を示す特注は若干増――いずれにしても通常の範囲内だ。

 ただ、そのなかでマルキは明らかに件数が減っていた。

 先月が三十五件とそれこそ平均並みであったのに対して今月は十三件。

 未確認生物の多くが寒さによって冬眠状態になるからというのがその理由だとしたら、冬の間はずっとこの調子で推移するのだろう。

 特に行事やイベントの類があるわけでもない十一月は最もその恩恵にあずかる月ということになる。

 予め把握していたものの、実際に十日間の停水期間中に回らなければならないマルキの件数が四件しかないという事実を目の当たりにした時、田実は改めて納得した。

 多い月には一日に二件から三件のペースで未確認生物と対峙し、ひどい時には一日に一回は思いっきり胆を冷やすような場面に遭遇する破目になるのだから、毎日未確認生物に遭わなくてもいいというだけで、随分救われた心地になる。

 係内には停水期間初日とは思えないくらいの、月次集計の頃と変わらない穏やかな空気が漂っていた。

 いつものように効率よく停水をするための手はずを整えたり、前日までに納付された分をリストから外す消し込み作業に追われながらも、痛々しく張り詰めた緊張感というのはどこにもない。

 とはいえマルチューや特注はいつも通りで、職業柄いつどこで因縁を吹っかけられるかわからないというのもいつも通り。なので、私語が普段よりほんの少し多くて、電話応対の態度がほんのちょっとだけていねいになって、凡ミスも三つくらいまでだったらお咎めなしになりそうな雰囲気になっているというだけで、頭の中に花畑が誕生したと言わんばかりの陽気に包まれているというわけではなかった――約一名、宮本を除いて。

 停水したがりだからガリーなどというあだ名を付けられた宮本は、未確認生物と素手で戦う。鍛えられた鋼鉄のような肉体は、ペットボトル原料の作業着がたちまち溶け出す劇物が付着しても大したダメージは受けないという強靭さを誇り、さらに軽トラくらいならば動かせると実際やってみせるような豪気と怪力を有している。

 未確認生物が少なくなると張り合いをなくし、覇気がなくなるのではないか――そう思っていたのだが、予想に反して宮本はえらく上機嫌だった。

 今朝などは、鼻歌交じりにスキップすら踏みそうな勢いで目を爛々と輝かせ、相方の佃がしかめ面で三歩どころか五メートル近く離れて歩くのに気付いた様子もなく、あまつさえ、ようボーヤ、停水日和だな、などと爽やかに声を掛けてきて田実はぞっとした。

 何とか返事をしたものの声は引きつり、これは怒鳴られる、と身構えたが、気に留める様子もなく歩き去り、ほっとはしたものの気持ち悪さは拭えなかった。

 なぜあんなに上機嫌なのか――そんな疑問を脳裏の片隅に留めたまま迎えた昼休み、

「山木君、宮本君を知りませんか?」

「ジムに行くと言って午後休を取り退勤しました」

「ジム? ああ、冬支度ですか」

「おそらくは」

 近くで交わされた係長と山木のそんなやり取りに田実は目を瞬かせた。

 宮本がジム通いをしているのは誰からか聞いたことがあった。が、冬支度というのとの関連性がわからない。

 傍で田実が密かに首を傾げていることなど知るよしもなく、係長と山木は話し続ける。

「しかし、半休取ってまでして行かなくてもいいと思うのだけれどね」

「停水期間中に抜けるのはよくないとは思いますが、今日の分は終わらせていますから――小寺さんみたいに有休を使い切る勢いで遊びまわっているわけではないですし」

「ていうか何でそんなとこでオレの名前出してんだよ、祐一」

 菓子パンに齧りつきながら週刊誌を読んでいた小寺が山木を睨む。

「小寺さんは有休使い切りの代名詞ではないですか」

 そうさらりと返した山木と、その横で、確かに山木君の言う通りだね、と追い討ちを掛けた係長に、うわっひっどいなぁ、と端整な顔を歪めた。

「それが事実だとしても本人のいる前では言わないっていうのが上司や後輩の在り方ってもんだと思うんですけど――ねぇ? 田実君もそう思わないかい?」

「え……、え?」

 突然話を振られ、田実はぎょっとした。

 聞いてはいたが、どこにも角の立たない気の利いた台詞を即座に吐けるようなたちではない。

 ははは……、と乾いた笑い声を遠慮がちに立てつつ、蠱惑的と表現するに相応しい微笑を浮かべる小寺を見、相も変わらず無表情な山木を見、そして、仏の如く柔和な笑みを湛えた係長を見――とりあえず係長に縋ってみることにした。

