7月 技能研の熱い一日(3)
給水停止業務技能研究発表会の本年度の会場は奇しくも西部水道企業団――市川が忌み嫌っているという問題の人物・庄野の本拠地だった。
とはいえ、奇しくも、とはいっても西部水道企業団は県内三分の一の市町村への給水及び検針・収納等の水道事業を行う県下最大規模の公営企業。おまけに隣には洪水の際には遊水地になる広いグラウンドを有しているため、三年に一度は必ず会場に指定されているらしい。
だが、宮本は駐車場に着く直前くらいから今この瞬間にも、何で久々におやっさんが来るって時に西部がホストなんだ、とブツブツ言っていて、それを傍らで聞くうちに、まるでこれが何かの陰謀のように感じ始めている自分に気付き、田実はふと苦笑する。
と、
「おい、ボーヤ、何ニヤニヤしてんだ?」
目敏く見て留めたらしい宮本に睨まれ、その迫力に慌てて首を振った。
「い、いえ、別にニヤけてたわけじゃあ――」
「うるせえ! ニヤけてたじゃあねぇか! テメェには緊張感って奴がねぇのかコラ!」
太い腕がグッと伸びてきて、田実の胸倉を掴む。
激しい怒声を予期して思わず目を固く閉じた瞬間、
「――体力の無駄遣いをするな」
落ち着いた声に、ピタリと宮本の動きが止まった。胸倉を掴んでいた手も離れていく。
「おやっさん」
宮本の、どこか呆然としたような声音に、閉じていた目を恐る恐る開く。
田実に背を向けた宮本と向かい合うようにして立っていたのは市川だった。いつもとさして変わらない様子で、愛用の特殊型止水栓キーを手にして。
田実からしたら当たり前に見慣れた市川が、どうも宮本からしたら驚愕に値するものだったらしい。
「おやっさん大丈夫ですか!」
「大丈夫って、大丈夫に決まっている」
宮本と市川の身長差はおよそ三十センチ。膝をつきそうな勢いで顔を覗き込もうとするのを制するように、市川は目深に被ったキャップの庇を右手の親指で持ち上げる。
「何も始まっちゃいないだろうが」
そう言う表情は淡々としていて、マルキ絡みの停水に赴く時よりは黙々とデスクワークを行う時のそれに近い。たぶん、今の市川の機嫌は良くもなければ悪くもないのではないかと思った。
宮本も同じように感じたのだろうが、しかし、どうも信じられなかったらしい。
「いや、始まっていないっておやっさん、あのクソ坊主と同じ空気吸うのも嫌だって言っていたじゃあないですか……」
はしゃぎ過ぎて咎められた犬を思い起こさせるような声音で言った宮本に、訝しげに眉をひそめた市川は、ああ、と納得したような声を上げた。
「そりゃあもちろん、あの坊主とは顔を合わせたくなどないが、今はそんなこと言っている場合じゃあないだろ」
そして、深く息をつく。
「ヤクザが何を考えているのか知らないが、とにかくボーヤがここにいる以上、俺たちはこいつを全力でサポートしなければならんだろうが――変に怪我されて、後々にっちもさっちもいかないようなことにでもなられたら面倒だからな」
どことなく歯切れが悪い――そう感じた田実は、改めて市川の表情をうかがった。やはりいつもと同じにしか見えなかったが、ふと目が合った瞬間、明らかに表情を歪めた。怒っているという感じではなく、困っているような顔。しかし、その意味や理由を気にする間はなかった。
「んー? どこかで見た顔がいると思ったらば市川じゃあないか」
市川がややゆっくりとした動作で振り向き、それにつられるように、田実も左に視線を動かす。そうして捉えた声の主が、嘲笑を浮かべてこちらを見る小柄でスキンヘッドの中年男だと認識するより早く、宮本の咆哮が響き渡った。
「テメェ! 何しにきやがった!」
一社会人としていきなりそれはないだろう、と、ぎょっとしたが、咆哮をぶつけられた男は目鼻立ちのやたらはっきりした灰汁の強い顔に浮かぶ嘲笑の度合いをやや深めたたけで、鷹揚に応える。
「おお、水停めたがりのガリー、まだ水道局におったんか? いい加減檻のなかに入っとるんじゃあないかと思っとったんだが」
「何言ってんだクソ坊主が! オレはテメェに比べたら三百倍はヒンコーホーセーだ! オレが塀の向こうに行く時は、テメェなんぞ塀のなかで朽ちてらぁ!」
公務員としてはあんまりにあんまりな宮本の言い分に、
「塀のなか云々だったら確かにそうかもしれんなぁ」
と、男はすまし顔で言い、
「だが、ワシが言っとるのは塀じゃあない、檻だ。動物園の檻だからな、ガリー。入った暁にはどこの動物園か連絡くれよ? 孫と一緒に見に行ってやる」
呵呵と笑った。
途端、鬼瓦のような顔を、もはやヒトとは言いがたいほど険しくし掴み掛かろうとした宮本を、市川がスッと手で制した。
「おやっさん! どいてください!」
そして、抗議の声を上げる宮本を一瞥し、静かに言う。
「無駄遣いするなってさっきから言ってるだろう」
静かだが、決して穏やかではない口調で言い放って黙らせ、市川は男と向かい合った。
「久し振りだな」
「ホントに。五年振りか? くたばったかと思ってたぞ」
「そう易々とくたばれそうな場所なんてないだろが」
「ここ以外に?」
「ああ、ここ以外に」
すんなり頷いた市川に、男は大きく目を見開き、次第にその表情を歪めていく。
「……えらく冷静だな」
「もう若くはないからな」
市川は男の様子に気を留めた様子もなくさらりと言って、宮本に視線を移し、さらにこちらに目を向けた。
「受付、まだだろう? 行くぞ」
歩き出した市川に、男を睨みつけていた宮本もすぐに従い、田実はしばしぼんやりと男を見つめた後、少し遅れて二人のあとを追う。
追いつくなり、市川に訊いた。
「誰ですか、あの人?」
「バカヤロー!」
間髪入れず反応したのは市川ではなく宮本だった。
怒り冷めやらないのか、田実の胸倉を掴みかけたが市川に睨まれ、バツが悪そうに引っ込める。
軽く息をつき、市川はぞんざいに言った。
「あれが坊主、西部水道企業団の庄野だ――ある程度聞いているんだろ?」
「ああ、はい」
実際のところ市川が忌み嫌っているということくらいしか知らないのだが、それを口に出していいものか迷い、ちらりと宮本に目を向ける。
「所属と名前くらいしか教えてませんがね」
どうやらその辺り、宮本にも思うところがあったらしい。
「奴の能力とかそんな類のことは言ってないんですが……」
神妙な顔をして声を落とし、言った。
「必要ないだろう。知ったところでどうしようもないからな」
そう答えてこちらに向き直った市川は、まぁアイツのことは気にしなくていい、と、やはりぞんざいな調子で言い、これ以上言うことはないとばかりに宮本に受付をすませてくるように命じた。
それきり黙ってしまった市川の隣で、受付の長机で大きな身体を丸めるようにして何かしら書き付ける宮本の背中を見つめる。
正直なところ、疑問は多い。というよりわからないことだらけだ。わかったことといえば、庄野のあだ名が坊主なのは頭を剃り上げているからなのだろうということくらいか。
しかし、田実は市川に疑問をぶつけることはしなかった。きっと答えてくれないだろうし、たとえ答えを得ることができたとしても、自分では間違いなくどうしようもないということを重々承知していたからだ。
命じられたままに動くのが楽だし安全、と田実は喉の奥で独りごちた。
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