10月 宿直の長い夜(4)
野口からもたらされた短いセンテンスを理解するのに大した時間はかからなかった。
にもかかわらず、しばらくの間、薄く口を開けたまま。おかげで気付いた時には口のなかが粘っこくなっていて、唾液を求めて口内でうろうろと舌をさまよわせることになった。
その間にも、田実の思考は次々と湧き出てくる大小様々な疑問や疑惑の整理を余儀なくされた。
いや、整理などできなかった。
途方もないということだけは、はっきりとわかる告白。
わずかに俯き、それきり何も言わない野口は何を求めているのか――
「それはぼくに何か関係あるのですか?」
やっとのことで口にした言葉は、自分でも驚くくらい投げやりな言葉だった。
こちらに向けられた目が大きく見開かれるのを見、ち、違うんです、と田実は慌てて取りつくろう。
「ええっと……、ええっとですね、それは市川さんと野口さんの問題で、それに、ぼくは特殊型は閉栓キャップしか使えないですし――」
「俺だって最初は使えなかったよ」
言えば言うほど泥沼にはまりそうだったのを野口の柔らかな口調が止めた。
その表情も、特に気分を害したというふうではなく、ひとまず安堵して息をつき――気付く。
「ちょっと待ってください。野口さんって特殊型の止水栓キーが使えるのですか?」
野口が以前市川と一緒に仕事をしていたというのは知っている。けれども特殊型を使えるというのは聞いたことがない。
「その、キーで……その、市川さんを斬ってしまったということは、使えるってことですよね?」
特殊型を扱えるのは収納係停水班だけ。それも全員が全員使えるようになるとは限らない。
特に止水栓キーは使いこなせる人間の絶対数が少なく、使える現役職員となると今停水班にいる職員を含めても片手で数えられる。
そこに野口の名はない。
「――正確には、使えなくなった、だな。市川さんを斬ってから」
ことのほか穏やかに、それ以上に淡々と野口は言った。
野口が“斬った”のは、市川。未確認生物ではなく、人。
それも見知らぬ人間ではなく、今日だっていつもと変わらず田実や野口の傍で仕事をしていた同僚。
やけに冷たいものがざわりと心のうちをなでて通り過ぎていく。同時にくらりと眩暈を覚え、ジン、と頭の痺れる音を聞く。
その瞬間、田実はようやく野口の告白の重みを完全に消化したような気がした。
「……市川さんを、斬ったのですか。特殊型の、止水栓キーで……。いや、そもそも、斬る、って、人を斬ることなんてできるのですか?」
抑えようとしてもふるえてしまう声で問いながら、しかし、一方で田実は理解していた。
斬れるのだ。
市川の放つ火炎が現実味を帯びた熱を持つように、きっと、野口の操っていたものも本物の刃と何ら変わらなかったに違いない。
だが――
「何で、斬ることができたのですか? 本当に斬ったのですか?」
特殊型止水栓キーが力の代償として食らうのは負の感情だという。
野口が市川を斬ったというのであれば、野口はそれだけ市川を恨んでいたということ。
だが、それで本当に斬ったというならば、なぜ野口はここに存在し得ているのか。
田実はまっすぐに野口を見つめた。穏やかな表情のなかにあって、やさしげな弧を描く目を。そこにあるかもしれない狂気を探るように――いざとなれば逃げ出せるよう、わずかに腰を浮かして。
しかし、野口はどこまでも落ち着いていた。
「――答えの代わりに、昔話をさせてくれないか。たぶん、それが手っ取り早い」
狂気などとは無縁な澄み切った静かな声音。
聴きたくなどない。だが、聴かなければ、ただでさえ長い夜がさらに無意味に長くなるだけ。
諦めの境地で、布団の外に改めて座り直す。
野口も腹を括ったのだろう。
ほんの一瞬、外から雨の音が聴こえたような気がしたあと、先ほどと変わらない口調で切り出した。
「俺が入局したのは十九年ほど前になる。高卒採用で最初の配属先が停水班だった。相方は市川さんだった――」
