カクテルドレスのヨロイ
綺森
テールグリーンに託した思い
◇
「本当に妹さんと仲良しですね。目元がそっくりですし、佐川一家は美人さんばかっりなんですね!」
…ぶっとばそうかな、この人。
それかこのグラスの中身をぶっかけてやろうかな。お洒落にホットピンクカラーの花びらが浮いてるけど、ただのジンジャーエール。結婚式場だからって気取ってんじゃないわよ。
「ははは。妹は僕にだけ生意気で、まだまだ子供なんですけどね」
「そんなことないですよ、わたし」
「あはは、本当に仲良い!でも兄弟なんてそんなものだと思いますよー。わたしも4つ下の弟がいるんですけどただのワガママで困っちゃいます。でも佐川(さがわ)さん前回の打ち合わせでもお話してくださりましたけど、妹さんとってもしっかりしてらっしゃる素敵な方じゃないですか!今日はお会いできて本当にうれしいです」
にこり、と笑顔を向けられたから、グラスにくちづけた口端を無理矢理あげた。
リョク兄の前で変なことをする勇気もないわたしは、この最強にムカつくウエディングプランナーをぶっとばすことも、ジンジャーエールをぶっかけることも、その笑みを無視することも、できない。
お兄ちゃんの佐川翠(みどり)は9月の第一週の土曜日に結婚式を挙げる。籍は式を挙げてからすぐに入れて、それからハネムーンでパリに行くんだって。
わたしがもう少し小さな妹だったら、きっと駄々をこねて一緒に連れて行ってもらったかもしれない。
昨日、彼氏の伊月(いづき)にそうボヤいた。ぶつぶつとリョク兄に言えないワガママや文句を並べ続けるわたしを横目に「小さかったら、そんな兄命!には育たなかったかもしれねえよ」と伊月は飽きれたように笑ってた。
そんなわけない。バカじゃないの、ナメんな。小さくても今と同じでも、リョク兄より年上だったとしても、わたしはリョク兄が命より大切だ。リョク兄はわたしの、世界で一番、大切な人。
……あいしてるんだよ。誰よりも。
「あ、美鶴(みづる)さん!お化粧室の場所わかりましたか?」
名前を呼ばれて振り向いた先にいた人物を見て、げ、と思った。けど、それを決して顔に出さないのが大人の女ってものだと自分に言い聞かせ、無理矢理笑顔をつくる。
リョク兄の担当のウエディングプランナー。リョク兄はいない。だから必然的に、ふたりきりだ。
もちろん、笑顔にお褒めの言葉を添えるのもわすれずに。
「結城(ゆうき)さんが丁寧に教えてくださったので。兄に聞いていた通り、優しくてとても丁寧な方で、おまけにとびきりの美人さんですね、結城さんって」
「いやいやそんな!迷われなくてよかったです。よく迷われる方がいて、サロン内になくて申し訳なくなるんですよー」
「それで見に来てくれたんですね、ありがとうございます」
わざわざどうもって感じ。
それでも、腹の中でどう思っていても、冷たい言葉は選ばない。
「お兄さんが、僕と似て方向音痴なんだーって言ってたので見に来たんです。すみません、気が利かなくって」
「リョク兄ってば…」
…本当に、相変わらず心配性だな。わたしの方向音痴なんてもうほとんどなおってるのに。だてに一年間女性営業マンやってないっての。
「リョク兄って呼んでるんですね!」
「あっ、いえ…まあ…」
うわ、恥ずかしい。人前では呼ばないようにしていたのに、迂闊だった。でもなんでかな。
それに、なんだか急に、貼り付けた笑みがだんだん面倒になってくる。幼い頃から愛想良くするのは得意なんだけど、なんでかな。ガンバレ、わたし。
思うように調子がでなくて頬をかいたわたしを見て、結城さんが微笑む。
何かと思って首を傾げると「それ、佐川さんもよくやりますよね」と自分の頬をつつきながらそう言った。
「わかります、兄弟とか恋人って自分しか呼ばないような呼び方したくなりますよね。癖も一緒にいるのが長いぶん似てきますし」
「あー…」
この人、人のことよく見てる。それに、自分もそうだと遠回しに共感してることを伝えてくるから、思わず、距離を近く感じてもっと話してしまいそうになる。話さないけど。
おかしいな。初めて会った人なのに。わたし自分以外でこんなに人懐っこく笑う人、初めて見た。それにこの人はきっと、わたしと違ってウソじゃない。
…リョク兄。…翠という名前を捻って捻って、わたしが付けた、わたしだけの呼び方。
そうよ。この人の言うとおり、他の人とは違う呼び方をしたくてつくったの。
誰も呼ばない。呼ばせない。呼べない。
わたしだけの、特別な。
「心配性なんですよね、兄は」
