7月 技能研の熱い一日(6)

 平均的な人間の倍近くある筋肉質の胴に鰐の顔と四肢、そして、尾をくっつけたような怪物――それが田実たちに宛がわれた未確認生物だった。

 木箱からそれが出てきた時、これまでよりも実在の生物っぽいことを喜ぶべきか、それともこれがまともな生物のように見えてしまう自分を哀れむべきか迷ったが、ふと傍らの宮本を見て後悔した。

 作業着の上着をTシャツもろとも脱ぎ捨てた宮本は、目の前の怪物を嬉しそうに睨みつけている。その露になった、さながら弾丸のように艶やかで硬質的な上半身は、美しすぎてむしろ怖い。真に悲しむべきはこんな男の一味と思われることかもしれない。

 唯一の救いはその斜め前方に立った市川がいつもと変わらない様子でいたことだった。猛るでもなく沈むでもない静かな背中と横顔が、自身の役割を思い出させてくれる――市川と目が合う時が、動く時。それから、いつも通りに対マルキの閉栓を。

 宮本への野次がほとんどの歓声を裂いて雷管が鳴り、市川と宮本が鰐の怪物に向かって駆け出しても、田実は冷静な心地でその場に留まることができた。

 宮本は驚くほど機敏に、怪物が手にしていた棍棒を蹴り飛ばし、ためらう様子もなく四つに組んだ。

 ジュッ、と、いやな音がした。

 ほどなく刺激臭が漂ってきたところからして、怪物の皮膚から何か分泌されているのかもしれない。かといって、手を緩める様子はない。

 市川は、宮本が怪物と組んだと同時に怪物の背後に付き、ある程度動きが止まったところで飛び乗って肩に足場を確保すると、その頭にキーを突きたてた。

 次の瞬間、怪物の脳天に膜のように広がる炎。

 ギョロギョロとした眼球の奥におさまった細長い瞳孔が広がる。

 吼える、と思ったが、それよりも早く、四つ身の体勢から起き上がった宮本が怪物の喉を突いていた。

 大きく開かれる鰐の口。仰け反る巨躯。

 肩車の要領で器用に身体を残した市川は、今度は怪物の頭の側面にキーを当てて炎を浴びせる。

 そして、そのさなかに、こちらに振り向いた。

 その唇が、走れ、と声なき言葉を刻む。

 頷くと同時に田実は駆け出した。

 メーターボックスまでは広めの歩幅で十歩もない。平屋のトタンの壁にぶつかるようにして辿り着くなり、しゃがみ込んで蓋を開け、眼鏡を外す時間も惜しく、その上から無理矢理ゴーグルを掛ける。

 そして、いつも腰にぶら下げている特殊型ではないキーを使って手探りで水を停め、キャップを掛け、眼前に広がる三次元CADのような画面がいつもと寸分も違いないことに安堵の息をつき、いつも通りに締めた。

 これでおしまい、と、小さく呟いて立ち上がり、協会職員がいるであろう方向に向かって手を上げながらゴーグルを外す。

 ちょっと呆気なかったかな、と余裕の微笑すら浮かべそうになった――その時だった。

「逃げろッ!」

 鋭利な声。市川の。

 誰に宛てたものなのか確認する間もなく田実は跳ね飛ばされた。

 広がる視界。黒くて白い。衝撃の重さと、身体の軽さ。それらを実感した瞬間、何か柔らかいものに当たって、ずるりと墜落した。

 硬い衝撃の代わりに伝わってきたのは比較的柔らかな感触。

 下から聞こえた短い悲鳴に慌てて身体を起こそうとしたが、腰から下が重くて動かない。

 いったい何が起きているのか――身体を動く範囲で動かして、ギョッとする。

「あ、れ……協会の人? え……、宮本、さん?」

 下敷きにしていたのは協会の職員。どうやら彼がクッションになってくれたおかげでさほど痛い目に遭わずにすんだらしい。

 上にうつぶせで倒れ込んでいたのは宮本。背を横切るようにた三本の赤い筋から血を流しながら、うう、と呻いて身体を起こす。

「畜生……! あの尻尾、結構強力だったのか……!」

 少しは感謝しやがれボーヤなど言いながら荒い息をついたところからして、かばってくれたということだろうか――いや、かばう? 何から?