「え、っと、係長、何か宮本さんに用事だったんですか?」

「ん?」

「あの……宮本さんを探しているようなことを言ってませんでしたか?」

「ああ、そうだ。そうだったね。忘れるところだった」

 どうやら本気で忘れかけていたらしい係長は、ちょっと呼び出せるかな、と山木の方に向き直る。

 意識がそれたことにほっとして視線を動かすと、意地の悪い表情で笑む小寺と目が合った。

 目をそらしたら不自然だよなと思ったものの、そのままでは居心地が悪い。何とか笑みを作り、少し頭を下げる。と、

「別に怒っちゃいないよ」

 小寺は苦笑した。

「聞いているようないないような微妙な顔していたから試しに話を向けてみただけで――それにしても思いっきり話をそらします、というようなそらし方だったね」

「す、すみません」

「ううん、そんな気にしなくてよいよ」

 気にするなと言いながら気になるような物言いはしてほしくないです、と思ったが、もちろん口には出さない。

 そんな田実をよそに、でもなぁ、と小寺はぼやいた。

「宮本の休んだ理由って、オレが休む理由と大差ない気がするんだけどな。何かひどい気がしない?」

「え、大差ない……ですか?」

 ジムとギャンブル――双方とも一個人の趣味という点では相違ないとしても、聴こえは随分と違う。

 趣味にギャンブルを挙げる公務員というのは案外少なくないが、身内があたたかいまなざしを向けるかというとそうでもない。

 それに宮本の方は、ある意味その身体が商売道具だ。鍛えるのが趣味だとしても実益を兼ねているのだから、ギャンブルが趣味というのとは比べられないのではないか――これをどうやってソフトに意見すればいいのだろうかと迷ううち、小寺は口を尖らせた。

「そりゃあアイツの肩に掛かってる仕事を考えたら、アイツがジムに行くっていうのを聞くとその辺りが浮かんできて、何だか偉いような気がしてくるけど、でも、アイツ、色々とムラがあるでしょ?」

「……いや、あんまり知らないんですけど……」

 宮本と停水に回ったことがほとんどない、というつもりで言ったのだが、小寺は違った意味で捉えたらしい。

「まぁね、おやっさんとか夏場ものすごいからそれに比べたらまだマシかもしれないけどさ、でも、宮本のスライム嫌いって結構ひどいでしょ?」

「スライム嫌い?」

 初めて聞く話に首を傾げる。

 スライム嫌いがひどいかどうかという以前に、そもそもスライムを相手にする宮本というイメージがまったくない。

 どうも見たことない気がする、とそんな結論に達した田実が口を開く前に、横から言葉が投げかけられた。

「想像できないはずです。宮本さんと田実君が回る時にはスライムの類がいると思われるマルキは外していますから――確かに少々ひどいですからね」

 係長と話しながらも聞き耳を立てていたのか、手もとの紙の束を整えながら山木は言った。

 そうして山木から紙の束を渡された係長は、私も一度だけ見たことがあるのだがね、と言葉を継いだ。こちらもどうやらちゃんと聞いていたらしい。

「あれはよくないね。あのタイプの生き物の中身というのは硫酸並みらしいんだが、宮本君はそのなかに手を突っ込んで核を掴んで潰すのだから視覚的に色々と厳しいよ。さすがの宮本君も種類によってはかなり痛いらしいが、痛いか痛くないかは手を入れてみないとわからないそうだ」

 あれでは嫌いになるなという方が難しいよ、と、その場面を思い出したのか係長は顔をしかめたが、すぐに柔和な面持ちに戻った。

「うちには他にも未確認生物に対処できる職員がいるからね。あの類の生き物はなるべく他に回して、宮本君にはそれ以外の生き物の対処に当たってもらうようにしているんだ」

「――ですが、季節によってはそうも言っていられない時があります」

 山木がそう続けた。

「田実君も気付いていると思いますが、未確認生物の半分はスライムの類です。しかし、この時期になってくると、身体の大半が水分のスライムは、動きが鈍るのかそれとも冬眠するのか数が一気に激減して、そうなると宮本さんが対処するスライム類はゼロになります」

 ああそれで、と田実は頷いた。宮本が朝から上機嫌だったのはそのせいなのだろう。

 さらに付け加えるように小寺が言う。

「アイツがこの時期受け持つのはほとんどが冬眠しない哺乳類っぽい怪物で、それこそ四つに組んで戦えるものばっかりだから、仕事そっちのけでそいつらと組むのを楽しみにしてるんだよ。それで、張り切ってジムにも通うってわけだ。係長の言っていた冬支度って言うのもそれだよ。結局のところ仕事のためじゃあなくて欲なんだよ、欲――ほら、オレのパチンコ通いと宮本のジム通いは大して変わらないだろ?」

 それはかなり無理矢理な結論だと思うのですが、と言うより早く、

「そこのバカは放っておいてください」

 と冷ややかに吐き捨てた山木が、

「それはさておき田実君、申し訳ありませんが、午後一に市川さんともう一件追加で停水を」

 と言った。

「停水、ですか? 追加で?」

 今月担当予定の停水分はすでに出揃っている。となると――

「ええ、消し込みミスで、納入分に入っていたマルキです」

 やっぱり、と言う代わりに田実は曖昧に笑んだ。

 放っておいても窓口に怒鳴り込まれるようなことはないため、わりと大目に見てもらえるミスだが、もっとも、尻拭いさせられる方としてはそれなりに腹立たしい。マルキとなればなおさらだ。

 話の流れからして、宮本に任せようとしていた仕事だったのだろう。もしかするとミスをしでかしたのが宮本だったのかもしれない。

 いずれにせよ、代わりに市川が行くとなれば、その相方である田実も当然のことながら行かなければならない。拒否権もない。

「わかりました、午後一で」

「よろしくお願いします」

 そうして田実は山木が差し出した給水停止伺兼解除報告書を受け取った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る