「優しいお兄さんですね」
知ってるよ、そんなこと、誰よりも。わたしは誰よりも長くリョク兄と一緒にいたんだから。
少し離れた、打ち合わせ専用のサロンまでゆっくりと歩く。まるでわたしのピンヒールに気を遣うように。
身長は9センチのヒールを履いてちょうど並ぶくらい。わたしより二つ上だってリョク兄から聞いた。細身でスラッとしていて、日焼けしてない肌が、くっきりとした顔立ちが、透き通っていて綺麗だ。その印象は一目でつく。
その綺麗さに、いい意味で似合わない、切り長の瞳がなくなっちゃうような、にこにこした笑顔。これで話しやすい印象に変換される。この人、ウエディングプランナーって職業は天職かも。
「美鶴さんは近しい方の結婚式に出席されたことは?」
「あ、高校の時に叔母の式に一度だけ。あとは友人や職場の人の式には参列したことが何度かあります」
「あ!そうそう、叔母さまのご結婚式の時のこと、佐川さんに少しだけ伺いました」
「う。それ、アレですよね…」
ーーー叔母さんの結婚式、の話。リョク兄が人に話すそれはほぼ叔母さんのことじゃない。もちろん思い当たる内容がある。
「白いドレスが着たいって言いだしたって、佐川さん、思い出してヒイヒイ笑っていましたよー」
ウエディングのプロにアレを話すなんて信じらんない。
恥ずかしすぎて顔を手で覆ったわたしを見て控えめに笑う結城さん。
思い出すのはわたしが15才、リョク兄が21歳の時のこと。
「結婚式に白を着ちゃいけないなんてわたしも全然知らなかったです。いつ知ったのかは覚えてないですけど。だったら白いミニドレスなんて売らないでーって思いますよね」
「ええ。いやでも、それでもそんな常識を知らなかった話をしたなんて恥ずかしいですよ!もう、リョク兄は余計なことばっかり…」
初めて結婚式に出席することになったわたしは、着ていく服を買うために部活終わりの夜、仕事終わりのリョク兄と待ち合わせて駅前のデパートに行った。
色とりどりのパーティードレスが並ぶ店内はとても輝いてみえて、わたしはきっと浮かれていた。
チェリーピンクやホリゾンブルー、真っ赤なドレスまで。何着も試着しては、リョク兄に感想を聞いて。
店内を駆け回って、やっとビビッと見つけたお気に入りは、白いタッキングスカートのミニドレスだった。
『これにする!』
試着もしないでそう言うと、リョク兄は笑いながらそれはダメだと言った。
試着はしてないけどサイズも、値段だって一応確認したのに、リョク兄がダメだって言う。わたしはすごく気に入ってるのに。
何回頼んでも首を振るからふてくされた。そんなわたしの頭を優しく撫でる、リョク兄の手のひらはあたたかかった。
仕方なく、試着したアプリコットカラーのバルーンドレスにした。わざと、少し高いやつ。
けれど、店員さんに後でこっそり言われた。「結婚式に出席なら、白を基調としたものは身につけちゃダメなのよ。花嫁とかぶるでしょ?」って。買った後に言うからずるい。
リョク兄も教えてくれたらよかったのに。そう言うと「オトナになるにつれて、自然と周りから教わることだから」なんて言ってた。
恥ずかしいな。リョク兄も、6年も前のことをペラペラ話さないでほしい。調子いいんだから。後で怒ろう。
「佐川さんの挙式に着ていくドレスは見つけましたか?」
「まだなんです。新しいのを買おうと思ってるんですけど、何色にしようかとか形とか迷っていて」
友達の式じゃないし、もう成人もしてる。あまりカラフルだと派手すぎるけど、紺や茶色も、なんだか違う。
そんなことを考えてたら全然決まらなくて困った。たかがカクテルドレス1着に考えすぎなのかもしれない。
「悩みますよね。パーティードレスってたくさん色がありますし」
そうなの。コドモみたいに、何着も試着をするわけにもいかないし。
どうしようかな。青?赤?
頭の中でドレスを思い浮かべては、やっぱりなんとなく違う気がして悩んでしまう。するとなぜか、サロンに入らずドアの前で結城さんがパンプスの音を止めた。
「結城さん?」
「グリーンなんてどうですか?濃い緑って美鶴さん、ぴったりだと思います」
「え、緑ですか?」
思い浮かばなかった。だって、黄色や水色がかかった薄いグリーンならまだしも、濃い緑のドレスってあまり見ないし。
ドアを開けて押さえてくれる結城さんに軽く会釈する。
「あー…緑ですか。見かけたら合わせてみますね」
なに、ウエディングプランナーってこんな、親族やゲストのドレスのカラーのアドバイスまでやってんの?
