「レッドパージ・赤の亡霊‐滅‐」

 赤坂さんの事件以来、俺はずっと部屋に籠っていた。

スマホにはバイト先からの鬼電と、知り合いからの連絡で通知がえらい事になっていたが、今は誰とも関わりたくない。


部屋にある食料や飲み物も尽き欠けている。

だが外へ出ようという気にもなれなかった。

何かとんでもない事件に巻き込まれてしまった危機感、そして何よりも、あのメロオンちゃんの裏切りに、俺の心は完全に砕かれてしまっていたからだ。


今日で三日目……。


茜色の日差しがカーテンの隙間から僅かに差しこむ。

新聞配達のバイク音が遠くに遠ざかってゆく。


朝?夕方?


もう時間間隔さえよく分からない。


フラフラとしながらベッドから起きトイレへと向かう。

用を足して立ち上がると、トイレットペーパーが残り少ないことに気が付いた。

替えておこうと新しいのを取り出し交換する。


「ん……何だこれ?」


よく見るとトイレットペーパーの真の中に何やら紙切れが入っていた。


「メモ用紙……?」


ハッとして俺は急いで丸められたメモ用紙を開いた。


三日前、赤坂さんが俺の部屋を訪れた際、帰り際、突然トイレを貸してくれとお願いされたのを、俺は思い出していたからだ。


──もし君が全てを諦めていないのなら、ここに電話したまえ。相手先にはすべて伝えてある。だがもし諦めてしまったのなら、この紙はトイレにでも流して忘れてくれ。ただ、願わくば私が言った事を思い出してほしい、中尾君、君にしかできない事があるという、この言葉を。


最後の行には固定電話の番号が書かれている。


俺はトイレの水を流すと部屋へと戻った。

スマホの時計に目をやる、時刻は午後四時。


俺は赤坂さんが残してくれたメモに目を通しスマホのダイヤルを押した。


赤坂さん……トイレ何かに流したら詰まっちまうだろ……あんたもう弁償できねえんだから……。


俺は今にも泣き出しそうな顔をパシンと自分で叩いた

頬がジンジンと痛む。

その時、


『はい……綾瀬ですけども?』


通話口から妙齢の女性の声が聞こえてきた。


「あ、あの突然すみません、お、俺あいや、僕、中尾と申します!赤坂さんからこの電話番号を、」


『赤坂さんの……?じゃ、じゃあ貴方が赤坂さんが言っていたあの大学生の……?』


赤坂さんのメモ用紙は本当だった。

ただし俺は休学中だが……。


「そ、そうです。赤坂さんが困っていたらこの電話番号にと……」


『赤坂さん……あんな事になってしまって……』


綾瀬と名乗った女性はそう言って押し黙ってしまった。

おそらく事件のことを知っているのだろう。


『お葬式にも行きたかったのだけれど、赤坂さんに自分の身に何かあっても決して動くなと言われていて……あの人には本当に色々お、お世話になったというのに、わ、私は……』


綾瀬さんの嗚咽交じりの声が響く。


赤坂さんは自分の身に何かあるかもしれないと予想していったのか……だからあのメモを俺に……ん?お世話になっていた?


「あの、失礼ですが綾瀬さんと赤坂さんはどういった関係なんでしょうか?」


すると、綾瀬さんは暫く黙ったのちに話し出した。


『私は……とある事件をきっかに赤坂さんにお世話になっていたんです、私の夫、小山 真澄が起こした事件をきっかけに……』


「小山の!?あ、し、失礼しました!小山さんは結婚されていたんですね……」


『いえ、正しくは違います。当時私と彼は結婚の約束をした恋人同士だったんです』


「恋人?」


『はい……ですが私は先に彼の子を身籠ってしまい……女で一人、しかもあんな事件を起こしてしまったあの人の事もあって、中々に生活は大変だったんです。そんな時に赤坂さんが私達の前に現れ、住む場所や仕事など、身元の事まで色々と世話を焼いてくれてたんです。私達がいまこうして暮らしてゆけるのも、本当に彼の、赤坂さんのおかげなんです』


「お子さんも元気なんですね」


『はい……孫もできて、今は本当に幸せな人生を送らせて頂いております』


「それは本当に……良かった、本当に……」


思わず眼がしらに熱いものがこみあげてくる。


赤坂さん……あんたのやってきた事は無駄じゃなかった。

それを綾瀬さんは証明してくれている。

そして俺も……証明して見せる。


「あ、あの綾瀬さん、赤坂さんに何か聞いてないですか?何でもいいんです、何か手掛かりになれば何でも」


『赤坂さんにも生前、貴方の事を聞かされておりました、貴方の力になってほしいと……ですが知っていることはほとんど赤坂さんに話してしまいましたし他には……あっ』


そこまで言い掛け、綾瀬さんは何かを思い出したように呟いた。


「な、何か思い出しましたか?」


『赤坂さんがこんなことを言っていました……あの子にしか理解できない言葉がある、あの子にしか聞けない言葉が、それに答えてやってくれ、と』


「俺にしか理解できない言葉……?」


何だそれは?メロオンちゃんの事か?いや違う。

何だ……思い出せ。

俺が今まで聞いてきた言葉……人には理解できない……人?