「宮本さん、ぼく、締めましたよ」

 キャップを締めて、協会の職員にそれを知らせたら終わりではなかったのか? あとは協会の職員が縛鎖の力を使って怪物を拘束するなりして――

「ボーヤ! ぽかんとするな! よけろ!」

 軽い衝撃を受けて転がる。

 地面に転がったということを自覚したと同時に、太い爬虫類の腕が傍らの地面を割るのを見、声にならない悲鳴を上げ――気付く。

 閉栓が終われば協会の職員によって見えない鎖に縛られるはずの未確認生物が、まだ動いていることに。

「動け! ボーヤ――田実ッ!」

 宮本からはここしばらく呼ばれたことがなかった本名が効いた。

 田実はもう一度転がるようにして起き上がり、怪物の横を擦り抜け、水道協会の職員を抱えて片膝をついていた宮本の横に滑り込む。

「宮本さん!」

「コイツを頼む!」

 まるで物のように腕のなかの青年を押し付けると、宮本は怪物の方に突進していった。そして、再び四つに組む。

 そのまま押さえ込むかと思ったが、逆に押さえ込まれ、呻いた。

「宮本さん……?」

「たぶん、未確認生物のリミッターが外れたんです」

 田実の膝を枕にしていた協会の職員が応える。

 そうして苦しそうに喘ぎながらもゆるゆると身体を起こし、止めようとする田実を目と手で制して、よろよろと立ち上がった。

 まるで子どものように軽々と宮本に扱われていたが、上背は田実よりもある。

 離さず持っていたキーの先を怪物の方に向け――首を振った。

「ダメだ、やっぱり効かない」

 そう言って顔を手で覆う青年に、田実はおずおずと訊く。

「効かない、って、その、あの、縛鎖が、ですか?」

 ええ、と彼は力なく頷いた。

「私の役目は実技の前後に未確認生物を縛り誘導するだけではありません。実技の間、万が一の際に未確認生物を拘束できるよう常に圧を掛けているのです――」

 ああ、と思い出す。大概のアクシデントは水道協会の人間が何とかすると市川は言っていた。同時に、そうとは限らないこともままある、とも。

「――ただ、この力には、予め別の何らかの力が作用している時には効果がない、切り替えの際には、いったん力をオフの状態にしなければならない、という欠点があります。切り替え時の空白時間というのは微々たるものですが、その瞬間に別の力が入り込むと……」

 そこで言葉を切り、彼は宮本と四つ身になっている怪物に目を向けた。

 このようになる、ということだろう。

「今、あの鰐のような生物には誰かの力が作用している、ということですよね」

「はい……、拘束しようと力を掛けた時の感触からして、あれは“支配”。おそらく西部の庄野さんの力ですね。もっとも、庄野さん以外にこんな馬鹿げたことする人なんていませんけど」

 青年は冷ややかに言った。

「庄野さんの力は“支配”……」

 呟きつつ、見学席の方に目を向ける。

 被害が及ぶのを恐れてか、元来のスペースより随分後退した場所に見学者たちは固まっていたが、そこに庄野らしい姿は見当たらない。

「おそらく庁舎の方から見てるはずですよ」

 田実の視線の意味を察したらしい青年はそう言って溜息をついた。

「あの人の力は命令の内容が単純ならば対象から離れていても効果があります。そうでなくとも一度下せば後はオートのはずです」

 あの時――“動かないモノを消し去る力”を持つという佐東が怪物を消し去った時、庄野が未確認生物に下した“命令”というのはきっと「停まれ」辺りだったのだろう。

「今は……今は、あの生物は何て命令されているのでしょうか?」

「そんなこと訊いてどうするのですか?」

 冷たいような、それでいてどこか気遣うような声音に、田実は首を振った。

 怪物の視線は宮本と組んで尚、真っ直ぐにこちらに向けられていることには気付いていた。

 命令の詳細な内容はわからない。けれどもターゲットが自分であるというのは、いやでもわかった。

「庄野さんは市川さんが技能研に出てくると必ずこういう嫌がらせをするんですよ。市川さんのチームメイトを攻撃目標にしていたぶる――そう、それも市川さんがいる時だけなんです」

「それは……なぜですか?」

 庄野が市川に何らかのわだかまりを抱いているのはわかったが、どうして目標が市川ではないのか。

 どうして――自分なのか。

「知りません」

 今度こそ冷たく硬い声で青年は答え、声を荒げた。

「迷惑なんですよ。私もそうですし、私の前任者もずっと困っていた。しばらく市川さんが休んでくれていたから安心していたのにどうして今更! 縛鎖の穴をついてこんなことされても――」