べつにいいのに。そこまでしなくたって。
それに、緑の服なんて着たことない。本当に似合うかアヤシイし。いいや、紺で探そう。
「由紀乃(ゆきの)さんのお色直しのドレスともかぶらないので、とてもいいと思いますよ」
「……」
そうよ。どうせ、主役は由紀乃さん。ドレスの色を合わせないといけないのはわたし。純白を着れないのは、わたし。
どんなに綺麗に着飾ってもただのカクテルドレスのわたしは、リョク兄の隣から、いなくならないといけないんだ。
時間はもう、あと少しだけ。
◇
リョク兄は困っちゃうくらい心配性だ。
特に怪我に対してはすごまじい。
幼い頃に怪我をした時、泣きそうな顔でこっぴどく怒られた記憶があって、怪我にはとにかく気をつけている。けど、中学2年生の時、部活で生まれて初めて骨を折る怪我をしたことがある。
バスケットボール部だったからそれまでに何度か突き指程度はしてきたけど、その度リョク兄はひどく不安そうな顔をした。
だから骨を折った時、リョク兄には言いたくなかった。絶対に心配するから。
案の定、顧問から連絡を受けたリョク兄は仕事場で失神しかけたらしい。今では笑い話だけど、当時はかなり深刻な問題になった。
リョク兄が「部活をやめろ」と言ってきた時はさすがに驚いた。わたしは一応スターティングメンバーに選ばれるくらいの力があってやめるわけにはいかず、とにかく必死に説得をしたから、それはまぬがれたけれど。
当時の友達や彼氏はみんな、リョク兄のことを「変な人」だって言ってた。一応、高校生のリョク兄の名誉のためにフォローをいれさせてほしい。一応「とてもかっこいいのに」とも、よく言われた。
でもリョク兄は変な人じゃない。むしろわたしの方がよっぽど変な人だ。そして、もう長年、変な人を続けたままだ。
わたしはリョク兄に出会った日から、ずっと、リョク兄以上に好きだと思える人ができたことがない。もちろん今付き合っている伊月もだ。けど、それは自分のなかで“あたりまえのこと”として存在する。
リョク兄に出会った時、わたしは3才だった。
ちょうど、保育園から幼稚園にお引っ越ししたくらい。その頃、お父さんと一緒に、9才のリョク兄はやってきた。
ーーー優しいお兄ちゃん。
手のひらが真冬でもあたたかい。
なのに寒がりで、自分より背高く伸びるヒマワリが好きなんだと、出会って2度目の夏が来るまで教えてくれなかった。人見知りで、たまに優しいいじわるをする人。
パパの名前も覚えていなくて、兄弟もいなかった幼いわたしはすぐにリョク兄もお父さんも受け入れたけど、リョク兄は少し、受け入れるのには時間がかかったみたい。人見知りだしね。
そんなリョク兄。一緒に出かける時は、必ずあたたかい手でわたしの手を握ってくれた。
その手の力が強くなったのは、わたしが9才、リョク兄が15才の時。
お父さんとママを一度に失った、その冬。
リョク兄は泣かなかった。泣きじゃくるわたしの手を握っていてくれた。
わたしは、お父さんとママのお葬式の日、ふたりの遺影に顔を向けたリョク兄がこぼした、たったひとことをわすれない。
「だから、冬はきらいなんだ。でも、強くなって、必ず代わりに美鶴を守るから…」
その約束を守るかのように、リョク兄はどんな時も、わたしと一緒にいてくれる。
わたしの学校行事には必ず親の代わりにに参加してくれて。学校に必要な物は買ってくれて。部活もやらせてくれた。高校卒業後は進学しないで働いてくれた。
わたしはなるべく家事をして、家ではリョク兄が休めるように、それだけを考えて励んだ。
……ずっと、ふたりで生きてきた。
だから恋人がいることは知っていたけど、結婚するって聞いた時は、ただ、悲しかった。嫌だと、思ってしまった。
最低な妹だと思う。
そんな気持ち絶対に気づかれたくなくて、ベッタリと笑みを貼り付けた。
結婚するって言われたときのことを思い出すと泣きそうになる。
「美鶴、外に食べに行こうか」
声をかけられてはっとした。リョク兄は脱いだスーツをハンガーにかけている。そうだ、今日はリョク兄の家に来てたんだった。いつの間に、帰ってきたんだ。
「え、外……?あっ…!」
外で食べようなんてめずらしいことを言うと思った。大変、わたし、お米炊いてないじゃない。
でも研いだ記憶はあったからキッチンに向かうと、炊飯器に入れてスイッチをいれたら炊けるような、お釜に水を入れた状態のまま放置されていた。
あちゃ、やっちまった。
「わああごめん!あーあ、お米ふやけちゃったかなあ…」
今から炊いたんじゃ遅くなっちゃう。
「ごめんねリョク兄」
「いいよたまには。ほら、しょげてないで早く行くぞ」
お米炊きわすれるなんて……何してんの、わたし。
初歩のミスに落ち込むわたしの背中に手を添えてリョク兄が歩き出す。すると自然にわたしも歩き出せる。リョク兄は優しく、いつもわたしの歩みの隣にいてくれる。
わたしはその優しさに甘えてばかりで、ひとりになるのがこわい、自信がない、弱っちいただの生き物なんだ。
◇
車で10分くらいのところにある中華料理屋さんは、わたしたちが小さい頃からあるお気に入りのお店。
カラカラと鈴の音を鳴らしてドアを開けると、おじさんとおばさんがキッチンから顔を出した。
「あらあら、翠くんに美鶴ちゃん、来てくれたのねえ」
「久しぶり〜、最近いそがしくて」
返事を返すリョク兄の後ろでわたしはふたりに手を振る。
「翠くん聞いたわよ。結婚、おめでとう」
ーーー 変な、感じだ。
「わ!今報告しようとしてたのに!ありがとおばさんおじさん!」
小さい頃から知ってるおばさんとおじさんに、結婚するんでしょって聞かれて、笑顔になるリョク兄を見るの。
なんか、変だ。
わたしの世界で一番が、目の前で奪われていく感覚……。
「……っ」
失いたくない。
何もいらないから、ずっとそばに、いてほしい。
「…美鶴…?」
「あらあら美鶴ちゃん、どうしたの」
「…っ、リョク兄が……」
離れてく。わたしから。
繋いだ手を離すように。交わした視線をそらすように。今までのことを全部、捨てちゃうみたいに。
泣きじゃくるわたしに、リョク兄はおろおろと慌てていた。
わたしはあまり泣かないから、リョク兄はびっくりしたのかもしれない。
わたしも自分で驚いてる。化粧をして、ピンヒールのパンプスを履いて、少し高い服を着ても、こんなに子供みたいに泣いてしまうなんて。
とりあえず座って、ご飯でも食べなさい。
そう言っておばさんがわたしを座らせた。向かいに座るリョク兄の目が見れなくてうつむく。
お兄ちゃんの結婚を祝えないなんて最低な妹だよね。
唯一の家族に祝ってもらえなくて、泣かれてしまうなんて、リョク兄が可哀想だ。
……可哀想だ。
自分のやりたかったこと、たくさんあったはずなのに、妹のせいで、若くして働かないといけなくて。家のこともたくさんやって、自分の人生を削ってきたリョク兄。
もう、解放してあげたい。
なのに、思うようにできない。
泣くつもりなんてなかった。
「………」
だってリョク兄は、こんな環境から、こんなわたしから、解放されたかったんでしょう。だから、結婚を決めたんでしょう…。
わたしは、リョク兄の優しさに甘えてばかりいた、枷みたいなもの。
これ以上リョク兄が生きるその邪魔をしたくないのに、上手くできない。誰か、教えて。わたしはどうしたいの。
わたしは、リョク兄の幸せを望めていない。リョク兄のこと本当に………好きなの……?