人……もしかしてそれは、人ならざる者の言葉?


ハッとして俺は口を開いた。


「思い出!思い出の場所!?」


『思い出?』


「そうです!信じてもらえないかもしれないけど、お、俺小山、小山さんと話した事があるんです!思い出の場所にって言ってたんです!」


とても信じてもらえるような話ではない。

夜の喫茶店に現れた小山の亡霊が、俺に託した言葉。

あれを見つけてくれ、あいつよりも先に、俺の思い出の場所にと……。


『信じます……』


「えっ?今なんて?」


『信じますよ、貴方の事。だってあの人の、赤坂さんの信じた方だから……』


赤坂さん……本当にありがとう。


俺は胸の内で呟きながら必死に下唇を嚙み締めた。


『小山の思い出の場所……それはあそこだと思います。私とあの人しか知らない場所、小山が私にプロポーズしてくれた、桜の一本木……』


それから綾瀬さんはその場所を詳しく俺に教えてくれた。


通話を切る前に、俺は綾瀬さんにこう言い残した。


全て終わらせると。

この事件で、もう誰も苦しまないためにも、そう伝えて俺は電話を切った。


俺はそのあと直ぐにJRに電話し新幹線の予約を取ると、必要なものだけをバックパックに詰め込み家を出た。

駅に着き少しでも腹ごしらえをと、駅弁売り場で焼き肉弁当を買い、急いで指定席へと向かった。


席でかっ込むように弁当を食べると喉を詰まらせそうになり、それを前席に座っていた小学生くらいの女の子が笑いながら覗いてきた。

女の子が水筒の温かいお茶を差し出してきてくれたため、俺はそれをありがたく受け取り、少女に苦笑いを零しながらありがとうと伝えた。


まだ俺にも笑える余裕がある。その事が、これから先待ち受ける不安を、少し和らげてくれたような気がした。


片道二時間の長旅を終え、俺は目的地の駅に着いた。

が、そこで目にしたものに、俺は驚きを隠せなかった。


以前、喫茶店で鏡子との話し合いの時、俺より先にいた先客、確か鏡花から与一と呼ばれていた、俺と同い年くらいの男だ。


「あっどうも……」


向こうから俺に声を掛けてきた。


「た、確かこの前の」


「喫茶店の店員さんですよね、前に何度か目にしてますんで」


「は、はい、そうです。うちの店にも来た事あるんですね。あ、あの、こんなところで何を?」


すると与一は気まずそうにしながら口を開いた。


「いえ、実は……大変失礼なんですけど、貴方の後をつけさせてもらいました」


「なっ!?」


与一の言葉に俺は思わず身構える。


「あ、いやいや!√に、じゃない鏡子さんに頼まれたんです。これを渡してくれと……」


「俺に?」


「いえ、貴方にではないんです、というか貴方の邪魔をするつもりはありません、むしろ助けになるとあいつは言ってました」


「鏡花が?」


鏡子が敵ではないのは確かだ。

じゃあ信じてもいいのかもしれない。


「きょ、鏡花は?」


俺がそう聞くと、与一は顔を曇らせながら答えた。


「分かりません……かろうじて連絡はくれたんですがそれっきりです。父親の逆鱗に触れて閉じ込められているとか」


「あの親父さんならやるかもな……ところでなんで俺の後を?」


「それもよく分からないんです。貴方が来た先で、これをとある人に渡して欲しいとだけ……」


とある……ひょっとして鏡花もここに?


