戦え! 水道局営業課収納係

岡野めぐみ

本編

プロローグ 異動まであと一週間

 田実正行の朝は新聞から始まる。

 大学在学中に「就職活動に役立ちます!」と勧誘員に強く勧められて全国紙を取ったのがそもそものきっかけで、特別その恩恵を実感できないまま市役所へ就職、取るのをやめたところで、「市役所ならば絶対地元の新聞ですよ!」と、また別の勧誘員に押し切られた。

 以来三年間地方紙一筋。

 とはいっても、熱心に読んでいるかというとそうでもない。一面、テレビ欄、社会欄、新聞小説にざっと目を通すくらいで肝心の地方欄はまず読まない。

 大きな事件や事故があった時は別だが、しかし、都会から遠く離れた田舎でそんな大それた事柄がたびたび起こるわけもない。どこの庭で珍しい花が咲いただの、どこぞの小学生が近所のお年寄りを助けて感謝状を送られただの、微笑ましいながらも何ら仕事の足しにはならない出来事ばかりが幅を利かせる紙面にさして興味はなかった。

 そんな田実だが、今朝は真っ先に地方欄を開いていた。

 顔を紙面に寄せ、いつになく熱心な様子が気になったのか、半年前に結婚したばかりの新妻の遼子が、ダイニングテーブルを拭いていた手をとめて不審げに問う。

「知ってる人でも出てる?」

「ぼくが出てる」

「は?」

 傍らに立った妻を振り仰ぎ、ほら、ここ、と紙面の一部を指差して見せる。

 いったい何をしでかしたの、と呟いて紙面に顔を寄せ、あぁなるほど、と遼子は溜息混じりに言った。

「市役所の異動の記事……」

「うん、水道局」

「知ってる」

 やる気なさげに答えた遼子は、キッチンカウンタに布巾を置き、朝食の配膳を始める。

 本庁の資産税課から水道局へ――入庁から三年、初の異動の内示は昨日受け、帰るなり遼子に知らせた。

 その時から遼子の機嫌はすこぶる悪い。

 理由はわかっている。

 資産税課というのは年度末を除くと特別忙しいことのない部署だったのだが、結婚前からの付き合いが長い遼子は、田実と同期入庁で観光課やら商工課やらにいて忙しく働く面々がいるのを知っていた。

 もしかすると自分の夫は今後閑職巡りをさせられて出世の見込みがまったくないのではないか、そう思っていたところへ、外局への異動の知らせがきたからだろう。

 妻の横顔を見、これ以上この話題を続けるべきではないと思った田実は口を噤み、再び新聞に視線を落として自分の名前を見つめる――その上に書かれた「水道局営業課」という文字とともに。

 田実とて内示の直後は多少なりとも落ち込んでいたのだ。

 四期に渡って市政の中心に居座り続けた保守派の市長は前年引退し、次に迎えられた革新派の市長は公営企業の民間譲渡を試みているという、そんな話が囁かれるなかで、その公営企業の一つである水道局への異動。

 それで落ち込まない人間は、よほどの楽観主義者くらいだろうと思ったが、その落胆は内示のあと、ひっそりと告げられた今年度末までの上司である資産税課課長の言葉で影を潜めた。

 ――田実君って剣道や柔道といった武道の経験があったよね。

 実のところ、そんな経験はまったくない。中学から大学まで吹奏楽部という筋金入りの文化系だ。

 けれどもどうしてかこの手の間違いをされることが多く、慣れっこの田実は苦笑して、違います、と答えた。

 その直後の課長の顔が、そろそろ丸一日経とうとしているにもかかわらず、未だに瞼の裏にしっかりとこびりついている。

 決して優秀ではない彼は時折とんでもないミスを犯し、そのたびに課長の色んな表情を見てきたが、この時ばかりはそのいずれもの比ではなかった。

 まるで人生最大のミスに直面してしまったと言わんばかりの顔。

 絶世の美女と結婚したはずなのに、初夜直前メイク落として現れたのはジャガイモのような女だったとしても、あの時の課長ほどの表情にはならないだろうと思う。

 もしかしてこのまま倒れるのではないか、と不安に思ったその時、課長は乾いた笑い声を上げた。

 明らかに無理している、と察しの悪い田実でも思うような様子で一頻り笑い、そして、呼吸を整えてこう言った。

 ――田実君、危険な仕事だと思うが、君ならきっとできる。

 そうしてポンッと肩に手を置き、そそくさと自分の席に戻った課長を見送り、首を傾げた。

 おそらく課長は勘違いしたまま田実の異動先を決めてしまったのだろう。

 だが、あれほどまでに顔色を変えるほどの事柄がいったい水道局のどこにあるというのか。

 外局で公営企業とはいえ、しょせんは市役所の一部。武道の経験がないと危険な仕事など、どうにも想像がつかない。

 落胆の代わりに台頭してきたのは不安。

 もしかしたら課名まで明らかになったら課長の反応の意味がわかるのかもしれないと、その時は思っていたが、今、こうして新聞を広げ、課名を確認してもまったくもって理解不能だった。

 そもそも水道局に営業課なんてものがあること自体初耳だった田実は、しばし眺めた末、まぁいいか、と新聞から目を離し、テーブルの上に綺麗に並べられた朝食に手をつけた。

 不安はあれども、異動するまでの一週間でしなければならない引継業務が多すぎた。

 資産税課にいたのは三年間だが、今年度は任されていたのは問題を抱えた家屋が多い地区。

 それを後任者に上手く引き継げる体制を作らない限り、おちおち異動もできない。


 そうして一週間はあっと言う間に過ぎ、四月一日。

 田実は水道局員となる。

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