市川はその時すでに今と変わらない雰囲気だったという。
民間上がりにもかかわらず古参の局員からも一目置かれる存在だったが、野口にとっては単なる仕事の相方だった。
ただ、市川が使う特殊型と呼ばれるキーやキャップの力には興味があった。
「――憧れてた、と言ってもいい。小さな子どもが特撮のヒーローのカッコいい必殺技が使いたくてしようがなくなるというのにとても近かった気がする。だが、ヒーローの真似なんぞしたら大概大人に怒られたよな? 俺の顛末も結論から先に言えばそれに似たようなものだった。ただ、結末は比較にならないほど深刻だったが――」
そこで言葉を切り軽く息をついた野口は、懐かしむように細められた目を少しばかり下に向け、淡々と続けた。
「俺はどうしても特殊型のキーが使えるようになりたくて必死になった。昼休みに中庭の隅の方で練習したり、積極的にキーを持ち歩いてこっそり市川さんの後ろで真似事をしたりした。まるで子どもだった。高卒でその時まだ未成年だったといっても十八、九にもなれば物の道理くらいわかっているはずなのにな」
入局から一年後の五月の停水期間中、野口はキーをマスターした。
「キーを振るったその軌跡に生じた風がブヨブヨと蠢く赤黒い肉塊を裂いたんだ。嬉しかった。目の前には未確認生物の体液や肉片が散乱していたっていうのに、自分だけの力、自分だけができること、これでもう自分は半人前なんかじゃなく一人前だと自惚れた」
野口はおもむろに視線を上げた。そのなかに先ほどまでたたえられていた微笑はもうなかった。
その目を見つめ返し、小さく頷いて見せると、どこか余裕のない笑みを微かに浮かべたが、しかし、それもすぐに消えた。
「――俺はその年度の三月まで停水班にいた。異動の辞令が出た時には驚いたよ。特殊型を使えるのに、まさか異動させられるなんて思ってもいなかった」
納得いかないと係長や課長に食って掛かった。市川にも愚痴を垂れた。だが、誰も何も言わなかった。
「今ならわかる。俺は殺し過ぎたんだ」
力を使えるというその優越感だけで未確認生物を殺した。惨たらしく何体も何体も。
特殊型はあくまで局の利益と局員の身の安全を守るための物。未確認生物を仕留めず停水できるのならばそうするようにと上から言われていたにもかかわらず、そんな甘っちょろいことなど聞いていられるかと殺し続けた。
「そんなの外されて当然だ。でも、その頃の俺はそんなことすらわからなくて、特殊型を使える俺に対する妬みだとそう本気で思い込んだ」
辞令は覆せない。局を辞める気もなかった。
それから浄水課で三年、工務課で三年、営業課に戻ってきて窓口係で三年。そして、再び収納係停水班に配属された。
入局してから十三年目、今から六年前。
「キーを使えるようになった時には二十そこらだった俺も三十過ぎになっていた。けど、俺はやっぱり子どもだったんだ」
収納係から出された恨みは消えていなかった。
それどころか、仕事上のミスやトラブル、家庭での問題まで巻き込んで大きくなっていた。
収納係でキーを振るい続けていたら、強い自分であり続けることが出来たのに、そう、こんな惨めな思いなどしなくてもよかったのに――と。
「責任転嫁するたび、市川さんの顔が浮かんだ。俺が未確認生物を切り裂く度に苦い顔をしていた市川さん。一度だって褒めてくれなかった市川さん。俺が収納係から出される時には俺の方を見ることすらしなかった市川さん――」
いつしか市川が上を唆して自分を追い出したのだと思うようになっていた。
そして、収納係に戻った時、笑顔の一つもなく、それどころか半ば睨み付けるようにこちらを見据えた市川を目の当たりにした瞬間、それは確信に変わった。
「――俺は、未確認生物以上に、市川さんを切り裂きたくなっていた」
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