「わ、分かった、いろいろ聞いてごめん、なんかあんたとは気が合いそうだな、今度どっかでゆっくり話しでもしないか?」


「僕も、なんかそんな気がしてたんです……喜んで」


去り際、与一から連絡先とこの近くに安い民宿がある事を教えてもらい、俺はその場を後にした。




与一に教えてもらった民宿に泊まる事ができた俺は、飯と風呂を早々と済ませ、その日は直ぐに眠りについた。


時刻は午前四時、久々になんの悪夢も見る事なくぐっすり眠れたような気がする。


朝ごはんの支度にとりかかっていた女将さんに料金を払うと、せめてもとおにぎりを包んで持たせてくれた。


民宿を出て、綾瀬さんが教えてくれた山へと向かう。

この辺りはダムの開発に失敗し、特にこれといった見所がある場所もないため、山を歩く途中はほとんど人と出くわすこともなかった。


山道も整備されているとは言い難く、鬱蒼とした森林だけが続くため、登山客もいなさそうだ。


一時間ほど登った先に長年手入れされていなかったのであろう古い祠を見つけた。

綾瀬さんから教えてもらった通りだ。


祠の横には草木が覆い茂っていたが、その中を掻き分けると荒れた獣道が視界に飛び込んできた。


ここで間違いない。


獣道に足を踏み入れ先を進む。


貰ったおにぎりを口に入れそれをお茶で流し込むと、さっきよりも足取りが軽くなった気がする。


そこからさらに三十分程歩いた時だった。


急に道が開け、鬱蒼と茂る草木に囲まれるようにして空間が広がっていた。


その中央には、朝日に照らされ、儚く揺れる一本の枝垂桜があった。


淡い桃色の花弁が幾重にも重なり、その美しさはまるで、ここが神聖な場所であるかのように印象付けていた。


そしてよく見ると、そこには古い井戸が寄り添うように在った。


「あれだ……」


俺は躓きそうになりながらも慌てて井戸に近づくと、バックパックに閉まっていた縄紐と懐中電灯を取り出した。


枝垂桜に頭を下げ、縄を木に縛り付けると、それを井戸の中に垂らして下へと降りた。

本当なら石でも投げて高さを図るなどしたほうがいいのだろうが、そんな余裕はない。


だが、俺の不安とは裏腹に、井戸はそんなに深くはなかった。

懐中電灯で辺りを照らすと、中は比較的しっかりと土で塗り固められた洞窟のようになっており、長年放置されている割には不思議と崩れた形跡がない。

それが得体のしれない力か何かが働いているように思えて、逆に不気味だった。


しんと静まり返る洞窟内に、ゴクリという俺の喉の音だけが響いた。


意を決し、洞窟内を進んでゆく。


途中、壁の色が変化してゆくのが分かった。


黒い。赤茶けた古い土壁が、どんどんどす黒くなっていく。


ドクドクと自分の心臓が激しく鳴っているのが分かる。


息苦しい。額の冷たい汗を腕で拭いながら、さらに一本道の奥へと進んでゆく。


やがて、懐中電灯に照らされた先が急に開けた。


そこは大きな四角形の空洞となっていて、さらに土壁ではなく、分厚いコンクリートになっていた。


床もコンクリートに塗り固められており、中央には直径二メートルほどの鉄蓋が敷いてある。


更にその奥を照らすと、


「ほ、本当にあった……」


光に照らされた先、そこには、石の台座が壁側に設置されており、その台座の上に、大きな黒い壺が禍々しく佇んでいた。


俺はあの黒い壺を何度か夢で見たことがあった。


全ての発端となったあの夢が今、俺の目の前に現実となってその姿を現したのだ。


「素晴らしい、よくここまで辿り着いてくれた」


壺の傍まで歩いた先で、突然男の声が背後から聞こえた。


続いて拍手のような音が室内に反響し合う。


振り向くとそこには、


「綾坂……!?」


そう、そこには薄手のトレンチコートを着た男、綾坂 総二郎の姿があった。

しかも、赤坂さんに見せてもらった今のメロンちゃんの親父さんとは似ても似つかない。

長い黒髪に冷たい眼差し、瞳は灰色に濁ったような色をしている。


この姿、俺は忘れない。

赤坂さんがまだ公安だった頃、喫茶店を訪れる直前に、俺の前に姿を現した男。

白黒の写真、小山と一緒に写っていた人物。

赤の亡霊……。


「この姿で会うのは二度目だね、中尾君、君にはいつも娘がお世話になっていて本当に感謝しているよ」


不気味な視線を俺に向け、不敵に笑いながら綾坂は言った。


「つけて来ていたのか?」


言い返すと綾坂はゆっくりと口を開いた。


「娘には君を殺すように命じていたんだが、君がこの場所を探し当てるかもしれないと言うんでね、泳がせてみればいやはや、買いかぶりすぎだと思っていたが、これは娘に感服せざる得ないね」