 しかし、徐々にトーンダウンして、それはやがて溜息に変わった。

「――ああ、何でこんなに熱心にこんな仕事をしているんでしょう、私は」

 その気持ちは痛いくらいにわかった。

 何でここはこんなにも戦場めいているのか。給水停止業務技能研究発表会の会場ではなかったのか。

 そういえば市川はどこへ行ったのだろう。ふと、気になってその姿を求め、すぐに見つける。

 最初の立ち位置だった辺り、止水栓キーを四つに組む宮本と怪物の方に向けて、なぜか顔を伏せていた。ピクリとも動かない。

「市川さん……?」

「遅いですね」

「え?」

 訝しげな声に傍らを見る。と、こちらに目を向けた青年は首を傾げた。

「いつも一瞬ですよね?」

「え……?」

 確かにいつも火炎放射で一瞬にして消し炭にしてしまうが、これほど大型の未確認生物を相手にするのを見たことはない。

「いったいどんな火炎放射を……」

 そう言って目を瞬かせたところで、青年は眉をひそめた。

「何言ってるんですか。火炎放射で片付くはずなどないでしょう」

「え?」

「あなた――ええっと、田実さん? 一緒に仕事しているのではないのですか?」

「……え」

 その瞬間、田実はひどく動揺した。

 市川は火炎放射で未確認生物を斃すのではなかったか。

 そうでなければいったいどうやって守ってくれるというのか。

 なぜ一瞬で斃せるというものが、いまだ斃せないのか。

 わからない。

「あ……、ああ……」

 急に怖くなった。

 身体が意思とは関係なく震え始めた。

 自分の座り込む地面が何故だかぐるんと動いた気がした。

「あの、田実さん?」

「あ、え、っと、し、知らない、です」

 ここは西部水道企業団内のグラウンド。今日は給水停止業務技能研究発表会。

 ただの仕事でただの研究会で、実技が終われば講習会で、それが終われば水道局に戻るだけなのに。

 ああ、何でこんなに熱心にこんな仕事をしているんでしょう――隣に立つ青年の言葉を頭のなかでトレースしても震えは止まらない。

 知らないのだ。

 田実は結局ほとんど何も知らないままにここに来た。

 自分はこの状況からいったいどうやって脱却するというのか。

 必ず助かる――今、自分のなかにそれが確信出来る材料となどどこにもない。

 知らないということがこれほど恐ろしいことだとは知らなかった。

 いや、今、知った。

 市川と一緒に仕事、は、している。相方だ。

 だが、火炎放射以外で未確認生物を斃すところなど見たことがない。聞いたこともない。聞かさせたこともない。

 誰もそんなことは、

「教えて――」

 ――教えてくれなかった。

 必ず守る、この実技の直前にそう言っていた市川の姿や言葉とともに、日常にいるという感覚がするりと抜け落ちていく。

 いったい何を理由に無事でいられると思っていたのか。

 何も知らないにもかかわらず。

 言葉が続かない。口は動くのに――そう思った刹那、

「おやっさんッ! もう限界ですッ!」

 宮本の悲痛な声が周囲を震わせた。

「コイツ予想以上に……ッ!」

 怪物が宮本を投げる。そして、一直線に走ってくる。

 まずい、逃げますよ! と青年が叫んで、手を引き、立ち上がらせようとした。

 でも、動けない。

 助けて助けて助けて――心が叫ぶばかりで口も身体も動くことを忘れていた。

 いったいどうやって市川は自分を守ってくれるつもりだったのか。

 ああ、鰐の化け物が口を開けて、赤い口が赤い口が赤い口が、あかいくちが。


 あかい、くちが――


 しかし、それが座ったまま動けなくなった田実を屠ることはなかった。

 その代わりに、ドンッ、というくぐもった衝撃音。その瞬間、怪物は大きく口を開けたまま、ひどくゆっくりとした動作でごろりと田実の横に転がった。

 動かない。

 怪物は、もう、動かない。

 それがわかってもなお動けずにいるうちに、静かな声が頭上から落ちてきた。

「すまん……、時間が掛かった」

 光を遮る影を辿り、おもむろに顔を上げた。

「市川、さん……」

 光を背にして立つその表情はうかがえない。

 けれども穏やかな声音に、田実は心底満たされて、脱力した。

「ああ、何でこんなに熱心にこんな仕事をしているんでしょう……」

 今一度、今度はちゃんと声に出してトレースしてみる。

 ちゃんと言えたことが妙に嬉しくて、笑った。

「ああ、死ぬかと思いました――ていうか、死んだと思いました」

 そう、死ぬはずなんてない。

 こんな場所で、こんな日常のなかで――

「あと一歩遅かったら、ヤバかったな……、すまない」

「――え?」

 身体を起こし、立ち上がる。そうして市川の表情と言葉の意味を求めたが、市川はもうこちらを見ていなかった。

 庁舎の方を睨みつけ、声を上げる。

「見たか! 坊主! これで満足か! 俺はな――」

 続きを口にするのをためらったのか息をのみ、けれどもそこで言葉を止めることなく、一層声を張り上げた。

「――もう終わりなンだよ! 畜生めがッ!」

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