「翠くんと美鶴ちゃんの好きなもの、ちゃーんと作ったからねえ」
「……」
「ありがとうおばさん」
運ばれてきたお料理はわたしたちが大好きなチンジャーロース。
ひとつのお皿に盛られたそれを、わたしは一度小皿に、リョク兄はそのままご飯の上にのせて食べる。
わたしも前はそうやって豪快に食べていた。けど今は綺麗な立居振舞をわかってる。
もう、こどもにはなれない。
「美鶴、覚えてる?父さんと母さんが危篤状態の時も、俺たちここに来たよな。腹なんて減ってないのに、ふたりきりでいるのが心細くてさ。覚えてる?」
「……覚えてるよ」
今突然聞かれたけど、覚えてるに決まってる。
雪でスリップした車の下敷きにされた、わたしたちの大切なひと。
わたしたちがここに来た時はまだ、ふたりの心臓は動いていた。確かに動いていたのに、もう誰も、ふたりの命を信じることはできなかった。
リョク兄とわたしも、理解していた。
だからこそ、死を待つのがこわくて、手を繋いで、ここに来た。
その時も机の真ん中にチンジャーロース。
ご飯にのせて、ふたりで食べた。
リョク兄はわたしと違って泣いていなかったけど、とても泣きそうな顔をしていたの。
「あの時も美鶴、今みたいに泣じゃくっててさ。あの時は「行かないで、離れたくない」って泣きながら言い続けてた。だから俺は、全部冬のせいにしようと思ったんだ。父さんと母さんが死にそうなことも、美鶴が泣いてるのも、俺が、悲しいのも」
……リョク兄の本当のお母さんも、雪の事故だったと、後で親戚の人から聞いた。
わたしは、リョク兄に頭を撫でられるばかりで、泣きそうな顔をしていたリョク兄に何もできなかったことを、悔やんだ。
「…でも今は、冬じゃない」
わたしはまた、後悔するの?
「俺のせいで泣かせて、ごめんな、美鶴」
「リョク兄っ、わたし……」
ーーー“ごめん、もう大丈夫だから”
言葉を続けることができなかったのは、リョク兄が、目を赤らめていたから。
ママとお父さんの事故の時と、同じ、泣きそうな顔をしていたから。
箸を持ったままの手をぎゅっと握られた。
リョク兄は何かを伝えたい時、必ず、手をぎゅっと強く繋ぐ。
「俺たち、少しずつ違くなったよな。行く学校も、勤め先も、住む家も…成長するにつれてさ。けど離れてなんかいない」
わたしが働くようになって、住む家はバラバラになった。
それでも一週間に一度の頻度で帰ってしまうのは、優しい笑顔でわたしを送り迎えしてくれるリョク兄がいたから。
「…父さんと母さんはもういないけど、俺は絶対に離れない。だからもう泣くなよ」
リョク兄の、あたたかい手。
やさしいかたちの爪。
困ったように、泣きそうな顔で笑ってる。
リョク兄が大好きだよ。
たったひとりの、世界で一番、誰よりも愛してる、わたしの大切な家族。
……祝えないわけ、ないじゃない。
ただ、離れてしまうみたいでさみしかっただけ。
解放されたいとか、解放したいとかじゃない。もうわたしたちは、血の繋がりよりも深くて強い、解けない糸で結ばれてる。
「…うん、そうだよね」
離れるわけない。だって、たったひとりの家族なんだから。
◇
あなたの好きなひとは誰?
そう訊かれたら、まず先に思い浮かぶのはリョク兄だ。
恋人じゃない。血は繋がらないけど、わたしの家族。わたしのお兄ちゃん。
「まあいいよ。翠さんには敵わねえのは前からわかってるし」
「そう言っといて伊月、ふてくされないでね。二番目はちゃんと伊月だからさ」
「うわ、チョーシいいな」
そう言って頭を小突かれた。だから背中を叩くと、今度は頬をつねられる。
ショッピングモールで買い物中だというのに暴れ出したわたしたちを、人が静かに避けていく。
おまえのせいだ、あんただろ、なんて言い合いながらも、伊月もわたしもなんだかんだすごく楽しい。
しばらく言い合いをしながら歩いてると、ふと、正面にあるショップのマネキンが目に入った。少し離れた場所にあるけど、わたしは目がいいから見える。
「…そういえば伊月は、リョク兄の結婚式のスーツ買った?古いからから買うって言ってたよね」
仕事中はほぼ作業着を着ている伊月は、リョク兄の結婚式を機に買うって言ってたのを思い出す。
「買ったよ。式明日だし買ってねえほうがマズイだろ」
…そうだよねえ。ふつうは、明日に控えていたら用意してるよね。
「わたしさ、実はまだなの…」
「はあ?」
そう、まだ買えずにいるカクテルドレス。決して忘れていたわけじゃないけど、お店をハシゴして何着も見たけど、しっくりとくるものが見つからなくて。
「だから、あそこ。見に行ってもいい?」
「あ、ドレスショップじゃん。ちょうどよかったな。俺が選んでやるよ」
「はー?わたしたちシュミ違うじゃん!絶対けんかになるし!」
「はっ。うぜー」
彼女に向かってうざいってなんだ!