「すべてあんた達の思い通りってわけか……」


「ふふ、すまないね。予定調和というやつだよ、諦めてくれたまえ」


「お前の目的は何なんだ……?過激派の人たちを巻き込んで何を企てていた?」


自分で言っておいてなんだが、俺は恐ろしく自分が落ち着いている事に気が付き驚いた。


本来なら今すぐ逃げ出したい状況なのに……いや違う。

俺は幾晩幾月の日々を、あの深夜の喫茶店でメロンちゃんと過ごした。

恐怖に身を寄せながら、目も背けたい光景にも、震える足で立ち、見続けてきたのだ。


もう……逃げない、逃げる気は微塵もない。


「聞いていたよりも度胸があるね君は……いいだろう、その覚悟とここまで連れて来てくれた君に敬意を払い、一つ面白い話をしてやろう」


俺は黙ってそれに頷く。


「君は狗神憑きという言葉を知っているかね?」


前にバイト中、狗神の生首が引き起こした事件があった。

確か蟲毒とかいう呪いの一種で、飢えて正気を失った犬の首を撥ね、その生首を使った呪いに関する事ではなかったか?


「ほう、その顔は少しでも知っているようだね。私はね、古くから狗神を研究する一族の跡取りだった」


「狗神の研究?」


「狗神を使役し、災いを払い、時には人に災厄すらもたらした。私の一族はそれらを行いつつ、狗神の研究を続けた一族なんだよ」


「その研究とここがどう関係があるんだ?」


「まあ急かさないでくれよ、この事を話すのは本当に久々なんだ、もう少し付き合ってくれたまえ」


ニヤリとしながら綾坂は話を続けた。


「私の体は生まれた頃から特殊でね、人の目に視えないモノや、それらと会話する事ができた。当時はやれ狐憑きだとか狗神憑きなどと差別されたもんだよ。要は頭のおかしな奴だって事さ。人は人以外であるものに嫌悪し時に憎悪すら抱く。幼少の頃は本当に悲惨だったよ。だが、私は必死に研究を続けた、人が私を認めないのであれば認めさせればいいだけの事。そこに自分自身が人である事はさほど問題ではない。私の言葉に抗えないようにすればいいのだから、その為に私はこの研究を完成させたのさ」


「顔を変えたり別人に成りすましたり……人の何倍も生き続けたりすることがか?」


「顔を変えたり成りすますのはあくまでも処世術だよ。私が完全な生物となるためのね……」


「完全な生物?それこそ漫画の読みすぎだろ?」


皮肉を込めて言ったが綾坂はそれに対し何も微塵に感じていないようだ。


「そうだな……先ほど完成したというのは訂正しよう」


「どういう事だ?」


「言葉の通りさ、確かに私は人を超える力を手にした。しかし、それも完ぺきではない。未だにこの体を維持するためにも、狗神の呪術儀式を行わなければならない。幸いにも私には優秀な娘が居てくれたおかげで、その点に関してはさほど苦労する事もないがね」


それを聞いてふと思い出す。

メロンちゃんがあの犬の生首、蟲毒という呪いにまみれたアレを、俺の前で持ち帰ったあの晩の事を……。

そしてあの時、赤坂さんと別れメロンちゃんと最後に会ったあの日、俺の家の前で彼女は言った。

私は父の協力者だと。

あの言葉はそういう事だったのか。

ならメロンちゃんは本当に敵なのか……。


握った拳をさらに強く握りしめ、俺は拳をわなわなと震わせた。


「私はね、誰よりも呪いをこよなく愛してきた。呪いを掛ける醜い心も、呪いに恐怖する怯えと悲しみに満ちた心も、全てが愛おしかった」


「かった……?」


なぜ突然過去形になったのか気になり俺は聞き返す。


「ああ……気付いたんだよ。呪いの力に頼らねば維持する事のできないこの体……呪いを愛していた私こそが、一番呪いに縛られていたって事をね」


そう言ってなぜか綾坂は片手で頭を抱えその場で笑い出した。


「滑稽だ!実に滑稽だろ!?だからさ、私がこの新たな研究に没頭したのは!」


言いながら綾坂は片手を大げさに振り黒い壺に翳して見せた。


「新たな研究……それがアレと関係があるって言うのか?」


「そうだ……ほとんど小山に命じて私が作らせたものだがね。アレは私の最高傑作だよ。君は狗神を知っていたね?狗神は蟲道の一種だ。犬を首だけ出して地中に埋め、飢えさせてから正気を失ったところでその首を撥ねる。対して蟲毒は、壺の中に毒虫や蛙、蛇などを入れ共食いさせる。そして生き残ったそれを呪術に使い使役する。それでは、生きた人間でそれをやったら、君はどうなると思う……?」


