10月 宿直の長い夜(5)

 田実は野口を見つめた。

 言葉を切った野口は何かしら求めるようなまなざしをこちらに向けていたが、そうすることしかできなかった。

 野口は――少なくとも今、告白によって肉付けされている過去の野口は、田実の理解の範疇を超えていた。

 野口を狂わせた特殊型止水栓キー。

 しかし、田実の目には、たとえ火を噴いてもかまいたちを放っても、まともな利益を生み出すことなどない棒切れとしか映らない。

 便利というには力が余り、使用可能な場面は停水時、それも最早生物と呼んでもいいのかわからないほど不可思議な未確認生物を排除する時に限られている。

 確かに特殊型のキーがなければ未確認生物に対処するのはむずかしい。けれども、キーを振るうことで停水業務の根底にある事柄を解決できるわけではない。

 そうでなければもっと目に見えるかたちで特殊型の使用を奨励しているだろう。

 結局、特殊型止水栓キーは、ただの道具なのだ。誰もそれ以上の働きなど期待していない。

 もし、期待されていたとしても、命を危険にさらしてまで働きたくなどない田実からしたら、金や銀を生み出すわけでもない一本の棒切れのために狂ったという告白は、信じられないほど遠い場所に存在する話だとしか思えない。

 しかし、いや、だからこそ無性に気になり始めていた。

 この告白の着地点が。

「――切り裂きたくなった、といっても、じゃあそのチャンスを虎視眈々と狙っていたのかというと、そうでもなかった」

 田実から視線を逸らすように目を伏せ、野口は再び口を開いた。

「入局したての頃とは違って家族もいて、懲戒免職というのがどれだけ重いかというのはわかっていたつもりだったから、溜まるストレスは全部未確認生物に向けて、何とか凌いでいた。けど、そうして未確認生物を切り刻めば切り刻むほど、市川さんとの溝は深くなった――いや、違うか」

 ふと視線が上げられ、中空に向けられる。

「市川さんは俺を諭そうと歩み寄っていたんじゃあないかと思う。だから、俺が一方的に溝を作って深くしていた、というのが正確かもな。何にしても今更な話だが」

 瞬間、浮かべられた苦味混じりの笑みは、視線が下ろされると同時、すうっと消えた。

「それでも市川さんと組まされていた理由っていうのは、有体に言えば、歪んだ俺を更生させるためだったんだろう。でも、俺は自分の何が悪いのかこれっぽっちも気付いちゃいなかったから、どちらにしたって悪くなる一方だ。そうして、俺はとうとう市川さんにキーを向けた」

 五年前の四月だったよ――弱弱しく小さな声だった。

 話が始まったばかりの時だったら、もういいですよ、と声を掛けていただろう。けれども田実は静寂に耳をそばだてる。

 静かな空気に押されるように、野口は語り出した。

「収納係に戻ってきて、ちょうど一年経った頃で……、だが、実は、四月のいつ頃だったかとか場所とかは覚えていないんだ」

 ――やけに狭い視野の中心に市川がいる。

 その足もとには野口が切り裂いたのだろう未確認生物の肉片が散らばっていて、市川はこちらに向かって何かを言っている。

「俺はいつものように咎められていたんだろう。ここまで切り刻む必要がどこにあるんだ、とか、そんな内容だったんじゃないかな。その辺は妙に曖昧なのに、その最中にも強くキーを握り締めていたなんていう感覚はえらくはっきりと覚えていたりする。そして、俺はその手を市川さんに突き出して、キーを握る手に、さらに力を込めた」

 そこで野口は言葉を切り大きく息をついた。

 そうして何かを振り払うようにゆっくりと二度、三度、首を左右に振り、それからまっすぐに田実を見据えた――真摯というには、あまりに痛々しい表情で。

「未確認生物相手の時と同じように“風”が起こった。“風”は二手に分かれて、市川さんの左の上腕と右の脇腹を抉った。作業着の裂けた部分から、どんどん赤く染まっていって、俺は、ものすごく――満たされた」