そう思って言い返そうとしたけど、持っていた紙袋をさりげなく取られたから、何も言えなくなった。
伊月の優しさは本当にさりげないんだ。
憎まれ口をたたくし、いじわるで腹立つし可愛げないけど、笑うと可愛くて、ちゃんと見れば優しい。そこが好き。
ちゃんと好き。
お店に入ろうとしたら、肩をツンとつつかれた。
「なに?」
「これいいじゃん。マネキンのやつ」
「えっ…」
何色のドレスが飾られているかはわかる。だって歩いてくる時ずっと見てたから。
『グリーンなんてどうですか?濃い緑って美鶴さん、似合うと思います』
結城さんの言葉が浮かぶ。
「美鶴はさ、赤とか青とかはっきりした色も、薄い色も似合うけど、緑ってないじゃん。でも着ないだけで案外一番似合うんじゃね?」
飾られているのは、テールグリーンのカクテルドレス。
リボンとかお花の装飾はないけど、ゆるやかなひだのスカートが、華やかで綺麗だ。
「緑…」
「中にもたくさんあんなー。試着してみる?気に入らねえなら他見る?」
「……ううん」
試着も、他も、必要ないわ。
「緑が似合いそうってさ、リョク兄のプランナーさんにも言われたんだよね」
「へー。その人、よく見てんな」
「…そうだね」
華やかで綺麗なカクテルドレス。わたしはもうこどもじゃないから、これくらい着こなせる。そう思う。
この根拠のない自信はなんなんだろう。
「店員さんに出してもらってくるね」
「いいよ、俺が声かけるから。他に小物とか見てれば?」
「そう?じゃあお願い」
「おー」
ちょっと髪飾りも見たいと思ってたからちょうどよかった。気が利く彼氏だ。
どうしよう。緑のドレスでしょ。あまり派手じゃなかったから、このアンバーホワイトの花のコサージュとかがいいかな。
…明日のリョク兄はきっと、当日は由紀乃さんに夢中なんだろう。わたしがどんなドレスを着たって、純白には敵わないもん。
でも、仕方ないよね。
「美鶴!何かあった?」
「あ、これ…」
え、なんで伊月、レジにいるの?
「早く持ってこいよ」
「ああ、はいはい」
コサージュを手に取りながら、家に帰ったらドレスに合わせてセルフネイルをしようと思った。女はやっぱり、華やかな場所では着飾らないと。たとえ自分が主役じゃなくても。
まして、愛する兄の、一日だ。
丁寧に箱に包装された、明日わたしが着ていくもの。
払ってくれた伊月にお金を返そうとしたら、いいよ、と手を止められた。なんでだ。わたしがおごられるのが大嫌いなこと、一番よく知ってるくせに。
「んな不機嫌になんなよ」
「だって…なんで…」
「俺から美鶴への、はなむけだよ」
はなむけ…?
「明日はこれで誰より綺麗な美鶴を見せて、明日もいつもみたいに翠さんをひとりじめしろよ」
なに言ってんの、伊月…。そんなこと、無理に決まってるじゃん。
だって明日は、リョク兄と由紀乃さんの結婚式だよ?花嫁が新郎を、ひとりじめするでしょ。これから先も、ずっと。だから…
「いや、いくらわたしが綺麗だって、ウエディングドレスの由紀乃さんには負けるし、ひとりじめなんてできないよ」
「なに諦めてんの?強気じゃねー美鶴なんて、美鶴じゃねえよ」
なに言ってんの…。意味わかんない。
…うそ、意味、わかるよ。
伊月はわたしのこと、よく知ってるから。わたしのこと、一番見てくれてるのは、伊月だから。
「……なによ、勝手なことばっかり」
由紀乃さんより、わたしの方がずっと、リョク兄のことを愛してるよ。
でも、わたしが永遠にリョク兄の隣にいる未来は、絶対に訪れない。
リョク兄は「離れない」って言ってくれたけど、わたしたちはもう、そばにはいられない。
わかってるーー…明日が、最後。
それなのにドレスなんかを理由に諦めてんじゃねーよって、伊月は言いたいんだ。遠回しに言うなんて、カッコつけめ。
あんたがカッコいいから、今わたし、バカみたいにカッコ悪いじゃん。
「ははっ」
「笑うなよ、なぐさめろ」
「……今はそのまま泣いていーからさ。明日はこれ着て、綺麗なまま見届けろよ。翠さんはきっと美鶴に一番祝ってほしいと思うよ」
「わかってる…っ」
この前泣いて悲しませたはずだから、もう、リョク兄の前では泣かない。意地でも泣かない。明日は、死んでも泣かない。
伊月の優しさを、胸に。
「号泣だな。車戻ろう。もういいだろ?」
「…ねえ伊月、はなむけって、旅立ちや門出を祝う餞別って意味じゃなかった?ふつう由紀乃さんとか、花嫁にあげるようなさ。本当にもらっていいの?」
「はあ?なに大泣きしながらそんなこと言ってんの。どんだけおごられたくねーんだよ」
「仕方ないでしょ、リョク兄の教えなんだから…」
お金にだらしなくなるな、がリョク兄の口癖だったから。それにわたしは自分の稼ぎに自信を持ってる。
だから、いいのに。はなむけって…そんな理由で受け取れない。
「ある意味旅立ちなんだからいーだろ」
う…。くそう。わたしは明日リョク兄から旅立たないといけないんだって、ふたたび実感させられてしまったじゃんか。
つまりこのドレスは、鎧ってことね。
明日わたしは出陣するわけだ。泣きべそなんか似合わない戦いに。なんて、せっかくのカクテルドレスなのに色気のないことを考えてると
「でも美鶴の花嫁姿は綺麗だろーな」
と、いきなりボソッと、そんなこと言われた。わたしが、花嫁?