「どうなるって……」


人を地中に埋め、正気を失う寸前でその首を撥ねる……。

人を狭い場所に閉じ込め、共食いさせ……。


そこまで考え俺はその場に蹲り、激しい吐き気に耐え切れず腹の中の物を地面にぶちまけた。

歪む視界の先に、大きな鉄蓋が見える。


まさか……ここで、この場所で……今言った事を……。


「しかし大変だったよ、ここを作るためには莫大な金がかかったからね。幸いうちは資産だけはあった、それらを使いここを作らせたんだが、」


「問題は……人だ……そうだろ綾坂?」


俺は口元を拭い立ち上がると、再び綾坂と対峙した。


「ふふふ……あはははははっ」


「何がそんなにおかしいんだ?」


「ふふ、これは失礼した、いやなに、娘が君を気に入るわけだ……いや実に面白い存在だよ君は。諦めが早く度胸もないと思っていたが、その度に君は這い上がろうとする。地べたに這いつくばり、もがき、足掻く、実に人間らしい生き物だ」


「あ、諦めの悪い奴ってのは認めるよ」


「いいだろう、君のその潔さに免じて答えようじゃないか、答えはもちろんYesだ。1960年代、日本は高度成長期にあった。東京オリンピックや万博など、日本中が湧いていた。しかしその影で同時に弊害も産まれていた。急速な工業化に伴うオンライ化が進み、早急なインフラ整備や人口過密問題、工業汚染による環境破壊、それにより発生した公害病等々……そして極めつけは、第二次世界大戦後の傷跡から、日本はまだ立ち直れていなかったのもあった。日米安全保障条約、君も大学に行っていたのならそれぐらいは分かるだろう?」


「そ、それぐらい俺だって……(休学中だけど)」


「ふふ、よろしい。当時アメリカはベトナム戦争で混乱の真っただ中にあった。それを非難し、日米安全保障条約延長の政府による強硬姿勢にも、日本中の人々は声を挙げ始めた。その中でも特に際立ったのが若き学生たちだ。警察が怪しいと疑いさえすれば、手続きなしで取り調べができるようにする警察官職務執行法の改正など様々な事が起因し、学生たちのフラストレーションは一気に高まりついには、」


「学生運動だろ」


饒舌に語る綾坂に一矢報いようと俺は水を差すようにして言ってやった。


「そうだ……霞が関の国会議事堂の周りを取り囲むようにして集まった学生たちの数はおよそ24000人、対する武装した警官隊は5000千人も集まり、両者は衝突した。私はそこに目を付けたのだよ」


「学生運動に資金援助をしていたんだろ?革命派を支援するため……じゃないよな」


「無論だ。革命なんぞには何の興味もない。ただし、奴らの思想は私にとってすこぶる都合が良かったのさ」


「都合?」


「ああ、学生運動の組織は時間と共に散り散りになったが、その一部は革命組織となり、その後も様々な事件を引き起こした。大菩薩峠事件や浅間山荘事件などね、より暴力的な主張を繰り広げる彼らには絶大的な力が必要だったのだよ」


「力……もしかしてその狗神の?」


「ククク……私の力をちょっと証明してやっただけで彼らは飛びついてきたよ。そして人を集めろと命じればすぐに生きの良いのを用意してくれた。当時過激派に与していた人間は数万人に及ぶ、あるものは社会生活に溶け込み活動する者もいれば、期を待って地下深くに潜る者もいる、そんな人間、消えたところで誰も気づけやしない、まあ公安の連中は意外にもしつこかったがな。君もよく知る人間だよ。赤坂さ、それともう一人いたな、確か、」


「朝倉さん……」


ぼそりと呟くように俺は言った。


赤坂さんの先輩であり、公安二課の前任者。

定年間際、赤坂さんに事件の全てを引き継ぎ、綾坂と接触した後、奥さんと幼い娘さんを残して行方不明となった人だ。


「そうそう朝倉だ。勘の良い男だったよ。どこで調べ上げたのか、行方をくらました組織の人間たちを調べ上げ、それを私と何か関係があると詰め寄ってきたんだ。邪魔だったしね、消すには丁度いい頃合いだったよ。しかしその後輩である赤坂まで同じ道を辿るなんてね、皮肉な運命だよあの二人は」


「綾坂あっ!」


気が付くと俺は綾坂の前に躍り出ていた。

人の命を道端tに転がる小石のようにしか思っていないこの男に、俺は我慢がならなかった。


右腕を大きく振りかぶり勢いよく目の前の男の顔目掛けて放った。


だが、


「なっ!?」


俺の右拳は確かに顔面を捉えていた。

だが綾坂は顔色一つ変える事もなく、俺をあざ笑うかのように笑みを浮かべていた。


拳がじじんと痛み、思わず左手で痛む右手を掴んだ。


「ふふ、小山と似ているな君は、あいつもあの時私に襲い掛かってきたよ。自責の念に堪えられず、何もかも打ち明けて終わらせるとね、反射的に殺してしまったせいで、この場所を聞き出せず随分と遠回りをさせられたが、まあこうして君が代わりに案内してくれたのだから良しとしよう」


