8月 気温と苦情は比例関係(6)

 料金滞納に対する給水停止時は二人一組の行動が基本となる。

 その理由は“危険を伴うから”だ。

 給水停止されても構わないという人間はまずいない。なので、未確認生物と対峙しなければならないというような異常な事態はさておいても、何かとトラブルが多い。

 とはいえ、二人なら解決するのかというとそうでもないが、たとえば、停水作業中に襲撃されるという事態は、一人が監視に立つことによって回避することができる。

 つまり、最低限の安全確保のための二人一組。

 ただ、二人一組での仕事量は、単独行動時の二分の一になっているわけで、効率の面からしたら単独行動の方がいい。

 そのため料金納入に伴う停水解除時は基本的に単独行動となる。

 田実は独りで開栓に出かけた。そう、いつものこと。

 停水時とは異なり、作業が遅れたら遅れた分、苦情が増える。性質の悪い停水対象者も、開栓は早くしてもらいたいからか、そうそう邪魔してくることはない。

 佃が閉栓した分の開栓時も独りだった。藪のなかでも土砂降りのなかでも、どれほど厄介でも黙々とこなした。助けを呼ぼうと思ったことはない。開栓は単独行動だと言われているからだ。わりにあっているかどうかはともかく、それで給料を貰っているのだから。

 世間的にどれだけ非常識でも、ここではそれが常識。嫌ならば辞めるしかない――しかし、今ばかりは、なりふり構わず声を上げて助けを呼びたかった。

 ――田実は追い詰められていた。

 文字通り、ブロック塀の角に。薄黄緑色の半透明ゼリー状の未確認生物によって。

 ここは見覚えのあるマルキの家。停水にも開栓にも訪れたことがある。けれどもこれまで開栓時に未確認生物に遭遇した記憶はない。だが、今、周りをぐるりと取り囲んでいるのは間違いなく未確認生物。

 メーターボックスを開けたと同時に飛び出してきた拳大のゼリー状の物体は、瞬く間に巨大化した。何の考えもまとまらないまま反射的に逃げた方向は隣家との境界線上に建つブロック塀の方。

 浅はかだったと後悔する間にも、じわりじわりと生物は大きくなっている。

 それでも田実は声を上げなかった。意図的に上げてもメリットはない、そう思ったからだ。

 まず、いくら声を上げても、たぶん、家人は出てこない。

 網戸になった勝手口から聞こえてくる、電話に向かって喋っていると思われる低い男の声がその証拠。

「おい、いつになったら水が出るんだ? ああ? 今そちらに向かっているはずだと? 遅えンだよ! オレがいつ金入れたと思ってんだ! 十二時半だぞ十二時半! もう一時半になるってのに何考えてるんだよ! オイ! 水停めにくンのは早いクセに出すのは遅いたぁどういう了見だ!」

 そんなに開栓して欲しければこんなものをメーターボックスに入れるな、と田実は内心で呟く。おそらく家人はわざと入れていたのだろう、と思いつつ。

 ――これはたぶん、いや、間違いなく嫌がらせ。

 未確認生物をしまい忘れていたのだとして、本当に開栓を待っているのなら、メーターボックスを確認しにくるだろう。わざわざ表に出なくても、勝手口からのぞいて見えるところにあるのだから。

 それに、男は言うことだけ言って電話を切ってはしばらくして掛け直すというのを繰り返しているようなのだが、その合間合間になぜか笑っていた。それも心底楽しそうに。

 こうして一人の水道局員が絶対絶命のピンチに立たされていることに気づいているのかどうかはわからない。が、今ここで声を上げたら、むしろ相手の思うツボのような気がした。

 加えて隣人も望み薄だ。

 以前ここに停水に来た折に市川から聞いた話、ここの家人は近隣住人から恐れられ、忌み嫌われて避けられているらしい。

 地区の寄合からも外れていて、地区長はもとより民生委員すらもこの家のことになると言葉を濁すという。

 警察に通報して因縁をつけられた住人もいるとかいないとかで、そんな家の敷地で悲鳴を上げても、助けの手は皆無に違いない。

 それに万が一、隣人が警察に通報してくれるとして、して欲しくない理由が田実にはあった。

 胸ポケットに入っているべき携帯電話がないのだ。

 そう、そもそも携帯を持っていれば、こんなことにはならなかった。検針中の市川なり宮本なり浦崎なりに応援を求めて、それで終わっていたはずだ。

 勤務中に持ち歩かなければならないという規則はないが、非常時の唯一の連絡手段として番号を係に届け出ている以上、義務も同然。

 どこにあるか見当はついていた。十中八九、市川の上着のポケットの中だろう。

 午前中、応援を呼ばれることを嫌がった市川は、田実の携帯を取り上げ、あまつさえその電源を切って自身の上着のポケットへとしまい込んでいた。

 それから返してもらった記憶がない。記憶がないというよりも、こんな事態になるまで携帯電話のことをすっかり忘れていたという方がいい。

 とにかく今、色々な理由で、田実は時折口をついて出そうになる悲鳴までも押し殺していた。

 早くここから抜け出して、応援を求めなければ。

 あれだけ家人が激しく水道局に電話を掛けていたら、すでに係内で問題になっているだろう。

 このままでは己が身も立場も危うい。

 最初、急激に巨大化したにもかかわらず、今はいやらしいまでにじわりじわりと迫り来る薄黄緑色の物体から目を逸らし、空を仰ぐ。

 懲戒免職なんていう不穏な四文字が脳裏をチラつくなか、腹は強行突破で決まりつつあった。

 目の前の生物が見掛け倒しならばいいが、もし、pHがどちらかに激しく偏っていれば、きっと作業着は溶けるだろうし、直に触れた皮膚は火傷のようになるだろう。何より、シャレにならないくらい痛むのはまず間違いない。また、触れただけで皮膚が壊死するような物質だという可能性もなきにしもあらず――いやな想像には限りがない。