「あたりまえでしょ。わたしが純白着たら世界一美しい自信しかない」
「はあキモ」
「ちょっと、こんな美人になんてこと言うの。てゆーか泣いてるんだからちゃんとはげませ」
「ほとんど泣き止んでんじゃん。強すぎ」
か弱いレディに強すぎ、なんて。突拍子もないことを伊月が言うから涙がひっこんだだけじゃない。か弱いわ、わたし。
ふてくされるわたしにそれ以上何も言わないから、かわりに、ちょっと真面目な返事をしようと思う。
だって、社会人一年目から付き合ってるけど、もう伊月以外と付き合う気はないから。
「いつでもいいから、わたしが純白を着るときは伊月が隣にいてよね」
その時はきっと、リョク兄が鎧を着る番だよ。覚悟してほしい。
「翠さんにころされそうだなあ」
そんなことを言って肩をすくめる。
きっと今のわたしみたいになるリョク兄を想像したんだと思う。
「がんばりたまえ、未来の旦那よ」
「本当、チョーシいいよな」
「いつプロポーズしてくれるのかしら」
「さあ?気が向いたらな」
じゃあ、伊月は気まぐれだから期待しないでおこう。待っててもいつになるかわかんない。もちろん女の自分からプロポーズしようとは思わないし。
「とりあえず、明日はがんばれよ」
わたしの家の前で車を止めた伊月は、手のひらをグーにしてわたしに突き出した。だからそのグーにグーをぶつけて、車を降りた。
今日はありがとう、伊月。
明日はこのドレスを着て、最高の妹になってみせるわ。
……だから
リョク兄。かならず幸せに、なってね。
◇
ヘアセットもメイクも美容学校でそれなりに習っていた時から得意だから美容室代はかからない。
ドレスが足から着れるタイプのものだったから先にヘアセットしてメイクを施した。巻いて編み込んだ髪。落ち着いたブラウンの化粧。
首から上を完璧にしたわたしは、似合わないパジャマを脱いで、テールグリーンのワンピースを着た。靴はコサージュに合わせた色にしよう、あの足首にラベンダーアイスカラーのパールが施されたベルトがついたエナメルのパンプスにしようと思う。
靴を履いて、玄関に掛けてある全身鏡に自分を映す。あのウエディングプランナーも伊月もきっと似合うって言ってたから、今までなんとなく挑戦してこなかった緑も、自分は似合うんだって思い込んで鏡の前に来たのに…
「な、なにこれ酷い………」
何がおかしいとかは説明しにくい。けど、全く似合っていなかった。
うそでしょ。なにこれ。全然似合ってないじゃない。
どうしよう、こんなんじゃ出かけられないわ。自分が納得する姿で外に出たい。
でも、他に持ってるドレスはボルドーやピンクベージュ、ライトブルーくらいしかない。しっくりこない…。
………絶望的だ。
しばらく頭を抱え込んでいたらインターホンが鳴った。おそらく、迎えに来た伊月だ。
親族とゲストの集合時間は違うから迎えはいいって言ったのに心配だって来てくれた。ちょうどいい。このドレスの文句を言ってやる。
「おはようっすー 支度できた?」
「ちょっと…これどうしてくれるの」
「ん?ドレス?シミはついてねえよ?」
「誰がシミの話したのよ!よく見なさい!似合わないでしょーがっ」
なんでかしら、違和感しかない。なんでわたし試着しなかったんだろう。自分を呪いたい。でも一番は、あのウエディングプランナーを呪いたい。何テキトーなこと言ってんの。
「べつに、綺麗じゃん」
「べつにってなによ!」
「はあ。じゃあどうすんの?着替える?着替えるなら早くしねーと親族紹介間に合わないよ。ご祝儀の管理は向こうにやってもらうんだっけ。あ、作ってたリングピロー?わすれないよーにな」
う。着替えたくても、着替えるものがないんだってば…。本当に最悪だ。時間もあまりないし。
「……このまま行くわ」
ため息まじりにつぶやく。
一度部屋に戻って、一ヶ月ほど前に既に完成していたリングピローを入れた紙袋とチェーンバッグを持って、伊月と駅に向かった。
わたしも伊月もお酒を呑むほうだから、結婚式でもたしなむ程度には楽しみたい。そんな理由で駐車場はあるけど車では行かず電車にした。最寄り駅からは50分ほどかかるけど、幸い式場は駅から近い。
「今ごろ翠さんと由紀乃さんは支度してんのかな」
「……」
「まだドレスのこと引きずってんの?」
「あたりまえじゃない」
なにが『これで誰より綺麗な美鶴を見せて』よ。このドレスのせいで微妙なしあがりよ。
ぶつぶつと文句を並べながらリョク兄へのメールを作成する。もう家出て向かってるよ…と。
伸ばした爪が画面に当たってカツカツ鳴るたび、シェルピンクに塗ったばかりのジェルネイルが目に入る。フレンチもうまくできたしストーンを付けてとても可愛いくできたから、よけいにドレスが悔やまれる。
「なんでも着こなすんじゃなかったっけ」
「え?」