綾坂はそう言うと体をゆらりと揺らして見せた。


その瞬間、俺の鳩尾に激しい激痛と衝撃が走る。


後方に吹っ飛ばされ俺は地面に転がった。


息が詰まり激しく咳き込みながら、痛む腹を抑えつつ綾坂に視線を向けた。


「革命を成功させるためにと信じ、何人もの人間をここで始末してきた奴が、いまさら何をほざく、君もそう思わないか?」


にやつく笑みを零しながら綾坂は俺を見下ろし言った。


「てめえっ!」


再び立ち上がろうと俺が拳を握りしめた時だった。


「何をじゃれあっているのですか?」


この声は……?


まるで時が止まったかのように俺は唖然としてしまった。


この声、忘れられるわけがない、メロンちゃんだ。


振り向くと、そこにはいつもの恰好、ゆるふわで肩まで掛かった髪に首に引っ掛けたヘッドホン、赤い眼鏡のフレームには、あの気怠そうな瞳が映っていた。


「美兎ちゃ、」


言い掛け俺はハッとして我に返った。


そうだ、メロンちゃんは綾坂の協力者、状況はむしろ悪くなったと言っていい。


「やあ美兎、待ちわびたよ。例の物は持ってきてくれたかい?」


綾坂はそう言うと俺を無視してしゃがみ込み、地面に向かって指で何かを描き出した。


血だ。おそらく自分で切ったのだろう。指から滴る自分の血で描いている。


「ここに……」


メロンちゃんは言いながら持っていた黒い大きな鞄を広げた。


「何を……する気だ?」


俺はメロンちゃんにそう尋ねた。


「父は膨大な力の代償に、定期的に狗神の首を摂取しなければなりません……今の父ではあの新しい力を宿すには危険ですから」


「だめだ……そんな事したらあいつが!?」


「言ったはずです店員さん、貴方は邪魔なんです……」


「うわっ!?」


急に俺は体の自由を奪われた。

まるで見えない何かに力強く締め付けられているような感覚だ。

体が持ち上げられ足が宙に浮き始めた。

またあいつだ。人の目で捉えられない、怪人……。


苦しさに顔を歪める中、準備を整えた綾坂がメロンちゃんから狗神の首を受け取っている。


「随分と痛んでいるね……纏わりつく怨念は確かに間違いなさそうだが……疑っているわけではないが、細工はしてないだろうね美兎?」


「例えしても貴方なら直ぐに見抜けるでしょう。呪いに関して貴方に秀でるものはいないのですから。それにしてもその姿……やはり見慣れませんね。髪ぐらい切ったらどうですか?」


「ふふふ、美兎は手厳しいね、帰ったら美容室にでも行くとするかな」


綾坂はそう言うと受け取った狗神の首を掲げ、指を狗神の首の付け根に突き立てた。

ずぶりと嫌な音がし、空いた穴からどす黒い血が零れだす。

綾坂は口を大きく開け、流れ落ちるその血を飲み干し始めた。


常軌を逸した光景に寒気を感じるが、今はそれどころではない、何とかしなければ。


だが体は言うことを聞かず、抗えば抗うほど締め付ける力は増すばかりだ。


「め、メロンちゃん!!」


破れかぶれに思わずそう叫んだ時だった。


「な、何だこの血はっ……!?」


綾坂の様子が変だ。

突然体をくの字に曲げ、苦しそうにしながら体を痙攣させている。


何だ?一体何が起こった?


などと考えた瞬間、俺を縛り付けていた怪人の力が急に解け、持ち上げられていた俺は盛大に尻もちをつく形で地面に叩きつけられた。


「いてえっ!!」


尻をさすりながら泣き叫んでいると、メロンちゃんが俺に手を差し出してきた。


「そのくらいで泣いて、赤ちゃんですか貴方は……」


お前のせいだろうが。


俺は睨めつけながらその華奢な手を取り立ち上がった。


「な、何かしたのか……?」


俺は横にいるメロンちゃんを見ながら尋ねた。


するとメロンちゃんは目の前でもがき苦しむ綾坂を見ながら無表情のまま答えた。


「名付けて、羊の皮を被った狼作戦です」


「はあ?」


思わず俺の口から間抜けな声が漏れ出た。


こいつはこんな時に何の冗談を言っているんだ?