 どうして自分はごくごく普通の人間なんだろう、と平凡に生きていくならこれ以上ない好条件を恨みつつ未確認生物に視線を戻す。

 家の中からは、再び男の罵声。

「いい加減にしろよ! こンの野郎! いつまで待たせるんだ!」

 行こう、そして、早く応援を――足を踏み出す。思い切って、一歩。

 待ち望んでいたかのように、物体からまるで腕のような形をした触手が伸び、くるりと足を包み込む。

 まるで優しい抱擁。しかし、伴うのは、ジュッという痛々しい音。

 うあ、と反射的に零れた小さな声。振り解こうと足を動かすが、ことのほかしっかりと抱き締められていた。

 じわっと熱が、痛みが、染みていく。

 作業着のズボンだけっていくらだったっけ? 治療費は? いや、それ以前に、普通の病院に掛かることってできるのか――滑稽なまでに現実的な思考。笑う代わりに、声なき悲鳴。

 しかし、それらは突如訪れた解放の瞬間とともに、意識の外へと弾け飛んだ。

 弾け飛んだのはそれだけではない。目の前の未確認生物の身体も。

 瞬間的に固く変化したかと思った瞬間に砕けて、辺りへと散乱した。

 まるで、硝子の破片。

 若葉を閉じ込めたかのような色をしたそれは、薄氷のように儚く融けて地面へと吸い込まれて消える。

 尻餅をついた状態で、それをぼんやりと見つめるうち、ふと視界が暗く翳り、のろのろと顔を上げた。

「随分と無茶をしましたね……、田実君」

 細く、それでいて耳につくやや高い声。

「浦崎さん……」

 どうしてここがわかったんですか、と訊ねるより早く、

「山木君からですね、連絡を貰ったのですよ」

 と、うらなりの顔にどこか頼りない微笑を浮かべた浦崎が手を差し出してきた。

「田実君が開栓に向かったはずの家からしつこく電話が掛かってきているが連絡が取れない。相手の様子も何やらおかしいし、どうもそこで立ち往生している気がするから助けてやってほしい、と。わたしがですね、ここに一番近い地域の検針をしていたので。ともあれ間に合って良かったです」

 ありがとうございます、と小声で礼を言って手を取り、細身の浦崎がよろけないように注意しながらゆっくりと立ち上がる。

 あれだけ膨張し場所を占めていた未確認生物はすっかり消え失せていた。

 ほとんどが水分で構成されたスライムタイプだったから、おそらく特殊型止水栓キーを介して水を操る浦崎の手で余すところなく氷となり、散らされてしまったに違いない。たぶん、その核ごと。

 足の方も、ズボンは右足の膝から下はズタズタだったものの、身の方まで深く侵食された様子ではなかった。一部ほんのりと赤くなっている程度で、これならば特に病院に行く必要もないだろう。

「足、万が一にでも痛んだ時は山木君に言って下さいね。病院の紹介と、保険についての説明をしてくれるはずなので」

 そう言いながら浦崎は田実の手を放し、蓋が開け放されたままだったメーターボックスの前に膝をついて開栓作業を始める。

「保険といっても大層なものじゃあなくって、毎月の給料から差し引いて積み立てている分なんですけどね。でも、勤務日数関係なくちゃんと全額支払われますから心配無用です。実際こういった怪我は日が浅い頃に集中しますしね。わたしもよく世話になりましたよ」

 ほどなくして、これでよし、と小さく呟き立ち上がった浦崎に、お手数お掛けしました、と頭を下げたあと、おずおずと訊ねる。

「ところであのー……、浦崎さん」

「何ですか?」

「その、開栓の時にこういうことってよくあるのですか」

 てっきり叱られるとばかり思っていた田実は、こんなことは慣れっこと言わんばかりの浦崎にほっとしつつも、おさまりの悪さを感じていた。

 元来神経質な浦崎がこの調子ならば、職場に戻ったあと誰かしらから叱責されるようなことはない気がしたが、なるべくならば覚悟のないまま叱り飛ばされるという事態だけは避けたい。

 単にそれだけのことだったのだが、浦崎はすっかり質問の意図を取り違えてしまったらしく、瞬間、顔からただでさえ少ない血の気をすっかり引かせて、ゆるゆると首を振った。

「い、いや、田実君。夏場はね、開栓でもこういった嫌がらせがちょくちょくあるのですよ……。これまで一度でもこんなことがあったところは、わたしたちみたいな特殊型の使い手が行くんですけど、って、わ、わたし、言ってなかったかな……、あ、いや、わたしじゃなくて市川さんか山木君が言うべきことか。ち、違う、責任逃れのつもりじゃあないんです、うん」

 つまりは予め説明されているべきことなのだろう。

「八月はね、その、とっても大変なんですよ、田実君」

 八月はこんな感じで進行していくのだろう――どこか他人事のようにそう思いながら、田実は曖昧に笑って見せた。

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