「だから。美鶴がいういい女ってのはドレスなんかに左右されないんだろ?」
「そう、だけど…」
「なら気にすることねえよ。いいじゃん。俺は緑のドレス着た美鶴、いいと思うよ」
「あ、あたりまえでしょ」
あーあ。言いくるめられちゃったなあ。
ため息をつきながら、なんとなく髪の編み込みを解いて、手で軽くとかした。
下ろした髪がウェーブを描いて、出していた肩に落ちる。
「あ、そのほうがいいよ」
「ほんとにー?」
伊月はあやしいなあ。なんもわかってない、センスのかけらもないから、きっと口先だけだ。
伊月にセンスのかけらもないことを知ってたのにこのドレスを買ってしまったのは、なんとなく、しっくりときたから。何故かは全くわからないから、理由はないけど。
あとは、あのウエディングプランナーに言われたからなのかな。あの人も結局、センスはないみたいだけど。
…大丈夫かなあ。センスない人にリョク兄の結婚式をあずけちゃってさ。しかもリョク兄はかなりあの人のこと、信頼しているみたいだったし。なんとなく、そう感じた。わかるよ。とても話しやすい雰囲気だった。わたしだって、初めは腹を立ててたのに、ペラペラと話をしてしまった。
駅に着いた頃リョク兄から返事がきた。親族紹介の前に時間があったら寄ってほしい、だって。きっと、泣いた日以来会ってないから心配して顔を見たいんだと思う。
式場に着いたわたしは伊月と一度わかれ、親族の控え室に行った。親戚や相手の親族にご挨拶して、フロントスタッフに紹介がはじまる時間を尋ねると、式の30分前らしい。
ちょうど20分ほど時間に余裕があったからブライズルームの場所を聞いて、リョク兄の元へ向かった。この式場は新婦と新郎の控え室がバラバラにできてるんだって。だからきっと、お互いの姿はまだ見てないんだろうな。
ゆっくり歩いてブライズルームの前に着くと、中からリョク兄の声が聞こえた。
「もしかしたら俺は……
…ーーー 美鶴のことが、好きだったのかもしれません」
誰に話してるのかはわかんない。いや、なんとなくわかるけど。それよりも、その突然の言葉に、わたしは、心臓がとまりそうなくらい動揺していた。
ドアノブにかけた手を下ろす。
心臓が、はやく動いているのを感じて、かたく目を閉じた。
リョク兄ーー…
「けど、それ以上に兄貴なんですよ、俺」
「ええ、わかります。本当に素敵な家族だなとうらやましくなるほどに…佐川さんは、お兄さんですよ」
そう。いつだってリョク兄は、お兄ちゃんだった。
出会った頃も、ママとお父さんを失くした時も、握った手を引いてくれる時も、結婚すると言った時も…リョク兄は、わたしと一緒に歩こうとする、誰よりも優しいお兄ちゃんだった。
「美鶴のことが心配で、いつも美鶴の歩く先を、先回りしたくなる気持ちがあった。先回りして障害をどかして、美鶴が傷をつくらないようにって。けど、あいつはいつだって笑って「ナメないで」って言うんですよ」
「ふふっ。美鶴さん、カッコイイですね」
「……そうなんですよね。すごく、カッコイイんです」
いやだな。わたし、泣いたのに。わたし、いつも甘えてばかりだったのに。
リョク兄が今どんな顔してわたしの話をしてるのか想像できてしまうのは、それだけの過ごしてきた時間と、愛されてるという自信があるからなのかも。
リョク兄……リョク兄はわたしのこと、本当の妹として大切にしてくれたね。
「だから、安心して由紀乃との結婚を決意したんです。決意しときながら、何回も揺れましたけど。美鶴より俺のほうがさみしいんですよ。結婚するのは俺の方なのに勝手ですよね」
そんなこと絶対にない。どっちのほうがーなんて比べてもラチがあかなそうだけど、わたしのほうが、さみしいよ。
溢れてくるものを必死でこらえた。だって伊月と約束したし、もうリョク兄を困らせたくない。ドレスのスカート部分を、ぎゅっと強く握りしめた。
「新婦様以外のべつのところにも大切な方がいらっしゃる方はみんなそう言いますよ。だから、大丈夫です、佐川さん。由紀乃さんも美鶴さんも、倖せですよ、こんな風に想ってくれる人がいることは」
そんなわたしとは裏腹に、プランナーの結城さんの、くすくすと笑う声が響く。
それはとても穏やかな声色をしていて、リョク兄の小さかった声も、いつも通りを取り戻して行く。最後の打ち合わせだったのだろうか。
「ではわたし、ちょっと由紀乃さんの準備のご様子も見てきますね。またお時間になりましたら一緒に由紀乃さんのお迎え行きましょう!たのしみですね、花嫁姿を見るの!」
「たのしみです。待ってますね」
コツ、とヒールが踵を返した音。
はっとして、わたしも来た道を帰ろうとしたけど、何歩か歩くうちにドアが開いたのを感じた。
「……っ…」
「あ、美鶴さん、こんにちは。この度はお兄さまのご結婚おめでとうございます!」
「…ありがとうございます」