いや待て、本気って可能性もある。メロンちゃんなら……。


「あれは犬の頭の皮を被せた狐の首です」


「き、狐!?」


「ええ、知ってますか?狗神の天敵は蛇や狐なんですよ」


「て、天敵?」


「狗神の呪いを避けるために狐のお守りを身に着けるという習わしもあるくらいです。今、あいつの体の中でこれまで蓄えてきた狗神達が暴れまわっているのでしょう……」


メロンちゃんがそう冷たく言い放つと、綾坂が苦しそうな顔でこちらを睨みつけてきた。


「な、何故だ!?あの首に纏わりついていた怨念は消せない筈だ!なぜ狐の首にあのような念がっ!?」


血反吐を吐きながら綾坂が苦悶の表情で訴える。


「あの黒い鞄……見覚えありませんか?」


メロンちゃんは言いながら地面に置かれた大きな黒い鞄を指さして見せた。


「か、鞄だ……と?」


苦しそうに綾坂が聞き返す。


「鏡子のお友達が私に届けてくれたんです。貴方が以前、面白半分に買った呪いの河童のミイラが入っていた鞄ですよ。河童のミイラに呪いなんてありませんでしたが、あの鞄には確かに呪いはありました。その謎は鏡子とそのお友達が解き明かしてくれたみたいですけど……まっ、貴方は謎を解き明かす前に飽きてしまい興味を失っていたようですが、それがかえってこちらにとっては好都合でした」


鏡子とそのお友達?与一の事か?


「ま、まさか……さっきの首が纏っていた怨念は……!?」


「はい、鞄に込められていた呪いです。狗神の呪いとすこぶる相性が良かったので、首を鞄に入れ、たっぷりと念を染み込ませ偽装させて頂きました」


「くくく……や、やられたな、だが」


その瞬間、綾坂の体が素早く動いた。


「しまった!?」


綾坂がその場から後退し黒い壺へと走り始めた。


が、一瞬何か小さな影が俺の足元を掠めながら素早く横ぎり、綾坂の足元に纏わりついた。

綾坂もそれに気づき自分の足元に視線を向ける。


「あ、あれは!?」


俺がそう言った瞬間だった。


「キャァァァァッ!」


つんざくような叫び声。

聞き覚えのある声だ。

必死に目を開け綾坂の足元を見る。

人形だ。

初めて鏡子と出会った時、彼女が閉じ込められていたというあの忌まわしき球体人形。

それが綾坂に向かって叫び声を挙げていたのだ。


まさかまたあいつあの人形に閉じ込められてるんじゃ?


流石の綾坂も両耳を塞ぎその場で立ち止まった。


その一瞬、突然綾坂の体が凄い勢いで入口へと吹き飛ばされた。


ハッとして横を見ると、メロンちゃんが何もない虚空を指さしていた。


メロンちゃんの指さした先に目を凝らす。


微かではあったが半透明の、ザンバラ髪の大男が僅かに見えた。


指さす怪人……。


ゴクリと喉を鳴らし俺は綾坂に振り返った。


ボロボロになった綾坂が息も絶え絶えによろよろと立ち上がる。


「分が悪いようだね……こ、今回は諦めるとしようか……」


綾坂はそう言うと身を翻し井戸の方へと走り出した。


「あいつ逃げる気だ!?追わないと!」


慌てて言ったがメロンちゃんはキョトンとしている。


「何やってるんだ早くしないと!」


「あの人を殺す事はできませんよ、人ではありませんから。弱まってはいますが、あれ以上は追い詰める事はできないでしょう、人の力であの人は殺せません。どうせ抜魂人形を他の誰かに持たせているはずです。私の母のように、あいつに利用されるだけ……」


