ENTER

YUMEZ(ゆめぜっと)

第0話

 ズーン……


 と。


 重たい頭のなかで、緩やかな足取りは気だるくその一歩一歩を進めていった。掻き分け、時に咽びながら、巨大な、綿毛のような塊で、浮遊しているそれらは濃密に立ちはだかっている。

 霧に煙った森の夜道を行くように、恐るおそる、踏み心地の不明瞭な足もとを広げて……少しずつ蘇っていく記憶は、劣悪な環境への反応を確かめるような無責任さで、躊躇ためらいもなしにいきなり岩山の一歩を覚醒させてしまうほどの、底意地の悪さで迫り来る危険地帯だった。それでも、何故かしら拒むこともなく、情景へと向かっていくのだ。忘却という濃霧を払い、ようやく、整然とした記憶が断片となって、そして僅かに、連なって。

 そうしてワタシは思い出していく……恐ろしい……あの……


 昨夜の……


 甘美な快楽に揺られていた。

 ワタシの恋人は仰向けにワタシへと覆い被さってだんだんとむさぼりながら、ワタシ達は自我を失うほどに没頭していった、愛欲の渦たてて、マットレスが波打つごとにベッドフレームが軋んでいく。彼は激しさを増していく、ワタシは彼の更なる没入を受け入れていく、ふたつの魂は共鳴の度合いを高めながら、快楽の絶頂点へと向かってまるで天頂へ吸い上げられてしまったように……

 彼が大声を立ててわめいた時、あり得ないほどに仰反のけぞってワタシのテリトリーから消えてしまった理由が、単に限界を越えて悦楽の一面世界へと突入してしまったからだと、濃霧の中のワタシは夢想してしまった、それほどに、濃密な悦楽の結合は、ワタシをも強烈に掻き乱してしまっていたから……しかし、それが別の物理的原因から来ることだったと知覚してしまった時にはもう既に、けたたましい音響は部屋じゅうを切り裂いているさなかだった。強引な……信じられない……暴力が……

 転がり落ちたのはベッドの脚のあたりで、彼は……彼の肉体は……

 耳をつんざくくらいの、機械の金切声、混じる、彼の断末魔、奇声。

 そして、ワタシの絶叫……


 チェーンソー……?

 彼の肉体が、屍が、これでもか、これでもかと、切り刻まれていく。そして、首が飛び!

 

 彼の背後にひしめき合う男達の大声が止んでいた。

 彼はこの世から消え去ってしまい、残されたものは食肉となってしまった肉の塊だけだった、機械は停止していた、そしてワタシは精神の防衛作用に押し込められて黙り込んでしまっていた、もう既に、失神していた……


「逃げて! はやく……はやく……!」

 あり得ないくらいの叫び声!

 錯乱、滝のような汗。

 記憶の再現が完全になるに連れ動揺は加速度的な膨張へと突入してしまっていた。逃げないと……

 何一つ冷静な判断もつかぬまま方向感覚へとたどり着いてしまう以前に、わけのわからぬ行き先へと走り出していた。勢いよく横転した……滑ったのだろうか……?


「ああああああああああああ……」

 床に吸い込まれて飲み込まれてゆく……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る