こぼれないように、キッと上を向く。
そんなわたしに気づいた結城さんは「大丈夫ですか」と薄紅色のハンカチを差し出してくれる。
こんなの借りたら、泣く準備をするみたいじゃない。
「いりません、大丈夫です。今日は絶対泣かないって決めてるので」
そう言いながら、握りしめる力を強めた。
すかさずその手を片方だけど優しく掴んで来たから、なんなんだ、この人。なんでわかるの、こんなに些細なことを、自分のことじゃないのに。
「さっきの話…わたしのほうなんです。ずっと、わたしはリョク兄のこと好きなんじゃないかって思ってました。おかしいんですよ、わたし。リョク兄より好きな人、いないんです」
「おふたりの深い絆とは比べることもできませんし、似ても似つきませんが…わたしも、家族が誰よりも好きです。大切です。愛しいです。…絶対、おかしくなんてありません」
そうよ。わたしとリョク兄は他の兄弟や家族とはちがう。血の繋がりよりも深くて強い、解けない糸で結ばれてる。
それは、わたしの中で何よりも特別で、確かなもので…だからこそ、悲しく揺れ動く時もあった。
間髪入れずにはっきりとした口調で「おかしくなんかない」と言われて。友達にはずっと、おかしいって言われていたから、ホッとした。
世界一リョク兄が大好き。
それを伊月は「いいよ。知ってるから」って言う。これから先も、伊月はそれを言い続ける運命。そんな未来しか、わたしは用意できないの。
それでも、おかしくないかな。変じゃないかな。
「だってふたりとも、本当に仲良しじゃないですか。ふたりして同じ笑顔で笑って、ふたりして同じことばかり言って。ふたり、性格もそっくりだし」
「え、そうですか?」
思わず笑みがこぼれた。だって、リョク兄と似てるって言われたらうれしい。
「そうですよー。ちがうところは、愛想が良い悪いかなあ」
そう言って楽しそうに小さく笑う。ようするに、リョク兄は愛想が良くてわたしは悪いってことね。
わたし、良いほうって言われるんだけどなあ。ほら、接客業だし。
「初めて会ったときリョク兄と目元がそっくりなんて言うからじゃないですか」
笑顔や雰囲気が似てるって言われるならなんとなくわかるけど、わたしたち、血の繋がりないのに。
「…血縁がたとえない家族でも、似てくると思いませんか?一緒に過ごした時間が全てだとわたしは考えてます。なので、わたしの知っているご夫婦は、似てる方が多いんですよ。
それに、わたしは嘘はつきません。本当に似ていないものは、似てるなんて言いませんよ。おふたりは似てます。目がキラキラしていて、色んなものを共有している、素敵な兄妹です!」
リョク兄と過ごした時間。それはかけがえのない、言葉ではたとえられない、幸せな日々だった。
「…ありがとう……」
リョク兄にそう言ったら、「これから先も幸せにするよ」なんて言いそうだ。
離れないよって言葉、とても嬉しかった。
「リョク兄のこと、今日も一日よろしくお願いします」
「しっかりサポートするので、任せてください」
パンツスーツ姿の彼女が背中を向ける。その後ろ姿は細いのに、広く見えた。わたしが結婚する時はあの人に頼もうかなあ。
「あ」
ぼんやりと思っていると、何かを思い出したように彼女が振り返った。
「やっぱりあまり似合いませんね。でもぴったりですよ、佐川さんのお好きな色が」
……センスがないんじゃ、なかった。
リョク兄の好きな色……
「リョク兄って緑が好きだったんだ」
知らなかったなあ。でも、思い返せば、靴とかネクタイとか時計のベルトとか、緑の物ばかりだったかも。
スカートをつまんで、びよんと釣り上げてみる。似合わないけどぴったりだって、リョク兄の好きな色が。
少し歩いてブライズルームの扉をノックすると、笑顔のリョク兄がわたしを迎えてくれた。
テールグリーンのネクタイと、白いブートニア。本当にかっこよくホワイトタキシードを着ていて、幸せそうに笑っていて。だからわたしも、素直に笑えた。
だって、同じ笑顔なんでしょう。そのほうがずっといいじゃない。
「美鶴」
リョク兄。
優しくて、何かを伝えたい時は必ず、手をぎゅっと強く繋いで。その手はいつでもあたたかくて、やさしいかたちの爪をしている。
わたしが、世界で一番愛している人。
わたしを、世界で一番愛してくれる人。
わたしのたったひとりの、家族。
わたし、今日は死んでも泣かないわ。リョク兄の好きな色のカクテルドレスを着てせっかく綺麗なんだから、涙なんて、似合わないもん。
ねえリョク兄。まだ言ってなかったよね。
「結婚おめでとう、リョク兄」
いつまでも幸せに。
だけどたまには、手を握りに来てね。
カクテルドレスのヨロイ
ー 一件落着 ー
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