 え、と田実は短く声を上げ、野口の口許を凝視した。

 満たされた――野口は確かにそう言った。

 莫迦だ、もしくは、狂っている、とそんな一言で片付けてしまえる話の主人公は、今、田実の目の前にいる野口自身に他ならない。

 おそるおそる野口の口許から目へと視線を移す。

 もしかしたら尋常ではない様相になっているのではないかと思ったが、しかし、凪のような平静さを湛えていた。

「もちろん、この話にはまだ続きがある」

 田実の疑問と不安を察したのか、野口はそう言った。

「俺の手には未確認生物と斬った時とまったく変わらない手応えが残っていた――」

 いつもと変わらない重み、厄介なものを排除したという充足感。

「――そう、俺はたぶん、その時、現実とは違う、どっかおかしなところに頭の中身だけすっ飛ばしていたんだろう。俺が現実に戻ってきたのは、何の気なしに市川さんに目を向けた瞬間だった」

 市川はなおもその場に立っていた。

 だが、その作業着はほとんど血染めで、死人と変わらないような顔色をしていた。

 野口と目が合うと、やさしい声で言った――気はすんだか。

「俺はようやくはっきりと理解した――市川さんを斬ったんだ。未確認生物ではなく、人を、未確認生物のように」

 そう言って野口は自身の右の手を見た。

 たぶん、その時、キーを握っていた手なのだろう。

「――それから後のことはよく覚えていない。気付いた時には病院のベッドの上で、点滴を受けていた」

 野口のなかではせいぜい数時間後のような感覚だったが、周りの話では二日後のことだったらしい。

 その時の課長から、市川が一命を取り留めて、すでに意識を取り戻していること、そして、市川からの言伝を聞いた。

「もうちょっと上手くコントロールしろ、と、市川さんはそれだけを言ったそうだ」

「それはつまり――」

 市川の言伝はきっと感情をコントロールしろという意味なのだろう。しかし、主語がなければ力をコントロールして同僚に怪我をさせないようにしろ、と、そう捉えられなくもない。

 市川はあえて主語をぼかしたのだろうし、そして、上層部は意図的にかそれとも偶然か、ともかく後者の意味で捉えたのだ。

 そうでなければ野口はここにはいない。

「市川さんは俺を赦した。俺はそれに甘えた」

 その日のことは事故として処理された。

 野口は戒告処分を受けたがそれだけで、市川も出血量ほど怪我は重くなく二週間ほどで戻ってきた。

「でも、俺も市川さんも何も失わなかったというわけじゃあない。まず俺は力を失った。あの時力を放った右手で止水栓キーを握ることすら叶わなくなった。いまだに忘れられないんだ、その、感覚が――こびりついて」

 人を“斬った”感覚。

 凄惨な光景とともにそれが現れそうな気がして、田実は自身の右の手に視線を落とす。

「……それで、停水班から精算に……?」

 問うと、野口は頷いた。

「上は営業課から離れた方がいいと勧めてきたが、俺は収納係に残りたいと言って断った」

「どうしてですか?」

「市川さんが最後まで勤め上げるのを見ていたかったからだ」

「……え?」

 田実がそれに対する疑問を投げかけるより早く、なぁ田実君、と殊更静かな声音で言った。

「市川さんが失くしたのはな、“爆殺”なんだ」

 “爆殺”――七月に技能研で田実を救い出した、市川の大技。

「正確には失ったわけじゃなく、使いこなせなくなっただけらしいが――」

 そんな前置きをして、野口は言った。

「――どちらにしろ、市川さんが“爆殺”を使わなくなったのは、その時からなんだよ」

「その、時?」

 引っ掛かりを覚え、思考を巡らせ、辿り着いた符号に田実は、あ、と声を上げた。

 野口が市川を斬ったのは五年前――市川が七月の技能研に出なくなった年と同じ。

 そう思い当たったことがわかったのか、野口はおもむろに口を開いた。

「“あれ”がなければ停水の効率は下がるし、危険度は増す。だが、市川さんはあんなものは別に使えなくてもいいと言った――停水の効率なんて元々気にしちゃいない、自分と相方の命くらい何がどうなっても守る、と」


 ――野口、守ってやれなくてすまなかった。


「頭を下げなきゃいけないのは俺の方なのに、俺はいまだに自分をまともにしてくれた礼すら言ってない」

 ――告白はそこで途切れるように終わった。

 もう寝た方がいいな、と野口は独りごちて部屋の明かりを消し、ほどなくして座卓の向こうから布団に転がる気配が伝わってきた。

 はたしてそのまま野口が寝付くのかどうかはわからなかったし、知るつもりもなかった。

 だが、今夜はこれ以上言葉を交わすことなどないだろうというのはわかったので、田実も布団に身体を横たえる。

 音は絶えても夜は長い。

 誰の訪れもないまま白む気配が宿直室のなかに伝わってくるまで、田実は天井を見つめ続けていた。

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