抜魂人形……鏡子から聞かせてもらった話に出てきた奴だ。

メロンちゃんの母親は綾坂の仕組んだ罠により、身代わりとなって殺された。

つまり、今の綾坂を殺す事は事実上不可能……。


ふらふらと走り去る綾坂の背中が遠のいていく。


「くそっ!」


「落ち着いて店員さん……私、言いましたよね?」


「えっ?」


「人には殺せないと……」


メロンちゃんの射すくめるような冷たい眼差しに、怪しい緋が灯るのが見える、その時だった。


「な、何だこれは!?」


綾坂が突然驚くような声を挙げた。


その声に振り向く。


視界の先にある景色がおかしい。

まるで綾坂の目の前だけ空間が歪んで見える。


「な、何だ?一体……?」


目を擦り再度目を凝らす。

その瞬間、綾坂が立ち尽くす場所だけが歪にねじ曲がり、その形を変えた。


「うわあっ!!」


俺は思わず叫び声を挙げてしまった。


それは、巨大な口だ。

綾坂が立っていた地面は艶めかしい赤く長い舌に変わり、天井や地面は鋭い無数の牙に変わっていた。


蛇だ。巨大な蛇の口の中に綾坂は立っていたのだ。


「はは、参ったな……アレさえあればお前如き……」


綾坂がそう口にした瞬間、


バクンッと、巨大な蛇の口が勢いよく閉じた。


ズズンと、大きな地響きが洞窟内に響き渡る。

ズルズルと、巨大な何かが這いずる音が遠ざかっていく中、暗闇の奥で、爛々と光る、爬虫類を思わせる巨大な瞳が、一瞬だけ見て取れた。


以前あれと同じものを見た記憶がある。


あれはそう、街で連日異音騒ぎが起こっていた大雨の日だった。


珍しく店内で怯えるメロンちゃんを目撃した時に遭遇した光景だった。

店の外で見た、歪で巨大な満月。

それは満月などではなく、暗闇に潜む巨大な何かの目だった。


あの時怯えていたメロンちゃんは俺にこう話してくれた。

決して怒らせてはいけないモノだと……。


「い、いい今のって、前に視た……」


「ミシャグジ様……」


「ミシャグジ様?」


聞き返す俺にメロンちゃんは小さく頷いて見せた。


「古来よりこの地に根付く古きモノ……穢れた者を祟る神様として崇められています……」


「穢れた者……じゃ、じゃあ綾坂は?」


「アレに飲み込まれた者は、未来永劫、生と死の狭間で永遠の苦しみを与えられます。私とあいつはミシャグジ様に付け狙われていました。この世に穢れをもたらす者として……アレから逃れる方法は二つ。アレよりも強い力をその身に宿すか、もしくは徳を増やすこと」


「と、徳?徳ってあの、良い行いをするとか、徳を積むとか言うあの?」


「はい、穢れを少しでも払い、アレから目を反らす方法です。店員さんのおかげでだいぶ払えたようですね」


「お、俺のおかげってどう言う」


そこまで考え、俺はふと店の中で起こったこれまでの出来事を思い返していた。


店を徘徊していた少女の生首から俺を助けてくれた事。

深夜に訪れた老夫婦の幽霊、我が子を手にかけた母親を必死に説得しようとした事件。

事故で亡くなり、汚名を着せられさらに両親まで失った呪い。

深夜に彷徨っていた我が子を思いやり、送り人となって現れた亡霊。

ハロウィンの夜、生霊となって助けを求めた女性の生霊。


あれらはすべてこの時のため……。


なんて子だ……この子は……。


俺は全身から力が抜けるのを感じその場にへたりこんでしまった。


「何してるんですか、早く立ってください」


せかすメロンちゃんを恨めしそうに見ながら、俺はふらふらと立ち上がる。


「おんぶしてください」


「はい?」


急に何を言い出すんだこの子は?


「狐の死骸を探すために何日も山を歩き回ったんです。足が豆だらけです。おんぶしてください」


「あ、あのなあ……はあ、まあいいや、ほら」


俺はなくなくその場でしゃがみ込んだ。


その時だ、


──ゴゴゴゴゴッ


突然、大きな揺れと共に地響きが起こった。


「嘘だろ……!急ごうメロンちゃん!」


だが、その呼びかけに、メロンちゃんは静かに首を横に振って見せた。


「なっ!いいから早く俺の背中に!」


「そんな事してたら二人とも逃げ遅れます。店員さんだけでも逃げてください」


「何言ってんだ!置いてけるわけないだろ!」


「ミシャグジ様、まだ私の事許してはくれないみたいです。さんざん悪い事したからでしょうか……意外とケチですね」


「こんな時にそんな事言ってる場合じゃないだろ!!」


「なぜ……」


メロンちゃんがぼそりと呟く。


「なぜ?」


「なぜ貴方は、私の事になるとそんなに必死になるんですか……?いつもそう……時には無茶してまで……」


気のせいだろうか、こんな状況なのにメロンちゃんの顔が少し赤くなっているように見えた。


俺は思わず好きだからと言い掛けそうになり、ハッとしてそれを飲み込んだ。


俺は彼女に惹かれている。

それは確かだ。

好きなのだろう。

でも何かが違う、いや、違うというより、俺と彼女の関係性は、初めて会った時から決まっていたのだ。

そう、俺と彼女は……。


「決まってるだろ!俺は……俺は君の……」


俯く顔を上げメロンちゃんの瞳を見つめながら、俺は再度口を開いた。


「共犯者だからだ」


その瞬間、崩れ落ちる洞窟内の中で、俺は一瞬だけ、初めてメロンちゃんの笑顔を見た。どこまでも可愛らしく、愛しい笑顔を……。




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